*『海辺のカフカ』再読

海辺のカフカ 全2巻 完結セット (新潮文庫)

海辺のカフカ 全2巻 完結セット (新潮文庫)

 年末年始でまとまった時間ができた。
海辺のカフカ』は、それ以前に発表された『ねじまき鳥クロニクル』や『ダンス・ダンス・ダンス』で、(ちょっと違うな・・・・)としばらく感じていた彼の作編への想いを久しぶりに(村上ワールド)っぽく感じさせた作品なので、大変お気に入りの作品だ。『1Q84』が発表されるまで『羊をめぐる冒険』の次に好きな作品だった。それにしても2002年発表、当時読後に感じたあれこれよりも、自分自身や自分の環境が大きく変わった。だから久しぶりに再読しようと思ったわけだ。
 大好きな作品でも(それは映画であっても小説であっても)大まかなことしか覚えていないもので、ジョニーウォーカーカーネルサンダースが出てきて初めて、(あぁこういうキャラいたなぁ)とは思い出すのだが、肝心のエンディングが覚えてない。『ノルウェイの森』再読の時は、覚えているエンディングにまっしぐらなので、ちょっと悲しかったが。
 アントン・チェーホフが出てきた時に、『1Q84』より前にこっちに出てきたことはすっかり忘れていた。「もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」うまいことを言う。ドラマツルギーの単語も忘れていた。多分すぐに忘れるだろう。
 「・・・・ひとりでいるときに相手のことを考えて、哀しい気持ちになることはある?」
 「もちろん」と彼は言う。「おりにふれてある。とくに月が蒼く見える季節には。とくに鳥たちが南に渡っていく季節には。とくに−」
 こういう掛け合いが、春樹そのものだ。その感じが好きだ。だけれど、哀しいかな、自分には「月が蒼い」というのがいまだに分からず生きている。次の部分も好きだ。
 「誰もが恋をすることによって、自分自身の欠けた一部を探しているものだからさ。だから恋をしている相手について考えると、多少の差こそあれ、いつも哀しい気持ちになる。ずっと昔に失われてしまった懐かしい部屋に足を踏み入れたような気持ちになる」
 主人公の僕はこういう話を一瞬に理解できるのだろうか。弱冠15歳だ。意外に15歳は殆ど何も知らない。しかし一部の秀才の子達は、たとえばドラマツルギーという語彙も既に知っているのだろうか。それは羨ましいような、しかし少し窮屈な感じもしないではない。
 いよいよラスト50P。早く先を読みたい気持ちともう終わってしまう寂しさとかが織りなす時間だ。わざと中断して書いてみた。