木ヲ植エル

来日4年目の生徒二人と『ミラクル』を読み終わり、今はジャン・ジオノ作『木を植えた男』を読んでいます。
フレデリック・バックの絵に惹かれたのか、本を見せると二人とも『ミラクル』の時と同じように読んでみたいと身を乗り出しました。

木を植えた男

木を植えた男

ところがたまたま古本屋で同じ原作を原みち子が訳した『木を植えた人』を手に入れたので、念のため「どっちが読みやすい?」と聞いてみると、二人とも原みち子訳の方がいいと言うのです。挿絵もなく、振り仮名もあまり振ってないので二人にとってはとっつきにくいのではないかと思っていたのに、これは意外でした。
木を植えた人

木を植えた人

僕には寺岡襄訳の方がよくこなれた日本語として好ましく感じられ、音読していてもリズムの良さが心地良いのです。比べてみると例えばこんな具合です。

(寺岡訳)そのころのわたしも、十代半ばでありながら、
一人さびしく生きていたので、孤独な魂とひびきあう
こまやかな心を持っていた。でも、やはりまだ若かった。
わが身の幸せと将来の夢に、とかく気をうばわれがちだった。
そこで、かれにこういった。
「もう30年もすれば、1万本のカシワの木が、りっぱに育っているわけですね」
するとさりげなく、かれはこたえた。
「もし神さまがこのわしを、もう30年も生かしてくださるならばの話だが……、
そのあいだ、ずうっと植えられるとすれば、今の一万本なんて、
大海のほんのひとしずくってことになるだろうさ」

(原訳)そのころの私は若年にもかかわらず自分自身孤独な生活を送っていたので、繊細な心づかいで孤独な魂に接するすべをこころえていたつもりだったが、つい、うかつなことを口にした。若かった私は、まさに若さゆえに、どうしても未来を自分自身および自分の幸福の追求と関連させて考えてしまいがちであった。それで、三〇年たつとその一万本の樫はどんなにみごとになっているでしょうね。といった。羊飼いは、もし神が命を預けていてくだされば、三〇年の間にいまの一万本が大海の一滴に等しくなるほどたくさんの木を植えているだろうと、静かに答えた。

この比較だけでも両者の違いは明白だと思います。僕はフランス語はわからないので原作との比較はできませんが、原訳の方がやや欧文脈に近い、つまり翻訳調でやや硬い感じです。その点が、かえって生徒二人にとっては馴染みやすいと感じられるのでしょう。(ちなみに彼らの母語は、一人はスペイン語、もう一人はフィリピン語です。)
そんなわけで、寺岡訳の『木を植える男』を脇に置いてその挿絵をときどき参考にしながら、原訳の『木を植えた人』を少しずつ読み始めたところなのです。二人の心に大きな木が育つことを目指して。