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2006年10月31日

mf-fagott2006-10-31

[]「結社」へのためらい 「結社」へのためらいを含むブックマーク 「結社」へのためらいのブックマークコメント

何事であれ技術を磨くには良き師に就くのが一番でしょう。
俳句の場合は、「結社」誌上で「主宰」の選をうけたり添削を受けたりするというのが上達の王道とされているようです。
僕もオーケストラ活動の方を一時中断して、「主宰」に師事してみようか、などど考えないこともないのです。いい俳句をたくさん作って、句集の一冊も出せたらすばらしいな、なんて…
しかし、「結社」にはどうしても近寄り難さを覚えてしまうのも事実です。前回取り上げた寺山修司俳句入門』の中にも次のような箇所が見つかります。

 定型詩人の多くは結社という一つの共同体を作りだしたが、それは相互慰藉集団という意味で新興の信仰団体によく似ている。結社はいわば一つの村社会であるに過ぎない。にもかかわらず、彼等が必要としたために村社会は生まれたのである。
 今日、「アララギ」にしても「ホトトギス」にしても、それが価値創造の団体でないことははっきりしている。

(『思想への望郷』昭和51年7月)

 いわば俳人共同体のなかで交代で他人の作品の読者になったり作者になったりしているという孤独な操作は通俗宗教でしかないように私には思われるのである。
(」『俳句』1959年9月号)

 俳句雑誌には大抵、同人欄と会員欄があって、同人は無鑑査のままで作品を掲載できるが、会員は主催者の選をうけなければならない。
 そのランクは、一番前に出るのが巻頭といって一位、以下地域順に並んでいて、最後は一句組といって「一兵卒」が、地域別に並ぶという仕組である。今月百四十位だったものが来月百二十位に載るということは、そのまま「出世」に一歩近づくことであり、それが二、三人に追い抜かれるということは、階級が下がったということになる。
 そこに働く物理的変化は、三十日周期で実にはっきりと上下してゆくので、投稿者は自分の作品の実力ばかりでなく、選者への贈り物、挨拶まわりにも意を払うようになる。十七音の銀河系。この膨大な虚業の世界での地位争奪戦参加の興味は、私に文学以外のたのしみを覚えさせた。私は、この結社制度のなかにひそむ「権力の構造」のなかに、なぜか「帝王」という死滅したことばをダブルイメージで見出した。
 帝王、しかし書斎の山羊め!
 たかが活字のついた紙ばかり食いやがって。
(『誰か故郷を想わざる』昭和44年64月)

三つ目の文章など、かなり激烈です。もちろん、これらの文章は様々な顔を持った「結社」の一面だけにことさら強い光を当てているようにも思われますし、書かれてから既に少なからず時間がたっていますから、必ずしも「結社」の現在を正しく照らし出してはいないかも知れません。
しかし、次のような作品を発表している俳人が存在しているという事実も気にかかります。

 おばさんが主宰と名告り笑はせり
 和を以つて文學といふ座談會
 高濱家膳の多さぞ御慶なる
(セレクション俳人12『筑紫磐井集』より)

まあこれは、もっぱら「ホトトギス」を狙い撃ちしたものではありますが、「結社」一般に対する風刺を含んでいるとも読めるでしょう。
いずれにしても、今の僕には俳句がうまくなりたいという気持ちがある一方で、「結社」に飛び込むには少々ためらいがあるというのも事実で、よほどのきっかけがないかぎり「結社」の門をたたくことにはならないでしょう。(正直なところ、『山月記』の李徴の言う「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」なるものの存在も自分の中に認めざるを得ませんが…)
というわけで、毎月締め切り当日の夜中に家を抜け出して、「総合誌」の投句用はがきをポストに入れに行くなんてことが今後もしばらく続きそうです。

2006年10月29日

[][]異色の「俳句入門」 異色の「俳句入門」を含むブックマーク 異色の「俳句入門」のブックマークコメント

寺山修司俳句入門』という書名を発見して、僕は一瞬目を疑いました。
「え?! あの寺山修司俳句の入門書を書いていたのか…」
寺山修司といえば、

 ラグビーの頬傷ほてる海見ては
 便所より青空見えて啄木
 わが夏帽どこまで転べども故郷

を残した俳人として、また短歌の方では、

 ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し
 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

などの作者として、僕の中では以前から決して小さな存在ではありませんでした。(演劇に疎い僕にとって、そっち方面については「天井桟敷」の主宰者という知識がある程度ですが。)

それにしても寺山修司俳句に熱中したのは十代のほんの一時ではなかったのか。
それに、俳句に「入門」するとは「結社に入る」とほぼ同義であるというのが現状なのに、寺山修司が特定の結社に深く関わっていたという認識は僕にはありませんでした。その寺山修司が「入門書」を書くはずがないではないか。

寺山修司の俳句入門 (光文社文庫)

寺山修司の俳句入門 (光文社文庫)

読み進むにしたがって、「そういうことだったのか」と了解しました。これはやはり寺山修司俳句の初心者に向けて書いた本などではないのでした。寺山によって書かれた俳句に関する文章の中に齋藤慎爾(俳人、巻末の解題も担当)による入門者向けのコラムを織り込んで、「入門書」の体裁はとっているものの、実態は寺山修司俳句文学への手引きといった趣の本なのでした。
そ、それにしても文学青年としての寺山の何と早熟なこと! こ、これが高校生の書いた文章なのか! 「青校新聞」に寄せた記事や同人誌で行った座談会の発言などをみても、俳句への深い理解、当時の俳壇に対する厳しい批評眼を見せつけられ、驚いてしまいます。
そんな寺山が二十歳そこそこで俳句と「絶縁」し、他の表現領域に移って再び俳句へと戻ってこなかったのは、俳句好きの者にとっては残念でなりません。

  カルネ――〈俳句絶縁宣言〉
夏休みは終わった。僕は変わった。
しかし僕は変わりはしたが、立場を転倒したのではなかった。
青年から大人へ変わってゆくとき、青年の日の美しさに比例して「大人となった自分」への嫌悪の念は大きいものである。
しかし、そのせいで立場を転倒させて、現在ある「いい大人たち」のカテゴリイに自分をあてはめようとする性急さは、自分の過ちを容認することでしかない。
僕が俳句をやめたのは、それを契機にして自分の立場に理由の台石をすえ、転倒させようとしたのではなく、この洋服がもはや僕の伸びた身長に合わなくなったからである。
そうだ。僕は二十才。五尺七寸になった。
 …
ふたたびぼくは、俳句を書かないだろう。
 …

(「青年俳句」昭和31年12月)

つまり寺山は俳句と「絶縁」したとはいえ、俳句に熱中していた自分自身も、俳句という形式そのものをもこの時否定したわけではありません。彼の表現への意欲が、俳句という小さい器からこぼれ始めてしまったのです。だからこそ自分たちが始めた『牧羊神』という同人誌を見捨てることなく、信頼する仲間たちに後を託すのです。そして、実作者ではなくなった後も、言わば俳壇の外の人間として俳句について発言を続けます。
この本は、「絶縁」以後のそれらの文章も含めた、寺山の俳句観の集大成といった趣を持った本だと言えるでしょう。書かれてから既に何年も経っていながら、今の俳句界に対する問題提起とも読める興味深い文章が並んでいます。その中でも僕は寺山が「結社」について触れたと思われる部分について、もう少し書きたいのですが、長くなりそうなのでそれは次の機会に回したいと思います。

2006年10月18日

[] 少年の追う「夢」とは  少年の追う「夢」とはを含むブックマーク  少年の追う「夢」とはのブックマークコメント

ペルーから来た生徒が、「Paulo Coelho」とノートに書いて、「この人の本はペルーではすごく人気があって日本語にもなっているはずだからぜひ読んでみて」と言うので調べてみたら、それはアルケミストという小説で角川文庫から出ていることがわかり、さっそく読んでみました。

アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫)

アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫)

正直言って、僕はこの本を本当に理解するにはもう何回か読まなければならないし、著者の思想的・宗教的背景などについて調べなければならないのではないかと思いました。単なる冒険譚として読めなくもないのですが、この小説には今の僕にはとても汲み取りきれない奥深い意味が隠されているに違いないのです。
主人公の羊飼いの少年は同じ夢を二度見ます。子供が少年をエジプトピラミッドのそばまで連れて行き「あなたがここに来れば、隠された宝物を発見できるよ」と言うのですが、二度とも正確な場所を聞く前に目が覚めてしまいます。それをきっかけにして少年の砂漠の向こうへの長い旅が始まります。
ピラミッドにたどり着くまでの道中、少年は様々な人と出会い、恋を経験し、「人生」について多くのことを学びます。
また、作品中には人生への深い洞察を宿していると思われる謎めいた箴言がちりばめられています。それらの箴言の意味するとことろを少年は体験によって理解していくのです。(そういう意味ではこの作品は一種のビルドゥングスロマンとも言えそうです。)
しかし僕にはこの小説が全体として伝えようとしていることが、一読して理解することは出来ませんでした。
訳者は「あとがき」で次のように言います。

現代人は夢を忘れてしまった、と良く言われます。子供たちは学業に追われ、自分の本当の夢が何であるか、覚えている暇も見つけ出す機会も失っています。夢を諦めずにその夢を生きることがいかに大切であるかを、この本は私達に教えてくれてくれるのではないでしょうか。

この「あとがき」は僕をますます混乱させます。
「夢」には「睡眠中の幻覚。ふつう目覚めたときに意識される。」という意味の夢と、「将来実現したい願い。理想。」という意味の夢があります(『広辞苑』第5版より)。訳者が「あとがき」で言う「夢」はもちろん後者の意味ですが、羊飼いの少年を突き動かしているのはむしろ前者の「夢」の方であることは明らかです。
少年は自分の「夢=理想」を捨てずに生きようとする強い意志を持った少年というよりは、自分の外にある大きな力によって定められた運命に忠実に生きる賢さを学んだことで、幸せをつかむことができた少年として描かれているように、僕には思われるのです。そして、そうした生のありようには、日本人の死生観とはかなり異質な宗教的な背景(イスラム教?)があるに違いないと思えてならないのです。
この作品が不思議に満ちた魅力的な作品であることは確かです。あの『星の王子さま』に並び称されるほどの賞賛を浴びたとのことですが、何十万人にも及ぶ読者がこの本から何を読み取っているのか、ぜひ知りたいところです。まずは、この本を僕に勧めた生徒と語り合ってみようと思います。

KeikoYKKeikoYK 2006/10/24 22:54 初めてきました。これから、ゆっくり読ませていただきます。
ちゃんと、YCSの宣伝もしているのですね。偉い!

mf-fagottmf-fagott 2006/10/25 20:46 演奏会と同じで、ブログもお客さんが多い方が張合いがあります。
ときどき覗いてくださいね。

Vn.kf.Vn.kf. 2006/10/28 00:23 はじめて見ました。これから、時々お邪魔します!

2006年10月16日

[]「のだめ」って、女の子の名前だったんだ! 「のだめ」って、女の子の名前だったんだ!を含むブックマーク 「のだめ」って、女の子の名前だったんだ!のブックマークコメント

のだめカンタービレのテレビドラマを観てしまいました。
クラシック音楽家を題材にしたコミックだということは随分前から知っていましたし、表紙がファゴット吹きの時もあったりで気にはなっていたのですが、僕はあまりコミックには興味がないもので、今まで読まずにいたのです。だいぶ前に『神童』という天才音楽少女が主人公のコミックが面白いという評を読み、全巻買って持っているのですが、あまり印象がなく、最後まで読んだのかどうかも記憶が曖昧です。

神童 (1) (Action comics)

神童 (1) (Action comics)

ところがこの「のだめ…」の方は、最近だんだん知名度が上がり、某大学の「えらい」先生も全巻読んだなどと御自分のブログに書いてあるのを見たりして、僕もいよいよ気になり始めていたのです。
で、ドラマの内容ですが、僕の興味のある世界の話でもあり、ヒロインの女の子もかわいいし(「のだめ」って何かと思っていたら、ヒロインの呼び名だったんだ!)、そこそこ笑える場面もあるので、来週も見てみようかなという気になっています。
モーツァルトの2台のピアノのための曲と言うのはこの番組で初めて聴いたのですが、なかなかの名曲のようですね。愛用の三省堂クラシック音楽作品名辞典』で調べると、「2台のピアノのためのソナタ」というのはK.448とケッヘル番号なしの2曲がありますが、もちろんあれはK.448の方なんでしょうね。全楽章ちゃんと聴いてみたいと思いました。

さて、ここでコマーシャルです。
僕がファゴット吹きとして所属する横浜シティ・シンフォニエッタの定期演奏会がいよいよ次の土曜日にあります。曲目はモーツァルトピアノ協奏曲No.20、交響曲No.41など、すべてモーツァルト。詳しくは当団のHPをご覧下さい。
客演のピアニスト伊藤憲孝さんは、海外でも活躍されている若手の実力派ですが、指揮の先生にもついて勉強されているということです。将来は指揮者を目指しているのかな。なんだか「のだめ…」のかっこいいヒーローと重なるところがあるなあ、なんて今日ドラマを見ながら思ってしまいました。

2006年10月08日

mf-fagott2006-10-08

[]挑戦的なモーツァルト 挑戦的なモーツァルトを含むブックマーク 挑戦的なモーツァルトのブックマークコメント

昨晩、グリーンホール相模大野で行われた、ダニエル・ハーディング指揮マーラー・チェンバー・オーケストラの演奏会を聴いてきました。モーツァルト交響曲第39、40、41番、いわゆる後期の三大交響曲を一晩で聴かせるというなかなか豪華なプログラムでしたが、演奏もまた聴き応えのある充実したものでした。
ハーディングの解釈は実に斬新かつ大胆で、聞きなれた名曲のどれもが魔法にかけられたかのように新鮮な相貌を帯びて私たち聴衆の前に立ち現れてくるのです。
音楽自体の前に進もうとする自然な力に抗ってでも、部分部分のコントラストを際立たせ、細部の響きや一つ一つのフレーズの歌わせ方において新しい可能性を引き出していこうとするのがハーディングのやり方のようです。こうした演奏はおそらく演奏家にとっては相当の神経の集中を強いるものに違いなく、また聴き手にもまたそれなりの緊張を要求するものです。そういう点では、モーツァルトの旋律に身を任せてくつろいだ時間を過ごそうとする人には不向きな演奏だったかもしれません。僕自身、40番の4楽章、41番の1楽章に関しては、自然な流れを犠牲にしたことによるマイナス面の方が強く感じられて、やや不満ではありました。(モーツァルトではなくハーディングの音楽になり過ぎていたという言い方も出来るかも知れません。)
とは言うものの、全体的にみれば、新鮮で刺激的なモーツァルト像を示してくれた若き指揮者の才能と、その要求に応えたオーケストラの高度な演奏技術(重大な事故もありましたが…)は、十分過ぎるほどの満足を与えてくれたのでした。

■追記(10/12)
朝日の夕刊に、岡田暁生氏によるハーディングの演奏についての評が載っていました。8日に京都で行われたモーツァルト交響曲6番とブラームスの交響曲2番のプログラムの方です。(これは僕は聴いてませんが…)「『面白いことは何でもしてやろう』といういたずら小僧のような好奇心が、どこかポップな遊び感覚を添える」とはなかなか本質を突いた表現です。ブラームスについて「全体の大きな方向を決めてから部分を演繹するのではなく、細部の『仕掛け』から出発するせいで、どうしてもダイナミズムが失われてしまうのである」とあるのは、僕が上に書いたモーツァルトに対する「不満」とも重なると感じました。

■追記その2(10/14)
NHK(BS2)でハーディング指揮のモーツァルトピアノ協奏曲No.20を聴きました。生気みなぎる爽快な演奏で、特に木管(中でもオーボエ)のつややかな音色と表情豊かな歌い方に魅力を感じました。でも、ピアノ(ラルク・フォークト)の弾き方はややラフなところがあったように思うのですが、どうでしょう?

弘明寺太郎(YCS)弘明寺太郎(YCS) 2006/11/02 01:32 こんばんは。演奏会お疲れ様でした。
私もハーディング聞きたかったな…。
しかし、こちらのブログ、ずいぶん充実していてすごいですね。
私もクルマ買った勢いでヘタレなブログ始めました。
こちらをリンクさせていただきます。
あ、あと、明日ノリントン N響聴きに行きます。ではまた。

mf-fagottmf-fagott 2006/11/02 21:50 「YCSの弘明寺太郎さんてどなただったかなあ」って、しばらく悩んでしまいましたよ。何しろ団員の名前覚え切れないくらい多いですからね!!
僕も最初に乗った車はホンダのシビックでしたよ。よくエンストしました。ヨーロッパの車はデザインが魅力的ですね。
では、今後ともよろしく。

2006年10月02日 学校の勉強の一歩先 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

高校の勉強って、面白くなる一歩手前で終わってしまうんですよね。
そのいい例が古典文法。 古典文法を面白がって勉強する生徒って、今まで出会った記憶がありません。(僕自身も苦手でした。)「ぞ」「なむ」「や」「か」の結びは連体形、「こそ」の結びは已然形なんて、単なる暗記事項で終わってしまうのですから文法嫌いになるのも無理はありません。
でも、同じ強調でも「ぞ」「なむ」「こそ」の違いは何なのか、同じ疑問でも「や」「か」の違いは何なのか、そして係り結びは今ではどうしてなくなってしまったのか、などについて深く掘り下げてみると、実はなかなか興味深い問題だと言うことがわかります。授業でもそこまで踏み込んだ話ができればいいのですが、時間の関係でとかく通り一遍の説明で終始してしまいがちなのが残念なところです。
岩波新書『日本語の歴史』(山口仲美著)は、現在の日本語を歴史的な流れの中に位置づけ、これからの日本語について考えるための、実によく出来たテキストだと思います。この本が、日本語の長い歴史を小さな「新書」という器に詰め込みなながらも無味乾燥な「教科書」に成り下がっていないのは、トピックの設定の仕方がうまく、現代の日本語に直結する重要な事項については具体例を豊富に挙げながら適度に掘り下げて、読み物として面白くかつ分かりやすくまとめることに成功しているからです。特に明治以降の言文一致文が出来上がるまでの紆余曲折を書いた第江蓮言文一致をもとめる」は、僕にとっても発見があり、興味深く読むことが出来ました。(もっとも口語文成立の事情についてはかつて読んだ中村真一郎『文章読本』に詳しく書いてありましたが、随分前のことで内容は忘れてしまいました。)
こういう本を読んで、学校の勉強の一歩先にある本当の勉強の面白さに目覚める高校生が増えるといいのに、と思います。もちろん、僕はさっそく授業で生徒に紹介するつもりです。なにしろこの本、「岩波新書」というより、「岩波ジュニア新書」か「ちくまプリマー新書」の中の一冊として出ていてもおかしくないような読みやすい本ですから。

日本語の歴史 (岩波新書)

日本語の歴史 (岩波新書)



■追記(12/3)
「漢字以前に日本人も文字を持っていた」なんて話ができたら、生徒も目を輝かすんだろうけど… 

http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/

tomtom_poemtomtom_poem 2006/10/05 00:41  山口仲美さんは擬音語の研究で有名になった方ですよね。(『犬はぴよと鳴いていた』光文社新書など)この本も気になっていたのですが、今度読んでみますね。

蘊恥庵庵主蘊恥庵庵主 2006/12/03 19:59 トラバありがとうございました。これはなかなかいい本ですね。mfさんがおっしゃるように、生徒に読ませたい本です。ただ、私はいつもそうなんですが、こういう本を読んで興味を持ってしまい、国語学(って今は言わないのか)やら言語学をやりたい!っていう生徒が出てきちゃうことを心配するんです。なにしろ仕事になりませんからね。国語にはなるべく魅力を感じないように教えてます(笑)。

mf-fagottmf-fagott 2006/12/03 20:27 それって、視聴率の高い授業をしているという自負があるからこそ言える冗談ですよね。羨ましいかぎりで…

2006年10月01日

[]再び、田中雅仁先生のこと 再び、田中雅仁先生のことを含むブックマーク 再び、田中雅仁先生のことのブックマークコメント

今日オーケストラの練習の時、いつも並んでファゴットを吹いているM君が歌集『伽羅の香』(田中博子著)を持ってきて、貸してくれました。この本のことを「折々のうた」で知ったことは以前書きましたが、先週そのことをM君に話すと、さっそく買って読んでみたと言うのです。僕を田中雅仁先生に紹介してくれたのはこのM君で、僕よりもずっと早い時期から先生のレッスンを熱心に受けていましたが、お母様が歌人でいらしたことはやはり知らなかったそうです。
巻末の著者略歴を見て、田中博子さんは定年退職するまで都立の高校に勤めていて、作歌歴は半世紀以上の長きにわたる方であることを初めて知りました。「辛くて、涙なしには読めませんよ」と言いながら手渡してくれた本を、練習の休憩時間にさっそく広げて読んでみましたが、息子と夫とにほぼ同時に先立たれた女性の心の有りようが率直に伝わって来ると同時に、先生の在りし日の姿が髣髴として、こみ上げてくるものを押さえることは出来ませんでした。

  親よりも大切なりし楽器持ち颯爽とゆく最後の姿
  心籠めし楽を奏して汝は逝けりCD十余枚に証を残す
  足早の子よ少し待て十日後に汝を追ふ父の手を曳きてゆけ

先生が凌霄花がお好きだったことも歌集を読んで知ったことの一つです。

  子の愛づる凌霄花返り咲く復活あらば子よ還り来よ
  子の残す凌霄花 白曼珠沙華そを賞づる父も汝を追ひて逝く

レッッスンのために荻窪のお宅に伺うと、お父様が庭の手入れをされている姿をお見かけすることが何度かありました。

歌集 伽羅の香 (21世紀歌人シリーズ―沃野叢書)

歌集 伽羅の香 (21世紀歌人シリーズ―沃野叢書)

バスーンのためのフランス作品集

バスーンのためのフランス作品集

Jack-manJack-man 2010/05/15 03:33 改めて、冥福を祈るとともに、最期をご一緒できなかった後悔も湧いてきます(可知日出男)。。