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僕が線を引いて読んだ所 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2006年11月24日

[]「可能性の苗木」を育てる  「可能性の苗木」を育てる を含むブックマーク 「可能性の苗木」を育てる のブックマークコメント

『星の王子さまの世界』(塚崎幹夫著、中公文庫)の「エピローグ」は短い文章ながら、深い思索と豊かな経験に裏づけされた、実に魅力的な「読書論」となっています。

 ジャンルや表現様式の約束に縛られてのいい残しを、多かれ少なかれ含まない作品はない。作品は常に作者の意図に及ばない。より強くいえば、作品はつねに断念され損なわれた作者の意図である。貧しくなっている状態において味わうよりは、作者のより完全な意図にもどしてながめたほうが、作品は当然より興味深くなるであろうし、読者にとっても得るところが多いであろうと思われる。(p177)
 作品は作者には最後の希望かもしれないが、読者には可能性の苗木でしかない。作者の体験を追体験するためのことばの見取り図にすぎない。事物の第三次元をもともと欠いている。書物は本来かならず補って読まれるべきものなのである。しかし、相手が黙っているのをよいことに、束縛され自由を失った作品の手足をさらにもぎ醜く変形させて、自分のほうが偉いように見せたい批評家たちには、魅力のない読書法かもしれない。最高の状態の相手と戦うことを名誉とした騎士道や武士道の精神も、彼らには残っていない。彼らは読書術を書物の調理術をとらえているようである。私は書物の園芸術と理解している。書物という苗木をめいめいの心に根づかせて、枝葉を十分に茂らせ、できるだけ複雑で大きな花を咲かせる企てなのだからである。(p178-188)

この引用部分に限らずこの「読書論」はどの部分も、謎に満ちた作品である『星の王子さま』の深い読みに裏打ちされた強さを感じさせるだけでなく、卓抜な比喩を用いた語り口そのものが僕に文章を読む快感を与えてくれました。
ところで「約束に縛られてのいい残し」という部分は、僕の頭の中ですぐに俳句を「詠む・読む」ことと結びついてしまったのですが、これについてはまた機会を改めて書くとしましょう。
今日は「園芸術」という巧みな比喩に触発されて思いを巡らしたことについて、書き添えておきたいと思います。
それは、僕たち国語の教師は「損なわれた作者の意図」としての生徒の文章をも「可能性の苗木」ととらえることが必要なのではないか、ということです。
我々は生徒の作品に「赤」を入れるということをします。つまり「添削」です。それは表現を正し、作品の完成度を高めるために必要な指導の一つとしてだれもが行うことです。しかし、同じ「赤」を入れるにしても、生徒の文章を「可能性の苗木」と捉えるか否かで、その効果には微妙な違いが出てきそうです。教師の書き込みで真っ赤になった生徒の作品が、実は教師により「調理」された教師の作品になってしまっていることがないでしょうか。もとの「苗木」が伸びようとする方向に「赤」を入れてやるのでなければ、その添削は生徒自身が葉を茂らせ、花を咲かせる力を伸ばす手助けとはなり得ないはずです。
何十人もの生徒の作品を読み、添削し、点数をつけることは実に苦痛な仕事ではあります。しかし、自分を「可能性の苗木」を育てる園芸家ととらえることで、生徒の未熟な作品に向かう時の意識も変わってくるかも知れません。