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僕が線を引いて読んだ所 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2006年12月19日 「愛国」という技術 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

「教育基本法」の政府案が衆院で可決されてしまいました。懸念されることの一つは「愛国心」の強制です。既にどこかの小学校で行われた「愛国心」の「評価」などということがあちこちの学校で始まったらと思うと、憂鬱になります。

愛国の作法 (朝日新書)

愛国の作法 (朝日新書)

しかし、姜尚中『愛国の作法』を読んではっとさせられたのは、そもそも僕たちは「国を愛する」というときの、「国」にしても「愛する」にしても、その意味を深くは考えていなかったのではないかという事実に気づいたからです。
著者は、そもそも「愛するとはどういうことか」という根本から書き起こします。著者はエーリッヒ・フロムの著書を援用しつつ、「愛するということは、生きることが技術であるのと同じように、一つの技術なのです」と言います。(僕はここで、最近読んだ『星の王子さま』を思い出してしまいました。あの「王子さま」は地球に来て初めて、自分の星に一輪のバラを置き去りにしてしまったのは、その愛し方を知らなかったからだ、と後悔するのです。)そしてさらに次のように続きます。

愛することが技術である以上、技術は習得されなければなりません。そしてその習得の過程は、理論と習練のふたつの部分から成り立っています。…国を愛することや愛国心もこのプロセスを踏んでいく必要があるはずです。


また、別の場所では次のようにも言います。

…「愛国心」の涵養を説く人々の中には、自分が生まれ、育った国を愛するのは「自然な」感情であり、それがないのが「不自然」だと訝しがる人が多いようです。
また「愛国心」の強制に反対する人々の中にも、その国を愛するのは「自然な」感情なのだから、法律や条令、規則で押しつけるのは筋違いだという異論が多いようです。つまり「愛国心」を強制する側も、それに反対する側も、国を愛すること、「愛国心」は「自然な」感情であるという考えでは一致しているわけです。果たしてそうでしょうか。

著者は、国を愛することは、家族や郷土を愛する自然的愛情の「同心円的な拡大」ではないと言います。なぜなら、国とは家族や郷土と違い、「一定の政治的意志」を持ち、「憲法=体制を通じて国民の共通の課題や利益の達成を図ろう」という「作為」を通じて形成されたものだからです。また、国家は「最高の奉仕」として「人間の生命の放棄」を求めるという点で、「人間の自然的感情」とかけ離れていると言い、次のように続きます。

だからその溝を埋める役割が、教育に期待されてきたわけです。つまり、国民が国家に対して与えようとするものと、国家が国民に要求しているものとの間の距離は、教育の力を通じて埋められていくのです。

上の引用部は、教師である自分にとって、とりわけ「国語」を教えている自分にとって、ずっしりと迫ってくるものがあります。「国語」とは、そもそも体制維持のための作為の産物なのであって、それを教え、評価している自分は既に「愛国心」を教え評価することを生業としているとも言えるのですから。
つまり、「愛国」という言葉を忌避し、それを一部の(右寄りの)人たちの占有物にさせておくのではなく、この言葉と真正面から向き合い、その向こう側に日本の理想像を作り上げようとする著者の態度は、僕らのような仕事をする人間にこそ強く求められているはずなのです。

蘊恥庵庵主蘊恥庵庵主 2006/12/22 09:36 私も最近のテーマは「愛国」です。たまたま星の王子さまも再読しました。サン・テグジュペリや市丸少将の手紙を読むにつけ、自分は国を愛しているのか、また愛すべきなのか、そして「愛」と「命」の関係はなんなのか、また教師として、また国語を扱う者としてどうふるまえばいいのか、本当に迷うことが多いんですね。迷うというか全然分かってないんです。ただ、mfさんもおっしゃるように、賛成にせよ反対にせよ原理主義に陥ってしまうことだけは避けたいと思っています。私は基本的に「愛国」という言葉や精神は嫌いではありません。これはたぶん生理的なものなので仕方ないと思っています。ただ、仕事上はそれを「なんとなく」ではすませられないのですね。そこが苦悩するところです。ホント難しいですね。まあとにかく、評価っていうのはナンセンスです。だって評価する側がこんな調子なんですから。というか、生徒に私の愛国心を評価してもらいたいですよ(笑)。

mfmf 2006/12/22 20:48 コメントありがとうございます。このブログ、アクセス数は決して多いとは言えませんが、何人かの方はしっかり読んでいただき、時には問題意識を共有して下さることもあるので張合いがあります。
僕は「国旗」「国歌」や「愛国心」の「強制」には断固反対の立場ですし、時には国会前まで行って「政府は教育に口を出すな!」などと叫んだりもします。しかし、こんな自分と、現に「国語」を教えている自分というのは、ある意味で矛盾しているわけで、この両者の折り合いをつけることは、実はなかなか難しい問題のはずなのです。若いときは能天気なもんで、この点については何も考えずに「日の丸強制反対」などと言っていたものですが、最近はようやく少し大人になり、自分の仕事に対して自覚的になりました。
『愛国の作法』を読もうと思ったきっかけのひとつは、朝日新聞のインタビュー記事の中にあった「日本へのラブコールのつもりでした」という著者の一言です。さきほど書いた「矛盾」に折り合いをつけるのことができるのは、この「日本へのラブコール」という一点においてしかありえないでしょう。もちろんこのラブコールが、戦前によく似た危険な状況にあると言われる現在の日本ではなく、危機を乗り越えた先にある平和で心豊かに暮らせる日本に対してのものであることは、言うまでもありません。