「おじさん」の本当の意味

「おじさん」的思考

「おじさん」的思考

ワケあって、自宅謹慎を余儀なくされている僕は、この災いを福と転ずべく、元旦からせっせと読書に励んでいるのであります。
まず最初に読み終えた本は、内田樹『「おじさん」的思考』
このタイトルには、「おじさん」のことだから少々説教くさいことや反発をかうようなことを言うかもしれないけど大目に見てくれよ、という自己弁護というか自嘲的ポーズというか、あらかじめ逃げ道を用意しておこうとするいやらしさが透けて見えるような気もしますが、僕もまた「おじさん」の一人としてその手を使うことがあるので、まあよしとしましょう。
そもそもこの本の第三章のタイトルは「『説教』はおじさんの義務であり権利である」です。つまりここで著者は「自分は『おじさん』としておおいに『説教』させてもらうぞ!」と宣言しているのです。で、誰に対して「説教」するのかといえば、当然自分より若い者に向かってです。そもそも「おじさん」とは、若い(または幼い)人が自分より年上のいわゆる「中年」の男性に対して呼びかける言葉ですから、自分を「おじさん」と称すときに相手として意識するのは自分を「おじさん」とみなす若い世代の人たちです。しかもこのおじさんは学校の先生でもあるので、「説教」の中身に「教育」、「学校」、「先生」に関わるものが多くなるのは当然です。そしてまた読んでいるこの自分もまた学校の先生であるので、「教育」、「学校」、「先生」という言葉には過敏に反応してしまうわけなのですね。
たとえば次のような部分…

 必要なのは「知識」ではなく「知性」である。
 「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。
 「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。
 学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。
(中略)
 自分が「何を知らず、何をできないのか」を正しく把握し、それを言葉にし、それを「得る」ことのできる機会と条件について学び知ること、それが学校教育で私たちが学ぶことのほとんどすべてである。
 それさえ提供できれば、すべての場所は「学校」である。(「学校で学ぶべきただひとつのこと」)

「知性」につながらない「知識」をためこんでもたいして価値はない、そしてすべての場所は「学校」たり得るというのは、その通りだと思います。だから、「『学校に通う』ということが複数の教育オプションのうちの一つとなるような制度」に著者同様、僕も賛成です。先日新聞で、立派な肩書きのある人が、学習塾を全廃すれば教育はよくなるというようなことを公の場で言っていることを知ったときは、本当に憂鬱になりました。学校教育にすべてをおっかぶせ、そこに国家が介入していこうという発想です。算盤や書道を教える塾があるように、英語や算数を教える塾があってはいけないのでしょうか?

その他、印象に残った部分をいくつか引用しておきます。

 小学校の段階で「ものを習う」ことを放棄し、「ものを習う」仕方そのものを身につけずに大きくなってしまった子どもは、長じたのちも「自分が知らない情報、自分が習熟していない技術」をうまく習得することができない。対話的、双方向的コミュニケーションの仕方が分からないからである。
(中略)
 このような子どもたちはもちろん大学で何ひとつ学ぶことができない。そして無意味に過ぎた十数年の学校教育の果てに、低賃金の未熟練労働に就くことになるのである。(「大学全入時代にむけて」)

 すぐれた書物は私たちを見知らぬ風景のなかに連れ出す。その風景があまりに強烈なので、私たちはもう自分の住み慣れた世界に以前のようにしっくりなじむことができない。(中略)
 愛したものを憎むようになり、いちどは憎んだものを再び受け容れる、という仕方で、私たちは少しずつ成長してゆく。そのためには幼いときから「異界」と「他者」に、書物を介して出会うことが絶対に必要なのだ。どれほどすぐれた物語であろうと、『ドラえもん』だけでひとは大人になることはできない。
 みなさん文学を読みましょう。(「人は『ドラえもん』だけでは大人にはなれない」)

第四章(「大人」になること――漱石の場合)は、「近代日本最初の大人」としての漱石について論じた文章で、師弟論として読んでも読み応えがあり、また、漱石の作品論として読んでも楽しめる文章です。
次の部分は、上で引用した部分とつながります。

 今の学校教育における「教育崩壊」は、要するに、知識や技術を「学ぶ」ためには「学ぶためのマナーを学ぶところから始めなければいけない」という単純な事実をみんなが忘れていることに起因する。学校というのはほんら何よりも「学ぶマナーを学ぶ」ために存在する場所なのである。

 だから、「知識」や「技術」を持っているということは、「先生」であることの条件にはなりません。著者は「師弟関係では、何よりもまず学ばなければいけないのは、具体的な情報やスキルではなく、師から技芸と知見を継承する「仕方」である。」と言い、「『こころ』の中で先生がその専門的な知識によって「私」の蒙を啓いたという記述はどこにもない。」と言い切ります。さらに、『虞美人草』などの作品を具体的に論じつつ、師と出会うことが「大人」への階梯にとって必須であることを説きます。(このあたりは昨年読んだ傑作『先生はえらい』の内容とほぼ重なります。)

 さて、まだまだ紹介したい部分はたくさんあるのですが、きりがないのでここらでまとめに入りましょう。
 著者は、「『大人にならなければならない』という当為をわが身に引き受けることによってのみ人は大人になるのである」と言い、その意味で漱石を「近代日本最初の『大人』」だと言います。さらに「あとがき」を読むと、著者は漱石の中に「おじさん的エートス」なるものの存在を認め、それをモデルに近代日本人は自己形成を遂げたのだと評価します。
 つまり、「おじさん」とは「大人」の別名に他ならないということになります。だから、『「おじさん」的思考』というタイトルに自嘲的ポーズを読み取るのは実は間違いで、むしろそこに著者自身の「おじさん=大人」であることへの矜持をこそ読み取るべきだったのです。だからこそ、このおじさんの「説教」の多くが、若者というよりむしろ大人になれない昨今のオトナたちに向けられていることは、大いに納得できることなのです。