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2007年02月09日

[]「切れ」の迷宮 「切れ」の迷宮 を含むブックマーク 「切れ」の迷宮 のブックマークコメント

一億人の俳句入門

一億人の俳句入門

長谷川櫂は、俳句の「切れ」には俳句を地の文、あるいは散文的な日常の世界から切り離すための切れ(俳句の前後の切れ)と、句を二つに切るための切れ(句中の切れ)とがあると言います。

 俳句の前後の切れ…/風流の初やおくの田植うた/
 句中の切れ…旅人と我が名呼ばれん/初しぐれ

後者の場合も前後の切れはあるので(/旅人と我が名呼ばれん/初しぐれ/)俳句には常に二つ、または三つの切れがあることになります。そして切れは日常の場面と句との間に、あるいは句の中に「間」を生み出す働きがあると言います。そして、切れの働きを「省略」であるとし、それゆえ俳句を「省略の文芸」と呼ぶことに対して、次のように異を唱えます。

 /旅人と我が名呼ばれん/初しぐれ/

 この取り合わせの句では、前後の切れが芭蕉の旅立ちの場面との間に「間」を生み出す一方で、句中の切れが「旅人と我が名呼ばれん」という芭蕉の思いと、はらはらと音を立てて走りすぎてゆく「初しぐれ」との間にまた別の「間」を作り出している。
 ところが、もし切れの働きを省略と考えれば、この「間」は省略されたもので埋まっていることになる。そうなると、俳句の解釈や鑑賞は省略されているものを復元してゆく作業でしかない。これでは「間」にならない。「間」とは余計なものが入る隙のないすっきりとした空間であり、時間なのだ。
 さらに悪いことには、省略という考え方は自分で句を読むときにも影響する。切れが省略であると考えれば、いろいろいいたいことを我慢して省略した句を作ろうとするだろう。こうして、ものいいたげな、もの欲しそうな句が詠まれる。
 俳句の切れはこれとは違う。いうべきことだけを切り出してくるのである。いいたいけれどいわないことなど、初めから存在しない。
 俳句は「省略の文芸」ではない。「切れの文芸」であり「間の文芸」である。

 僕はこの部分を読んですぐに、外山滋比古のことを思い出しました。外山滋比古はその著書の中で俳句が「省略の文芸」であることを論じていたのではなかったか? そこで久しぶりに本箱の中から『省略の文学』(中公文庫を引っ張り出してきて目を通してみたのですが、やはり「省略」という語は随所に見つかります。

 俳句のような短詩型文学が確立するには、表現圧縮の具体的技法が発達しなければならないが、それを可能にしたのが、切字感覚である。断切による空間表現の発見である。十七音の中では普通の文章方法に従うことはできない。短い詩に余情の豊かな内容を盛るには省略・飛躍の措辞を工夫しなくてはならなくなる。

 切字こそ俳句における省略の詩学の指標で、切字によって、俳句は平俗なことばを自由に駆使しながらも、散文的空虚、平板に堕することを避けることができるのである。文法的論理の圏外に立つことによって、極限までの省略表現が行われる。


ところがもう少し先を読むと、次のような箇所が見つかったのです。これは長谷川櫂の主張とほぼ重なるのではないでしょうか。

俳句は何かあるべきものが省かれていて、あの形になっているのではない。補って完全な形をつくることが可能だというような省略でもない。俳句俳句として充足した表現であって、下手に補充すれば、俳句でなくなってしまう。省略と感じられるのは、散文の文章法と比較したときのことで、すでにのべてきているように、その散文性の超克に俳句の存在がかかっている以上、散文を基準として省略と考えることが当を失していることは明白である。
 削り落とされた究極の形が、彫刻となるのであって、彫刻をわれわれが省略の芸術と呼ばないのであれば、俳句も省略の文学ではない。省略と見られるものがそのまま原型なのである。(中略)
 俳句の表現を省略的と見ない、痩せたことばの美学を前提としてのみ、切字の本質も理解されるであろう。

どうやら俳句にとって最も本質的な「切れ」について考えることは、とんでもない迷宮に足を踏み入れることに他ならないのではないかという気がしてきました。
それにしても、切れ字によって生み出された「空間」を「余計なもの」で埋めることなく、「痩せたことばの美学」を受け容れることが俳句の正しい読み方(詠み方)の前提であるならば、俳句の鑑賞(創作)とはなんとストイックな楽しみなのでしょう。

すいとん大将すいとん大将 2007/02/10 05:09 俳句に限らず、『縛り』が多く、限られたスペースの中でパフォーマンスを行う場合には『切れ』が重要になってくると思います。
いわゆる『緩急、リズムの変化』などというヤツ?
ラグビーでいえば『チェンジ・オブ・ペース』なのかな。小生がかつて目撃した平尾(同志社大→神戸製鋼)のそれは凄かった。ローギアから、いきなりトップギアへ。狭いスペースの中、一対一で相対する相手DFを簡単に抜き去りました。
ある意味『切れ』まくりの典型かも。
ただし、スペースが狭くなくて、敵味方のラインも整っている場合なら、平尾の場合でも『切れ』だけに頼らず、いろんな技を繰り出して局面を突破する=散文的なプレー?=と思います。
以上、相変わらずのスポーツネタへの強引な譬えで恐縮です。
迷宮をますます『増築』してしまったでせうか。

すいとん大将すいとん大将 2007/02/10 05:29 強引な譬えついでに補記。
旅人と我が名呼ばれん=ライン際をゆっくり走る平尾、
初しぐれ=いきなりトップギアへ加速、同時に内側へステップを切る。
牽強付会とお笑いくだされ。

mf-fagottmf-fagott 2007/02/11 17:03 「キレのいいシュート」「あの人は頭がキレる」「キレ味爽快、アサヒスーパードライ」という時の「キレ」も、同じ「キレ」という言葉である以上、俳句の「切れ」とどこか通じるものがあるはずなんですけどね。

すいとん大将すいとん大将 2007/02/11 20:16 おっしゃる通り。
周りの雰囲気、漂う流れを、スカッと変える。
そんな『華』のある表現・パフォーマンスを『切れ』と言う。
なんて、単純に言い切ってしまえば、幸せかも。