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2007年03月04日

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小説の読み書き (岩波新書)

小説の読み書き (岩波新書)

これは文庫で読める24(+1)編の小説を取り上げた作品論・作家論ですが、著者には作品や作家を丸ごとすくい上げてその本質に迫ろうという魂胆はハナからないように見えます。そのかわりこの本には、作家がペンを走らせる現場にずかずかと踏み込んで、現役の作家として解説を加えながら実況中継するといった趣の、一種の臨場感があります。
現場で作家の手元を見つめる著者は、しばしば首をかしげます。どうしてそんなふうに書き出すんだろう、どうしてそんなところに点を打つんだろう、どうしてわざとそんなへたな書き方をするんだろう、僕だったらこう書くのに…
たとえ相手が「小説の神様」であろうと、「文壇の大御所」であろうと、遠慮はありません。だって、みんな物故者だから… いや、少しはそれもあるけど、「収穫した林檎をみがいてみがいてなおみがき足りないような、神経質で潔癖症で臆病」な書き手から見たら、相手が「神様」だろうが「大御所」だろうが、気になるものは気になるのです。
たとえば神様(志賀直哉)の暗夜行路の中の一節です。

その日は寒いばかりでなく時々思い出したように細かい雨が止んだり、降ったりする日だった。

これについては、

僕ならそう書いたあとでやっぱり、細かい雨は「止んだり、降ったり」ではなく「降ったり、止んだり」すべきじゃないだろうかとうじうじ考えて推敲しそうな気がする。

と言い、

彼はまた、反対側の書院の方へも行って見たが、荒れかたが甚しく、周囲四、五町、人家のない森の中の淋しい所ではあるが、住めれば住んでみてもいいような気で、見に来たが、その事は断念した。

については、

一般の小説家ならゆうべは飲みすぎたなと反省して全体をいじると思う。

と率直な感想を述べます。そして、こういう書き方をしてしまう志賀直哉に対して「一種の天才」という賛辞を捧げます。
あるいはこんな例も。これは井伏鱒二山椒魚の中の一文。

山椒魚は閉じたまぶたを開こうとしなかった。なんとなれば、彼にはまぶたを開いたり閉じたりする自由とその可能とが与えられていただけであったからなのだ。

この引用部については、あとの文が「なんとなれば…からなのだ」とないう形で前の文の理由を説明しているようでいて、実は「ぜんぜん理由になっていない」と指摘します。確かに、まぶたを開ける自由と閉じる自由しか与えられていないというのは、まぶたを開こうとしない理由にはなっていませんね。そこで著者は言います。「ひとことで言って変だ。」さらにはかつての文壇の重鎮に向かって大胆にもこんなふうに問いかけるのです。「ねえ井伏さん、わざとでしょ、わざと不器用に書いているでしょ?
著者は、「僕ならこう書くのに」という例を次々に挙げていきます。徹底的に「書き方」にこだわるのです。
こんなふうにして著者のやっていることは、「枝葉末節にこだわる」とか「重箱の隅をほじくる」という類の行為に過ぎないのでしょうか。いや、そうではありません。文章の「書き方」にこだわることは、作品へと近づくアプローチの一つです。瑣末なことへのこだわりと見えて、実はそれが作品や作家の核心に近づく一つの方法であるということを、著者自身が十分にわかっているのです。
この本の読者は、作品の世界に入っていく入口は探せばいくらでも見つかるのだということを教えられ、自分でもその入口を探したくなることでしょう。