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2007年12月17日

[]北風とブログ 北風とブログを含むブックマーク 北風とブログのブックマークコメント


俳句界』12月号の中の、ちょっと気になった句、その3。

北風やブログに集まる無数の心    夏石番矢

この句を一読したときの僕の中の戸惑いは、次のような二様の解釈の可能性をほぼ同時に思い浮かべたことによります。


解釈1 膨大な数にのぼる現代人がブログという新しいツールに飛びつきメッセージを発信しているが、それらのほとんどは他人の耳に届くことなく虚空に消え去る。ネット上を漂う無数の「つぶやき」や「ひとりごと」のすき間を、冷たい北風が吹き抜けていく。
解釈2 リアルの世界は、北風の吹きすさぶ寒々とした時代に向かいつつあるかのようだ。そんな時代に、ブログという新しい可能性に期待する無数の善意がネット上に集い、個の力では為し得ない大きな貢献をリアルの世界において果たそうとしている。


夏石番矢の師である高柳重信には、同じ二句一章の形をとり、同じ季語を用いた「北風やここまでくるとみな背き」という句があります。この句において、「や」を介して対置された「北風」と「ここまでくるとみな背き」とは互いに親和的に響きあっています。「北風」は「ここまでくるとみな背き」の素直な比喩となっているとも言えるでしょう。
夏石番矢の句における「北風」と「ブログに集まる無数の心」との関係もまた同様と考えたのが「解釈1」です。この解釈においては、ブログへの評価は冷ややかです。この句には、うまく人間関係を築くことのできない現代人への皮肉の篭ったメッセージが感じられなくもないのです。実際のところ、一部の人気ブログを除けば、多くのブログは「つぶやき」に終わってしまっているか、良くて少数の仲間うちのメールのやりとりと変わらない、というのが実情ではないでしょうか。
正直を言えば、僕がまず先に思い浮かべたのはこの「解釈1」でした。しかし、それを否定するかのようにすぐさま「解釈2」が浮かんできたのは、僕のとりわけネット社会に対する考え方が、どうやら梅田望夫の著作による影響を強く受けつつあるからのようです。ウェブ進化論に続いて、ウェブ時代をゆくを今読んでいるところなのですが、梅田はネットに対するオプティミズムを貫く理由として、ネットの持つ五つの性格を挙げています。

(1)ネットが「巨大な強者」(国家、大資本、大組織…)よりも「小さな弱者」(個人、小資本、小組織…)と親和性の高い技術であること。
(2)ネットが人々の「善」なるもの、人々の小さな努力を集積する可能性を秘めた技術であること。
(3)ネットがこれまでは「ほんの一部の人たち」にのみ可能だった行為(例:表現、社会貢献)を、すべての人々に開放する技術であること。
(4)ネットが「個」の固有性(個性、志向性)を発見し増幅することにおいて極めて有効な技術であること。
(5)ネットが社会に多様な選択肢を増やす方向の技術であること。

上の中でもとりわけ(2)(3)(4)は、「解釈2」を選ぶことを強く後押しするものだと思うのですが、どうでしょう。
夏石の「北風」の句は、読み手がネット社会、とりわけ「ブログ」をめぐる現状と可能性をどう評価しているのかによって、その解釈に大きな幅が生じるでしょう。作者自身の意図がどうであったかはわかりませんが、僕が「解釈2」の方を採りたいという気持ちに傾いていることは言うまでもありません。そうでなければ、こんなアクセス数の少ない(つぶやきのような)ブログを書き続ける意欲など持続させようがありませんから。


■追記(12/18)
補足です。俳句用語の基礎知識 (角川選書 144)』(村山古郷、山下一海編)の「一物仕立て・取合せ」の項に、つぎのような記載があります。

取合せ(配合)は「即かず離れず」が理想とされ、これはべた付きを排し、「匂ひ」付を最上とする連句付合の理想からきている。この不即不離を原則として、「即く」ほうに傾く配合と「離れる」ほうに傾く傾向がある。

上の解釈1と2の違いは、「即く」ほうに傾いているととるか、「離れる」ほうに傾いているととるかの違いと言えます。