「臭」は「自+犬」なのに

「国語」の時間の様々な学習活動の中で、漢字学習の占める割合というのはどのくらいになるでしょうか。おそらく少なく見積もっても1割、場合によっては3〜5割くらいだったりするかもしれません。最近では中学生が漢字検定試験の級を取得していると高校入試の際に加点されたり、高校在学中に取得した級が高校での修得単位と同等に扱われたりと、「漢字力」が重視される傾向は強まっています。
漢字はアルファベットのような音声を表す記号ではなく、もともとは一つ一つが意味を持った「言葉」なのですから(だからこそ種類がやたらと多いわけですが)、その習得にそれ相応の労力をかけるのは当然と言えるでしょう。しかし僕が疑問に感じているのは、漢字の形をどの程度正確に覚える必要があるのか、という点です。そして、定期試験や入学試験の漢字を採点する際に、正誤の基準をどの程度まで厳密にする必要があるのか、という点です。
漢字は日本語である』(小駒勝美著)は、その題名から想像するように、日本語としての漢字という視点が全体を貫いているのかというと必ずしもそうではありません。前半は「漢字の面白さ、不思議さについて、さまざまな角度から言及」し、後半は日本の漢字政策、つまりは漢字使用をめぐる政治的なかけひきについて多くのページをさいていてなかなか面白いのですが、全体としては、「漢字雑学集」のような趣の本だと思って読んだ方がよいでしょう。しかし、先にあげた僕の疑問について考えるヒントは随所にちりばめられていました。

たとえば、「己」「已」「巳」について、

この三字は、現代でこそこうして区別されているけれど、明治の文豪が書いた昔の筆跡などを読めば、全部ごちゃごちゃに使われていた。手書きの時代には、そんな厳密な区別などしていなかったのである。いや、手書きの文字だけでなく、じつは活字だって同様だった。戦前の活字を見ると、「己」が入っているはずの「記」という字などは、…

このあとはこのパソコンでは字体がないので引用できませんが、要は「記」の字は木編に「巳」だったり「已」だったりと「きわめてアバウトだった」ということなのです。
また、「王」と「玉」は同じ漢字とみなすのが適当で、「国」という漢字は、その歴史を検証してみると、「囗」の中が「王」の方がむしろ正統であったと言えるようなのです。
さらに、「臭」という字は本来「自」+「犬」で成り立った文字なのに、当用漢字表の制定にあたって、「犬」を「簡略化」のために「大」にして今の形になってしまったのです。筆者はこうした「理解に苦しむ新字体はまだまだ山のようにある」と言います。
こうした事例をいくつも挙げられると、僕たちがかつて先生から教えられ、また今自分が先生として教えている「正しい漢字」の中には、実はその正しさの根拠の疑わしいものも少なからず存在することがわかります。常用漢字表に示された形と違うからと言って、あまりにも細部にこだわってバツにしてしまうことは、場合によっては妥当性を欠くことになりかねません。「国」の点がなかったらマルにするわけにはいかないかもしれないけれど、「臭」に点を書いてしまったからといって、ちょっとバツにはしにくいなあという気がしてしまいます。

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