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2008年09月29日 異文化理解という課題 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

異文化理解 (岩波新書)

異文化理解 (岩波新書)

グローバリゼーションが進み、生活文化の画一化現象が起こっている一方で、文化とか文明の境界は越えられないという主張が非常に大きな影響力を持ち、論争を引き起こしているという現実がある。しかし、「文化のグローバリゼーションと異文化は必ずしも対立関係にはなく、グローバリゼーションも受け入れながら異文化は異文化として存在するというあり方になるのが一番良い」というのが筆者の主張である。本書はそうした望ましい「あり方」のために「異文化理解」がいかに重要であるかを論じ、相互理解を深めるための手がかりを示そうとしたものである。非常にわかりやすく説かれており、「異文化理解」は現代人にとって必修科目であるということを痛感させられた。特に教育関係者にとっては必読の書と言っても良いのではないか。


興味深く読んだ箇所を上げていたらきりがないが、国語教育に係わる記述に触れつつ、考えたことを少しだけ書いておきたい。

日本の文化の特性として、外来文化を自分たちが必要だと思うところは全部取り入れてしまうが、そうすると本来の文化が持っていた形を全部なし崩しにして自文化に同化させてしまう、あるいは消化してしまうというところがあるとも思っています。たとえば、平仮名とか片仮名という日本の文字はもともとは中国の漢字からつくり出されたものといわれていますが、いまではこれにさらにローマ字も加えて使っているわけです。それらを日本語の中に吸収してしまい、漢字も本来の中国語とは違う意味や音で用い、ローマ字も日本語的に使っています。
 日本文化には、非常に開かれた受容性と同化、あるいは、消化による閉鎖性が同居している側面があります。そしてそれが、これだけ外来文化を多く取り入れているのに、依然として異文化に対して非常にナイーブだといわれ、国際化で苦しんでいる大きな理由ではないかと思っています。
(p22−23)

この箇所を読んだとき、僕は漢文訓読という特殊な外国語受容法のことを思った。日本人は「漢文」によって中国の文化と接してきた長い歴史がある。しかし漢文はあくまでも日本語(古文)であって、中国語ではない。漢文訓読法を編み出した工夫は、中国語拒否の工夫だったと言えないだろうか。現在、漢文を学ぶことと中国語を学ぶことの間にはあまりにも大きな距離がある。
漢字にしても、上の引用部でも述べているとおりで、今や完全に日本の文字として消化されてしまった。漢字の音読みと現代の中国語読みとの間にもまた大きな距離があり、それは中国語学習者の前に大きな壁として立ちはだかっている。
つまり、我々日本人は、異文化に接するという意識を持って漢文や漢字と向き合うことがないのだ。(英語を学ぶときの己の意識を思い起こして比較してみればこのことは明白だろう。)ここに中国と日本の、古くて近くて遠い不思議な関係が生まれてしまった原因があるのではないか。こう考えたとき、次のような「大きな課題」が我々の前に立ち現れてくるのだ。

私たちにとって「異文化」といえば、ヨーロッパアメリカを指すといってよかったのではないでしょうか。もちろん、中国韓国の文化は私たちの文化と言葉も生活習慣も大きく異なっています。その違いを正しく見ようとはしなかったのが、いま大きなコミュニケーションの困難を生んでいます。何よりも「異文化」としてとらえることを通して、中国韓国など近隣国との関係を正しくとらえ相互理解に導く基礎ができることと思います。中国語と日本語のひびきの違い、その美しさを互いに味わうことから、異文化理解を通してこの相互信頼への道が開かれるものと考えます。これは時間のかかる気長な努力をしなければならないことですが、教育も含め日本社会が全体として取り組む大きな課題だと思います。(p191)



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