シューマン的

横浜シティ・シンフォニエッタの次回演奏会に向けての練習が始まりました。プログラムは次の通り。

グリンカ/歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
ショパン/ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11 (ナショナル・エディション コンサート・ヴァージョン・・・・・・ヤン・エキエルによる、失われたショパン自身のオーケストレーションの復元を試みた版 )
シューマン/交響曲第2番 ハ長調 Op.61

ショパンシューマンも、オーケストレーションが下手な作曲家ということで定評がありますが、僕にはスコアを見てこれはうまいとか、下手だとかいうことはわかりません。しかし、実際に演奏してみて(僕の場合はファゴットのパートを吹いてみて)、これは楽しい曲だとか面白くない曲だとか、感じることはあります。その「感じ」というのは、オーケストレーションの良し悪しと少なからず相関関係があるのではないかと思うのです。例えば、ベートーヴェンの場合はまず例外なく、吹いていて楽しい。自分がオーケストラの中の大切なパートを受け持っているという緊張感と充実感があります。
では、シューマンの第2番の場合はどうか。まあ、はっきりいってベートーヴェンほどの楽しさはありません。最初から最後まで休みなく吹き続けで(パート譜のページをめくる暇さえないくらいです)、それでいて弦楽器や金管楽器と動きが重なることが多いので、体力的にはかなりきつい割にはあまり報われないといった感じです。オーケストレーションが下手だというのは、こういうことなのではないかと考えてしまうのです。
金聖響『ロマン派の交響曲の中で、20世紀の「大指揮者」たちが、シューマンのこの「下手」なオーケストレーションに様々に手を加えて改訂版をつくり上げてきたことを批判し、次のように言います。

私の個人的な意見ですが、シューマンが指示した通り、あるがままを演奏することによって、彼独得の「響き」であったり「柔らかさ」を感じることができると考えます。特にいじくり倒すことなく、ピリオド的発想と演奏法で小編成でなおかつヴィブラート控えめに演奏すれば、シューマン的な響きを再現できます。…指揮者がスコアに修正を加えるという作業、そしてその哲学は、基本的に私は賛成ではありません。

横浜シティ・シンフォニエッタはもともと「小編成」ですが、(指揮者の方針で)曲へのアプローチは基本的に「ピリオド的発想」、奏法は基本的に「ヴィブラート控えめ」です。まだ練習は始まったばかりですが、4月の本番まで練習を重ねていくうちに、金聖響の言う「シューマン的な響き」に近づけるかもしれません。また、(これはよくあることですが)最初のうちは疲れるだけだと思っていた曲が、だんだん吹いていて楽しくなるということにもなるかもしれません。聴き手の立場からすれば、ベートーヴェンとはひと味違う魅力を持った曲であることは間違いないのですから。

横浜シティ・シンフォニエッタ第18回演奏会
2010年4月18日(日)13:30開場 14:00開演
神奈川県民ホール 小ホール
ピアノ独奏:松岡美絵
指揮:児玉章裕