登らない山

「街」同人の森山いほこ氏より、句集『サラダバー』を送っていただきました。

いつも見るだけの頂えごの花

 作者の想像の中では、未踏のその頂にこれまで何度も自分を立たせてきたのである。汗を拭いながら息を整え、山の風に吹かれているのである。しかし、ふと我に返る度に、現実の自分はえごの花咲く里にいて、今年もまた頂上近くに雪を残すその孤峰を見上げているのである。画布に描かれているのは、近景のえごの木と遠景の山だけ。しかしそこにはこれまでその山に惹かれながらも一度も登ることの叶わなかった自分自身、これからもおそらく登ることがないであろう自分自身の思いが映し出されているのである。

苺乗せ子供の居ないケーキかな

 苺一つが必ず乗るように切り分けたケーキを、家族みんなでにぎやかに食べていた過去。子供たちがいなくなった食卓に、かつてと同じように苺を乗せたケーキを並べている現在。俳句が描くのはその現在の方に違いないが、子供の不在という現在が突きつけるのは、過ぎ去った時間への強烈な思いだ。

夕暮のプールの見ゆる根岸線

 「根岸線」で「プール」とくれば、僕の頭にはもうくっきりとした映像が浮かんでしまう。と言っても、それは実際に見た記憶の中の映像であるよりも、この句に喚起された虚構のイメージなのだろう。夕暮時のプールにもうほとんど人気はないが、プールサイドはまだ乾ききっておらず、水面はまだざわざわと揺れている。つまり昼間の賑わいの残像が、夕暮時のプールの侘しさをいっそう際立てるのだ。(そういえば、京浜東北線と呼べばそうでもないけど、根岸線と言うとどこか物寂しさが漂ってくるように感じるのは、僕だけでしょうか?)

夏萩や東慶寺まで傘さして
受験の子八重洲口出て深呼吸

 「根岸線」同様、親しい地名が出てくると、句にも親しみがわく。しかしもし僕が「東慶寺」や「八重洲口」を実際には知らない大阪の人間だったとしても、この句は好きな句のリストに入ったと思う。

朱欒の皮翼広ぐるやうに剥く
石榴剥く吾が指猿に戻りたる

 どちらも果実の皮を剥く句だが、「朱欒」は剥かれる皮に、「石榴」は剥いている自分の指に着目している。日常的な動作の中に、このような面白い発見があるのだと教えられた。