「音の一致」と「声を合わせること」

渡部泰明『和歌とは何か』(岩波新書)を読んだ。

序詞や縁語とも関わる掛詞は「一つの言葉が二重の意味で用いられているもの」と定義できるが、これを逆の方向から捉えれば、二つの言葉の音が偶然に一致した、という言い方になる。さて、わかりにくいのはこの先だ。

偶然の音の一致は、和歌の定型に支えられて、必然的なものでもあるかのように感じられてくる。するとそこに、人と声を合わせているかのような感覚が発生する。声を合わせている時、人は他の人も同じものを見、同じことを感じているような確信に囚われる。(58㌻)

歌の中に掛詞が出て来た時、人はこのように他の人と声を合わせているような感覚になるだろうか? 「…わが身世にふるながめせしまに」と読んでいる時の感覚と、合唱している時の感覚と、同じだろうか? 理屈ではわかるような気もするが、どうも実感としては納得できない。そうすると、縁語についての次のような説明も、ピンとこない、ということになる。

縁語は、相手に、あるいは複数の人々に、声を合わせ、身を寄せることを要求しつつ、作者の現在へと導く機能を持つ。そして共感を生み出す。すなわち、コミュニケーションの具なのである。(88㌻)

「音の一致」が「声を合わせること」につながるという考え方については、問答形式の「まとめの講義」の章でも学生の質問に答える形で説明されているが、教授の言うように、「ながながし夜を…」のような掛詞の箇所を読んでも声がダブっているようには実感できない。僕は出来の悪い学生なのだろうか?

羽化する前に

三分の一ほど読み進んだところで、

思いつくたびに紙片に書きつける言葉よ羽化の直前であれ

という歌に出会った。

この歌集に書きつけられた言葉の多くは、三十一文字という短歌の形をしてはいるが、まだ成虫にはなり切っていない蛹のようなものと言えるのかもしれない。たとえば蝶。可憐なモンシロチョウや華麗な揚羽蝶よりも、羽化する前の幼虫や蛹に、筆者の心は寄り添おうとしているようだ。憧れであったり、不安であったり、野心であったり。そんな混沌とした感情をいだいていたことを、「成虫」となって羽ばたく蝶は覚えているだろうか。
「幼虫」であるうちに、書きつけておかなければならない言葉がある。感受性という翼を広げて、滑走路を駆け抜けるときにしか生まれてこない言葉があるのだ。

辻村深月作品のリアリティ

辻村深月の短編集、『鍵のない夢を見る』を読んだ。

主人公の女性たちの思考や行動に、全面的に共感できるわけではない。しかし、共感できるできないにかかわらず、彼女たちは確かに作品の中に生きている。彼女たちにリアリティが感じられるのは、その心の繊細な動きの一つ一つが丁寧に描かれているからだろうと思う。彼女たちは自分の心の動きに対して自覚的だ。それは作者の、人の内面に対する洞察力の鋭さから生まれてくるものなのだろう。

どの話も、決して後味の良い話ではないが、読むことによって、自分の中に一つの経験を加えることができたという充実感を覚えさせてくれる作品だ。

元気な!平安男子

NHK大河ドラマを観ていたら、「打毬」のシーンが出てきた。「打毬」などという激しく、スピーディな競技が平安時代に存在していたことを初めて知り、平安男子に対するイメージが少し変わった。

平安男子の元気な!生活』も、平安貴族の、周囲からリスペクトされるために努力を惜しまず、私生活も積極的に楽しむアクティブな一面を描いて、彼らに対する認識を改めさせてくれる。著者が読者に伝えたいのは、彼らは「優雅な」ばかりじゃなくて、「元気な!」生き方をしていたんだよ、ということ。

大河ドラマの解説本がいくつか出ているようだが、この本の中でも、兼家さまや道長さまが何度も登場するので、読めば大河ドラマの理解が深まることは間違いない。

オノマトペに始まる

『言語の本質』(今井むつみ、秋田喜美著、中公新書)が面白そうなので、読んでみた。

今井むつみと言えば、1年ほど前に読んだ『英語独習法』はとても説得力ある文章で、使える英語をものにするためにどうしたらよいのかよく理解できたのだが、その後一念発起、英語を勉強しよう! というふうにはならなかった。必要に迫られないと、何事にも本気で取り組むことができないものだ。

さて、『言語の本質』は、評判通りの面白さで、知的な興奮を味わわせてくれた。僕なりに内容をざっくりまとめると、次のようになる。

ヒトはまず、身体感覚とつながるアイコン性を持った(つまり、身体に「接地」しており)、かつ言語的特徴を多く持ったオノマトペの使用を足掛かりに、言語が抽象的な記号の体系であることを理解する。さらに、ヒトは、知識を想像力によって拡張するアブダクション推論の能力により、オノマトペから離れたより抽象的な語を作り出し、語彙を大きく成長させる。その結果、言語という巨大で、かつ洗練されたシステムが出来上がってゆく。

こうしてまとめてみると、『言語の本質』という書名よりも、「ことばはどう生まれ、進化したか」という副題のほうが、その中身全体をよく表しているように思う。

美術と言葉

山梨俊夫美術の愉しみ方』(中公文庫)

この本には、美術と言葉の関係に触れた記述が多いと感じた。その部分を簡潔にまとめてみた。

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たくさんの作品を見ることが、美術を深く愉しむことにつながるが、さらにその先の扉を開けてより深い愉しみを味わうためには、「言葉」の助けが必要になる。
感じたことを整理し、他人に伝えるのは自分の言葉だ。それは作家自身の言葉や、批評家・美術史家の言葉に触発されて、より豊かになる。作家は様々な語り口で美術を言葉にする。その言葉を通してより良い理解が得られる。読むこと自体も美術の愉しみの一つだ。
作品を比べること(類似と相違を見ること)は、作品を見る眼を鍛える。それぞれの絵から受けた異なる印象を輪郭づけるのは言葉だが、その言葉は作品から受ける感じを限定することもある。作品自体は多義的で豊かなものだが、作品の印象を言葉に置き換えるのは、作品を貧しくする危険もあるのだ。

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著者は、神奈川県立近代美術館に勤めていた経験から、企画展での作品展示にまつわる学芸員たちの苦労話や、学芸員室での裏話も披歴する。こんな本を読むことも、美術の愉しみの一つに数えられよう。

初めての辻村深月体験

30代後半になる架(かける)は、自分が真剣に結婚を考えなければならない時期に来ていることにようやく気づく。スマホの婚活アプリに登録し、そこで知り合った30代半ばの真美(まみ)と付き合うようになり、1年以上が経過する。しかし、架は、いざ結婚となると一歩が踏み出せない。この子がいいと思ったはずなのに、本当にこの子なのかという思いが胸に燻る。

仲間内の飲み会の席で、架は女友達の一人である美奈子に、

…つきあって一年以内に結婚してあげるのが礼儀ってものじゃない? なんでそんなずっと引っ張ってるの?…あの子と結婚したい気持ち、今何パーセント?

と言われた架は、

七十パーセントくらいかな

と答える。この答えに対する美奈子のせりふは架の胸に突き刺さる。そしておそらくは多くの読者の胸にも。

 

架と真美は婚約する。式場も決める。

しかし、ある日真美は唐突に姿を消してしまう。スマホに電話しても通じない。真美からストーカーの存在を伝えられていた架は警察に相談するが、事件性は低く、本人の意思によるものである可能性が高いと言われ、動いてくれない。架は、かつて真美が結婚を断った二人の見合い相手が、真美の失踪に関わっているかもしれないと疑い、二人とコンタクトを取ろうとするのだが…

 

僕にとっては初めての辻村深月体験だった。内容についてはほとんど予備知識なく読み始めたのだが、サスペンスドラマの要素もあり、恋愛小説としても楽しめる。読み手に驚きを与え、最後まで一気に読ませるような、構成上の工夫がある。登場人物の描き方にはリアリティがあり、その言動は説得力を持って読者に迫ってくる。さすがに、直木賞本屋大賞などの受賞歴のある作家だけのことはあって、小説を読む面白さを堪能させられた。

しかし、この作品は娯楽小説の枠に収めておくわけにはいかない。架も、真美も、物語の中で明らかに自らを成長させている。それは、さまざまな人との出会いによって、自らの「傲慢」さや「善良」さに気付くということなのだが、その「傲慢」さや「善良」さは、登場人物だけが抱えている問題ではなく、読者も、それらが自分の中に無自覚のうちに巣食っていたことに気付かされるのだ。そういう意味で、恐ろしい小説であるとも言える。