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2018年03月09日 今の日本の文学はダメなのか? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 日本人である自分が、日本語を読み、日本語でものを考え、日本語で書くというのは当然のことであり、そのことに何の疑問も抱いたことはなかった。しかし、地球上の他の様々な言語の状況と照らし合わせてみた時、それは決して当たり前のことではないのだった。
 日本人が自分たちの言葉を「国語」として成立させ得たのは、いくつかの条件が重なった結果であるが、大きな要因の一つが漢文の伝来であることは言うまでもない。
 著者は、国語とは、

もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>から翻訳するという行為を通じ、<普遍語>と同じレベルで機能するようになったものである。

と説明する。日本人は独特のやり方で漢文という普遍語を翻訳し、漢字かな交じり文というスタイルを生み出す。しかし、日本語が真に国語と呼べる高みに達するには、明治以降になだれ込んでくる西洋語という普遍語との格闘をも経ねばならなかった。
 このあたりの経緯について、本書では実に興味深く語られている。言葉に関心のある人にはたまらなく面白い本だと思う。出版された当時、随分評判になっていたのに、すぐに読まなかったことが悔やまれる。 

 ところが、後半(六章以降)、どうしても首をかしげざるを得ない部分が多くなる。本書の副題に「英語の世紀の中で」とある通り、今、世界が「英語の世紀」に向かっているいることは間違いない。そんな中で日本語が亡びるかもしれない危機に瀕していることも頷ける話だ。しかし、今書かれている日本の文学について、

私たちの知っていた日本の文学とはこんなものではなかった、私たちが知っていた日本語とはこんなものではなかった。(p.405)

と言われても、「こんなもの」が具体的にどういう状況を指しているのか判然としない。

英語が<普遍語>となったことと、日本で流通する文学が「ニホンゴ」文学となり果てつつあること。
この二つのあいだには、因果関係はない。
英語が<普遍語>となったのがはっきりと目に見えるのようになる前から、日本の文学は内側から一人で幼稚なものとなっていったからである。
(p.330)

と言っておいて、そのすぐ次のページで、

英語が<普遍語>として流通するということは、日本語という<国語>が危うくなるかもしれないということである。日本語が危うくなれば、本来なら日本語の祝祭であるべき日本文学の運命は危ない。(p.331)

と言っているのは、何度読み返しても矛盾であるとしか思われない。

日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。

という国語教育への提言はよく理解できるものの、

樋口一葉の『たけくらべ』ぐらいは「原文」で読ませる。うすぼんやりとしかわからなくともよいから、なにしろ、読ませる。字面に触れさせ目に慣らす。音読させ耳に慣らす。

という部分を読むと、高校時代にそこまでやらされなかった自分を幸せだったと思う。実際にやらされていたら僕はきっと「国語嫌い」「文学嫌い」になっていて、今頃は国語の教師なんてやっていなかったに違いない。島尾敏雄福永武彦や安部公房に出会わせてくれた「現国」の教科書に僕は感謝している。