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2018年03月29日

[]村上春樹漱石と並ぶとき 村上春樹が漱石と並ぶとき - 僕が線を引いて読んだ所                        を含むブックマーク 村上春樹が漱石と並ぶとき - 僕が線を引いて読んだ所                        のブックマークコメント

 読んで、「面白かった」とか「期待外れだった」とかの「感想」で終わらせてしまうことができない何かが、村上春樹の作品にはある。「何か」とは、平たく言えば「わかりにくさ、むずかしさ」ということになるかもしれない。そんな難解な作品が、ノーベル賞候補と取りざたされるだけに、本当にそれほどの評価を与えてしまっていいレベルの作品なのだろうかという疑問が生まれる。新刊が出るたびに起こる社会現象は、かえって彼の作品の娯楽性、通俗性を際立たせるばかりで、村上作品の文学性、芸術性に対する評価に寄与するものではないように思われる。いったい専門家筋にはどう評されているのだろうかということが気になる。それで、こんな本に手が伸びる。

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

 この本が書かれた意図について、著者はこう語る。

村上に関しては、シンプルに、ただ彼を日本の近現代の文学の伝統のうえに位置づけることが、いまもっともチャレンジングな、時宜に適した批評的企てとなる。村上自身の自己認識はさておき、彼が日本の近現代の文学としても位置付け可能な広がりをもっていることに目を向け、村上を村上自身が敵視している日本の文学の枠内に位置づけること。このことがいま、この(村上は日本文学の伝統と対立しているという)定型を打破する批評的な企てなのである。

 日本の文学の中に位置づけるということは、例えば具体的には、漱石の作品と並べてみるということだ。

彼(村上春樹)は、私の考えでは、つねに自分の無意識の闇に見つかる「小さな主題」を下方に掘って進むことで深く「大きな主題」にいたる、夏目漱石型の小説家である。漱石は生涯、男女の三角関係という「小さな主題」から入り、人間に通有の深く「大きな主題」にいたるという方法を手放さなかった。

 漱石が「三角関係」を掘り下げた先に見出した「大きな主題」は近代人のエゴイズムという問題だった。では、村上春樹にとっての「大きな主題」とは何か。それは3・11の原発事故の後に行われたカタルーニャ国際賞の受賞スピーチの延長上にあるはずだと著者は言う。そのスピーチの一節。

我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。それは広島長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理規範が、そして社会的メッセージが必要だった。

 村上春樹がその作品において、「骨太の倫理規範」「社会的メッセージ」を示すことができたとき、春樹文学は真に日本の近現代の文学の伝統のうえに位置づけられるであろう。加藤典洋の、村上に対する高い評価は、近い将来書かれるべき本格的な長編小説の存在を前提としたものなのである。

2018年03月09日 今の日本の文学はダメなのか? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 日本人である自分が、日本語を読み、日本語でものを考え、日本語で書くというのは当然のことであり、そのことに何の疑問も抱いたことはなかった。しかし、地球上の他の様々な言語の状況と照らし合わせてみた時、それは決して当たり前のことではないのだった。
 日本人が自分たちの言葉を「国語」として成立させ得たのは、いくつかの条件が重なった結果であるが、大きな要因の一つが漢文の伝来であることは言うまでもない。
 著者は、国語とは、

もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>から翻訳するという行為を通じ、<普遍語>と同じレベルで機能するようになったものである。

と説明する。日本人は独特のやり方で漢文という普遍語を翻訳し、漢字かな交じり文というスタイルを生み出す。しかし、日本語が真に国語と呼べる高みに達するには、明治以降になだれ込んでくる西洋語という普遍語との格闘をも経ねばならなかった。
 このあたりの経緯について、本書では実に興味深く語られている。言葉に関心のある人にはたまらなく面白い本だと思う。出版された当時、随分評判になっていたのに、すぐに読まなかったことが悔やまれる。 

 ところが、後半(六章以降)、どうしても首をかしげざるを得ない部分が多くなる。本書の副題に「英語の世紀の中で」とある通り、今、世界が「英語の世紀」に向かっているいることは間違いない。そんな中で日本語が亡びるかもしれない危機に瀕していることも頷ける話だ。しかし、今書かれている日本の文学について、

私たちの知っていた日本の文学とはこんなものではなかった、私たちが知っていた日本語とはこんなものではなかった。(p.405)

と言われても、「こんなもの」が具体的にどういう状況を指しているのか判然としない。

英語が<普遍語>となったことと、日本で流通する文学が「ニホンゴ」文学となり果てつつあること。
この二つのあいだには、因果関係はない。
英語が<普遍語>となったのがはっきりと目に見えるのようになる前から、日本の文学は内側から一人で幼稚なものとなっていったからである。
(p.330)

と言っておいて、そのすぐ次のページで、

英語が<普遍語>として流通するということは、日本語という<国語>が危うくなるかもしれないということである。日本語が危うくなれば、本来なら日本語の祝祭であるべき日本文学の運命は危ない。(p.331)

と言っているのは、何度読み返しても矛盾であるとしか思われない。

日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。

という国語教育への提言はよく理解できるものの、

樋口一葉の『たけくらべ』ぐらいは「原文」で読ませる。うすぼんやりとしかわからなくともよいから、なにしろ、読ませる。字面に触れさせ目に慣らす。音読させ耳に慣らす。

という部分を読むと、高校時代にそこまでやらされなかった自分を幸せだったと思う。実際にやらされていたら僕はきっと「国語嫌い」「文学嫌い」になっていて、今頃は国語の教師なんてやっていなかったに違いない。島尾敏雄福永武彦や安部公房に出会わせてくれた「現国」の教科書に僕は感謝している。

2017年12月09日 新設大学認可される? このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 この度、「新聞大学」の設置が認可されました。
 「新聞大学」は、最新の情報を詰め込んだ新聞を毎朝自宅まで配達してくれるという、日本以外のどこにもない優れたシステムを利用した大学です。自宅が教室として利用できますし、テキストである新聞も、もともと取っていたのだと考えれば、学費はゼロです。
 「新聞大学」では、政治も、経済も、文学も、ゴシップも、なんでも学ぶことができます。テキストの半分は広告ですが、これだって、言葉の学習に役立ちます。
 テキストには「社説」など、高校生には難しい文章も多く含まれますが、頭を使って理解しようとすれば、それこそ昨今はやりのアクティブ・ラーニングになります。
 中高年の方々は、何十年も前の古い知識を更新するため、そして今以上に頭の働きを鈍らせないために、早起きしてテキストを読む習慣を身につけましょう。
 なお、テキストを二紙併読すれば、大学から大学院への進学が認められます。
 詳しくは、こちらの本をお読みください。

新聞大学

新聞大学

2017年09月22日

[]驚くのがうまい人 驚くのがうまい人 - 僕が線を引いて読んだ所                        を含むブックマーク 驚くのがうまい人 - 僕が線を引いて読んだ所                        のブックマークコメント

俳句の図書室 (角川文庫)

俳句の図書室 (角川文庫)

巻末の著者と又吉直樹の対談に勝手に加わって、鼎談にしてしまう。

***************

又吉 俳句作る人って、驚くのうまいなーと思うんですよね。僕らが当たり前の風景として素通りするものを見逃さないでしょう。そういう人の句を読むことで、感覚が刺激されます。こいつの見えてる世界どうなってんやろ、と想像することで、自分自身も耳をすましたり、いろんなものの匂いをかいだり、ふだん見いひんとこ見たくなりました。こどものころって、虫おったら眺めるとか、川の水触って温度確かめるとか、せずにはいられなかったじゃないですか。
ボク ということは、俳句って老人の文学なんかじゃなくて、若者っていうか、むしろ子供の文学ってことになりますよね。一番驚くのがうまいのは赤ちゃんかな。でもまだ言葉が育ってないから、文学にはならないけど。
堀本 うんうん。
又吉 いろんなことが新鮮だった。でも、だんだん飽きて、大人になると忘れてしまう。
堀本 僕、いまだにね、コメツキムシ見つけたら捕まえて裏返します。この虫は夏の季語ですね。時間がたつと、ぺこーんって跳ね上がるんですよ。それをじーと待つ。
ボク 僕なんか、コメツキムシを人差し指と親指の柔らかいところでそっとつまんで、かくっ、かくっていう感覚を指先で楽しむんですよ。
又吉 それ、あんまふつうのひとやらないですね(笑)。
堀本 ですねえ(笑)。

■追記(2017.10.1)
岸本尚毅『生き方としての俳句』より

 おしまいに、最近見つけた『晴子句集』の秀句を挙げます。

  火取虫窓辺の闇は壁のごと

 窓の外の闇の濃さを「壁」に喩えました。無心の子供のような眼差しを感じます。俳句という詩は、人がたやすく忘れ、失ってしまう童心の上に成り立っています。思えば、はかない詩です。

 作者の「童心」は、虫ではなく闇の濃さに驚いている。

2017年06月19日

[]文学と生活 文学と生活 - 僕が線を引いて読んだ所                        を含むブックマーク 文学と生活 - 僕が線を引いて読んだ所                        のブックマークコメント

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 文学に興味を持つようになったきっかけは、と聞かれれば、高校の現代国語の教科書に載っていた島尾敏雄の短編(題名を忘れてしまったので、今調べてみたら「いなかぶり」だった)を読んで文学というものの奥深さに触れたからだなどと答えたりしていたのに、その割にはその島尾敏雄の代表作である『死の棘』を読むのは随分遅くなってしまった。
         * * * * *
 先月初めに、佐倉の街を歩いた時、偶然に正岡子規の句碑を見つけて、ここも子規のゆかりの地だったか、どこに行ってもその地にゆかりのある文学というものはあるものだなと思ったが、その時自分が歩いているのが、『死の刺』の夫婦が上り下りしたに違いない坂道であることには気が付かなかった。その時ちょうど肩に下げていた鞄の中には新潮文庫の『死の棘』が入っていたというのに!(読んでいたのはまだ作品の最初の方で、舞台は小岩の街だった。)
         * * * * *
 600ぺージにも及ぶ長編と付き合うことになったこの数週間、壮絶で陰惨な戦いを続ける夫婦の気分がこちらにまで乗り移ってしまうことがあるかとも危惧されたが、振り返ってみるとそんなこともなかったのはどうしてだろう。いきなり最悪の状況から始まるこの小説が、遠くにほのかな希望の光が灯るのを常に感じさせるからだろうか。それとも、「その後」の島尾敏雄と島尾ミホと二人の子供がどういう経過をたどったかという「現実」を多少なりとも知っているということが、作品の外から読者の安心を保証してくれているということなのだろうか。いや、読者が陰鬱な泥沼に陥ることなく、読み進むことに快感さえ覚えるのは、筆者の筆力、強靭な文章の力なのだと思う。
         * * * * *
 作品の最終章の中ほどに出てくる、次の一節が心に引っ掛かった。

文学と生活は別のものかしら、と言われても納得させることばを口にすることはできない。

 「納得させる」とは、妻をか、それとも自分自身をか。いずれにしても、妻の問いに作品の中では答えられない「私」だが、作家島尾敏雄としてはその問いに答えが出せたのだろうか。まさに『死の刺』こそ、この重い問いに対する一つの答えなのではないかとも考えてみる。しかし、この大長編小説の最後の一文は、文学の側に急速に傾きかけた作品を、再び生活の方に引きずりおろそうとするかのようだ。作家の中で「文学と生活は別のもの」という答えと「別のものではない」という答えとが戦っている。

2017年05月06日

[]旅人、正岡子規 旅人、正岡子規 - 僕が線を引いて読んだ所                        を含むブックマーク 旅人、正岡子規 - 僕が線を引いて読んだ所                        のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20170506154742j:image:w300:left 「正岡子規展―病牀六尺の世界」を開催中の神奈川近代文学館で復本一郎の講演会「子規の芭蕉」を聴いてきた。
 印象的だったのは、次のような話。

…子規は蕪村を称賛し、芭蕉に対しては随分厳しい評価を下しているが、資質的にはむしろ芭蕉の方に近かったのではないか。子規は実地に赴き、実際に見たものしか句にできない。蕪村のように空想で句を作ることができない点で、凡人なのである。もし子規が頑健で芭蕉のように旅を続けることができたら、より芭蕉的な世界に近づいていただろう。病に倒れた子規には、それは叶わなかった。子規の中に蕪村を希求する思いが生じたのはそのためなのだ…

 しかし今日、子規の旅の足跡を図示した展示を見てわかったのは、子規が当時の人としては驚くほど精力的に日本の各地を訪ね歩いていることだ。芭蕉を意識してのことでもあろうが、旺盛な好奇心のなせる業なのだろう。子規とは、実に人生を太く短く生きた人なのだと思う。

 つい先日、佐倉の街を歩いた時に偶然見つけた子規の句碑、二つ。
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霜枯の佐倉見あぐる野道かな
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子規は1894年(明治27年)12月にこの地を訪れたという。
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常盤木や冬ざれまさる城の跡

2017年04月23日

[][]花と港 花と港 - 僕が線を引いて読んだ所                        を含むブックマーク 花と港 - 僕が線を引いて読んだ所                        のブックマークコメント

 近代文学館へ行って、5月6日の講演会のチケットを購入。

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 開催中の展示は講演会当日に見ることにして、港の見える丘公園の花と景色を楽しむ。5月に来るときには、今盛りのチューリップはすっかり消えて、バラの花が咲き始めているだろう。

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 この後、ミューザ川崎で、知人が多く参加しているオケの演奏するマーラーの交響曲第6番を聴いた。長大な曲だが、曲想や音色の変化が面白く、最後まで飽きずに聴き通すことができた。

2016年10月14日 ボブ・ディランと井上陽水 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した、と言っても、僕はボブ・ディランという名前は知っているが、どんな曲を書いた人か、ほとんど知らない。
 二ユースの中では、ボブディランの影響を受けた日本のミュージシャンとして、井上陽水吉田拓郎の名前を挙げていた。井上陽水なら僕は大好きで、詩集『ラインダンス』の中から好きな詩を挙げていたらきりがないくらい。と言っても、陽水の詩の中で僕の好きなのは、80年前後に出たアルバムに集中している。「傘がない」「心もよう」の頃はそれほど好きだとは思っていなかった。
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 陽水の歌詞に注目し始めたのは、『スニーカーダンサー』の中の「なぜか上海」あたりからだったと思う。

 星が見事な夜です
 風はどこへも行きます
 はじけた様な気分で
 ゆれていればそこが上海

『あやしい夜を待って』の中から選ぶとしたら、まずは「ジェラシー」。それからとってもシュールな「Yellow Night」。

 はまゆりが咲いているところをみると
 どうやら 僕等は海に来ているらしい
 ハンドバッグのとめがねが
 はずれて化粧が散らばる
 波がそれを海の底へ引き込む
(ジェラシー)

 俺のあの娘はメロンにレモンをかけてる
 泣けば瞳の奥からルビーが飛び散る
 陽気な面もあって
 あの娘の話はトマト言葉です
(Yellow Night)

「My House」も言葉の選び方が突飛で、面白い。

 恋はマッシュポテトだ
 恋は電子キャラメル
 街の道に無知な人並
 山羊の耳に森永製菓

『ライオンとペリカン』は作詞作曲家としての陽水の最高峰だと思う。どの曲も妖しい魅力を放っているけれど、歌詞で選ぶなら、「とまどうペリカン」「チャイニーズフード」「ワカンナイ」。

 あなたひとりで走るなら
 私が遠くはぐれたら
 立ち止まらずに振り向いて
 危険は前にもあるから
(とまどうペリカン)

 最新の夢
 テレビチャンネル、サイレンのひびき
 ため息だけがフー
 お茶まで熱くてフー
(チャイニーズフード)

 『ライオンとペリカン』は、その当時の『音楽の友』誌(もしかしたら『レコード芸術』だったかも)が取り上げて、とても好意的な評を載せていた。クラシックの専門誌がポップスを取り上げるのは異例のことだったのではないだろうか。僕は陽水の絶頂期はやはり『ライオンとペリカン』の頃だったと思う。その後もヒット曲は出しているが、80年前後の作品群に比べると、どうしても物足りなく思ってしまうのだ。
 陽水の作品の中でも、ボブディランの影響の濃いのはどのあたりの作品なのだろうか。ボブ・ディランは78年に来日していて、陽水は「ディラン、よかったですね。武道館で毎日やってたわけだけど、素晴らしいと思いましたね。毎日歌っているのに、歌に対してあれだけいれこめられるのは、すごいですね。」と言っている。
 80年前後の陽水の傑作群にディランの影響があるのだとしたら、ぜひディランも聴いてみなくちゃならないと思う。

 菊池邦子 菊池邦子 2016/10/16 12:35 私はまさにボブディラン世代です。井上陽水も好きです。歌詞が.。でもそれほど深く読み込んではいませんが。私の友人は熱狂的共言えるボブディランファンで、大学時代から下宿の部屋にボブディランが溢れていました。当然先日来日コンサートがあった時にも行ってました。ノーベル 文学賞と言うのがなぜか不思議で、でも嬉しい感じです。欧米人の発想を感じます。

mf-fagottmf-fagott 2016/10/16 23:17 僕の世代でも、バンドなんかをやってた連中は、ボブ・ディランとか言っていたような気がします。僕のように知らないのは、少数派のほうだと思います。

2016年06月05日

[]言葉を拾いに 言葉を拾いに - 僕が線を引いて読んだ所                        を含むブックマーク 言葉を拾いに - 僕が線を引いて読んだ所                        のブックマークコメント

f:id:mf-fagott:20160605232000j:image:left:w200「街」同人の上田貴美子氏より、句集『暦還り』が送られてきました。ありがとうございます。

 以下、丸印を付けた句を紹介し、そのうちの数句については拙い鑑賞文を書かせていただきます。

人増えてをり山の霧すぐ晴れて

 長く苦しい登りもひと段落、誰もが一息入れたくなる尾根上の広場に到着した。霧が濃くてよく見えないが、先についた幾組かのパーティーの談笑する声が聞こえる。立ったまま地図を広げて、コースタイムを確認する。ここから山頂まであと3〜40分、昼飯にちょうどよい頃合いに着きそうだ。よしよし、計画通り。ここでは長居せずに、お茶を一口飲んでからすぐ出発だ。ザックの中のペットボトルを取り出そうとかがみこむと、急にあたりが明るくなる。顔をあげると、立ちこめていた霧が急に晴れて、青空が顔を出し、向かいの稜線の一部がくっきりと見えてきた。後続のパーティーがどんどん登ってくるのだろうか、広場に憩う登山者の数は思っていた以上に多い。さあ、少し先を急ごう。ぐずぐずしていると、山頂の特等席を確保できないぞ。

台風の育ち盛りや旅鞄

 旅行鞄に明日からの旅に必要なもろもろを詰め込んでいる。もちろん、雨具も。南の海上では台風が発生して北上しつつあるという。台風と鉢合わせしてしまうか、或いはうまいことかわすことができるか、運を天に任せるほかない。万が一台風の直撃を受けて、いつぞやのようにまた旅の宿で缶詰を余儀なくされたとしても、それはそれで一興ではないか。出発は明日の朝、6時。

いま見ゆるものを見てをり冬の葬

 作者は、今見えているものを見ているという自分の行為の神秘に思い至った。今自分が見ているということ、すなわち生きているということが、眼前の事物の存在を保証している。死者の前には何も存在しない。死者も何かを見ているだろうというのは、生者の感傷にすぎまい。
 他の人の眼にも自分と同じように見えているだろうというのも、人が陥りやすい錯誤だ。他でもない、自分の眼で見ているという行為のかけがえのなさに気づかせてくれるのが、俳句という文学なのではないか。

ペン執るや言葉ひつこむ十三夜
昂りの欲しくて落ち葉踏みにゆく

 気持を昂らせなければ、言葉は生まれないのである。ペンを握っても、キーボードに手を載せても、それだけでは言葉はなかなか思うようには出てきてくれないのである。そんな時、人は月の光を浴びたり、落ち葉をかさこそと言わせたりしようと、外に出て行くのである。落ち葉を踏みに行くとは、言葉を拾いに行くということなのである。月の光が呼びかければ、人は何かを答えようとするだろう。西行法師も、ベートーヴェンも、宮沢賢治も、きっとそうだったに違いないのだ。

古里の訛日傘に畳み込む
浮草や水に沈めるものの息
涼しくてピアノの蓋を開けてみる
鰯雲待ち呆けのまま晩年に

こくぼこくぼ 2016/06/06 13:01 上田さんはパソコンを開かれないのでプリントアウトしてお送りしますね。すご〜くお喜びになられると思います。またどうぞ街の句会にもいらしてくださいませ。

mf-fagottmf-fagott 2016/06/06 22:18 こくぼ様、コメントありがとうございます。上田様にはお礼状も差し上げず、失礼しております。街の句会に参加できれば、その時にごあいさつしようと思っていますが、だいぶ先の話になってしまうかもしれません。よろしくお伝えください。

2016年02月19日

[]定番教材に新しい光を! 定番教材に新しい光を! - 僕が線を引いて読んだ所                        を含むブックマーク 定番教材に新しい光を! - 僕が線を引いて読んだ所                        のブックマークコメント

 面白かった!
 「超入門!」とうたっている通り、高度な内容が分かりやすく書かれているのはもちろんのこと、実例として挙げられている作品が『羅生門』、『山月記』、『舞姫』という高校の国語の定番教材であるところが嬉しい。
 これらの作品を取り上げる授業はどうしても毎回同じパターンになりがちだが、「統制的規則」、「制度的事実」などといった用語を当てはめてみることで、作品に新しい光があたったように、たとえば『羅生門』が今までと違った新鮮な姿を見せてくれる。あるいは、プロップの「物語構造論」を当てはめてみることで、『山月記』や『舞姫』の中に『桃太郎』との共通点を見出すことができる。
 文学の好きな高校生にはぜひこういう本にチャレンジしてほしい。そして、『羅生門』の授業で、「僕にとって印象的だったのは、

下人の心理の移り変わりやエゴイズムの問題ではなく、下人と老婆の会話に現れた日常言語の崩壊した世界であり、そこに展開する生々しい現実、生の現実の世界

でした」なんて発言してくれると、俄然、こっちもやる気が出てくるんだけどな…