興味のあること:古武道、インド哲学・思想、そして最近は内田樹先生
2004-12-11 社会を受肉するという行為
それがものすごく極端な形で分かるのが「食べること」だろう。
「たべもののうらみはこわい」
http://blog.tatsuru.com/archives/000121.php
では、スローフード運動の裏に隠されている政治的な意図について語られている。それは、今までライフスタイル誌などでよく目にしてきた「ローハス」だとか「スローライフ」みたいな、生活の心地よい肌触り、を超えたところにある「枠組み」を示唆してくれた。そんな枠組みがあるのだという投げかけ自体、とても刺激的だった。
でもほんとうにわたしが気になったのは別の場所にある。
20代のころの内田先生は『けっこうストリクトな「玄米正食」をしていた。』らしい。
自分もヨガに傾倒していたころは厳格なベジタリアンだったからよく分かるのだけど、それは日本ではかなり風当たりが強い。ヨガがおしゃれなエクササイズになった今はかなり状況が変わったと言ってもいいけれど、それでも「ベジ」というコンセプト自体、まだまだ日本の社会では受け入れられてはない。
自分はベジタリアンだ、と表明することは、社会に対してなんらかのコンフリクトを含んだ意思表示とならざるを得ないのが現状だ。
ひとつには、寿司や刺身を筆頭に、魚介類を食べるということが、日本の伝統文化といえる域にまで、わたしたちの意識や生理の深い部分に達しているため、動物性たんぱく質を摂らないということに対し、なにか理性を超えた違和感を与えるのではないか。
それが、日本人の特徴だ。時として、個人の好みは集団の意思や感情にやすやすと呑む込まれてしまう。
対して欧米人は、個人のポリシーや好みが民族の傾向よりも上位にあることが多いだろう。基本的に欧米人は肉食民族だが、個人的な理由で菜食を選んだ人に対し、社会からの無言の圧力が押し寄せてくるということは、あまり考えられない。
いずれにせよ、玄米正食を続けた内田先生は、『その結果、友人たちの誰ともいっしょに会食できない人間となった。居酒屋に行っても食べるものがなく、レストランに行っても何も美味しくない』状態になる。
その結果、友情は危機に瀕することになる。それを憂慮した先生は『わが身の健康を棄てて、ジャンクな連中との友情を選ぶことにした』という。
これはやや誇張された表現だと思うけれど、食で人間関係の質が規定される部分は、確かにある。
いろんな遍歴を経て、わたしも厳密な菜食は、日本では行わないことにした。菜食を貫くときのあまりの面倒くさいやりとりや制限だらけに音を上げて、「社交」を取ることにしたのだ。
ベジタリアンがメインストリームのインドにいるときは、今までどおり菜食に戻る。体はすっきりして気持ちいい。体が気持ちよくなると心も軽やかに、執着のない状態に近づいてくる。
そんな実験的な気分が味わえるから、菜食は楽しい。その菜食を、インドという国は喜んでいるのだ。だから、インドで菜食するのはとても自然なこととして流れてゆく。対して日本で菜食するのはものすごく違和感のある、傍から見れば不自然なことなんだろう。だとしか思えない、日本社会からの得体の知れない抵抗が、菜食時代にはあったことを思い出す。
中略
>いろんな遍歴を経て、わたしも厳密な菜食は、日本では行わないことにした。菜食を貫くときのあまりの面倒くさいやりとりや制限だらけに音を上げて、「社交」を取ることにしたのだ。
みみさん、こちらでは、はじめまして!
上記の内容は今日の内田先生と三砂先生の対談にも出てきて、私も非常に印象に残ってます。そして何を隠そう、私も桜沢如一氏のマクロビオティック料理(正食)やら、玄米菜食にこだわった時期があり、お二人と同じ経緯で「社会性」を選ぶにいたりました(笑)。知人には今だにかたくなに玄米正食にこだわってる方もおられますが・・・。でも、だいたい私の周囲は中庸組が多い気がします。あと、すっぱり辞めた方とか・・。私は内田先生やみみさんや私が選んだ中庸の道が「ええ」と思っています。やはり内田ファンは似てるのかも知れませんね(笑)。ところで今日は、みみさんにお会いできなくて残念でした。