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17人の訳者によるイェーツ訳詩饗宴


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W. B. イエーツ、加島 祥造訳編『イエーツ詩集』(思潮社 海外詩文庫、1997)



 異色のイェーツ訳詩集だ。おそらく最も薄い、わずか160ページのイェーツ訳詩集であることもさりながら、そこに17人もの翻訳者の翻訳が詰め込まれている。ふつうなら、こんな発想は出ない。

 いったい誰がこんなことを考えたのか。たぶん、編纂した加島祥造だ。自身詩人でもある加島が、楽しみつつ十人十色の訳詩を集めてきたものに相違ない。

 そこには詩の読み方に対する強烈な提言が秘められている。詩がわかる(分かる)ということには二方向あると加島は考える。「分ける」ことで理解する分析的な方法が第一の方向だ。学者はこの科学的方法をとる。それに対し、「分けあう」ことでその詩の本質をこちらも分けあうのが第二の方向だ。詩人はこの、全身で感受する方法をとる。

 両陣営は互いに相手方を疑いの目で見ている。学者は詩全体をそのまま感得するなんて出来っこないと思っている。詩人は分析的な理解なんて信用していない。

 この、ある意味で不毛な、不幸な対立を一度ぶち壊してしまえ、と加島は思ったのではないか。そのために、わざわざ毛色の異なった翻訳者をずらりと揃えた。これほどのアプローチの違いを目の当たりにすれば、みんないっぺん頭がリセットされるだろうと。

 結果、非常に刺激的で面白い訳詩競演の本が出来あがった━━かどうかは、読者の判断に委ねられる。

 少しだけ例を挙げよう。イェーツの代名詞のような 'Lake Isle of Innisfree' は加島訳では「ああ、明日にでも行こう、あの島へ/そしてあそこに小屋を立てよう。」と始まる(「湖のなかの島」)。言われなければイェーツの詩の翻訳とは分からないくらい、個性的な訳だ。

 めずらしい田村英之助の「娘のための祈り」の訳にははっとさせられる。「わが娘に美が与えられるように、私は祈る。/だがそれは、他人(ひと)の眼をまどわし、/鏡のまえでみずからの眼をまどわす美ではない。」と、原詩に勝るとも劣らない詩行を綴る。

 訳詩集の最後に芥川龍之介による「ケルトの薄明」の訳と松村みね子片山廣子の筆名)の「鷹の井戸」の訳を並べてあるのには、思わずにやりとさせられる。編纂者は本当にこの仕事を楽しんでいる!