すべての夢のたび。

1日1記事ぐらいな感じでいきたい雑記ブログ

不幸を愛する。

不幸の反対のものが幸福、ではないこと、について考えていた。それまでの幸福をすべて打ち消してしまうような不幸、というのは容易に考えられても、これまでの不幸をなかったことにできるような幸福、というのはちょっと考えにくい。対称ではないなぁ、と。これがお金のことであれば、負債をキャンセルできる資産というのはふつうにあり得るし、その逆もある。なので、不幸と幸福は、あるものの2つの側面ではないということ。ぜんぜんべつものかどうかはまだわからないけど、べつのものだ。

なぜだかぼくらは、たとえ幸福が訪れたとしても、いままでの不幸をわすれることができない。そこにはどうも、不幸だった時代をわすれてはならないのだ、という力がどこからか働いているような感じがある。そして、そのこと、不幸をわすれないでいること、はとても大事なことなんじゃないかと、そう思っている。


そう思わせている裏側にあるものをさぐってみた。そしてわかっ(てしまえば単純なことだっ)た。ぼくらの「不幸好き」はどこから来るのか? それは、現在の幸福との落差を作り出すためだ。要は、ささいな幸福でも、いままでのことを思えばすごいことだよね!というわけ。幸福は、すくなく、大抵はたいしたものでもないので、より味わい深いものに調理してから味わう必要があるのだ。なんのことはない。他人の不幸がニュースにあふれている理由と同じだった。ぼくらは自分の不幸さえも道具にしなくてはならないほど切実なのだろう。

そう考えると、逆のケース、「不幸は幸福を打ち消してしまう」という事情もなんとなくわかる。だって、そこで過去の幸福だった時代を思っても、今の不幸との落差がよりひどくなるだけで、そんなことをしてもなにも得はないじゃん、というわけ。過去の不幸はバーチャルだけど今の不幸はリアル。回避しなければならないリアルの危機を増してやる理由はない。


好きな時にポケットから取り出して、てのひらの上でころころ転がして眺められるような不幸は、語れるような不幸は、たいした不幸じゃないのだ、たぶん。それはジェットコースターのような「安全なスリル」なのだと思う。きっとほんとうにヤバいものは、本人の意志に関係なく無意識下に押し込められて、表面上わすれられてしまうんじゃないだろうか(そしてそれをうまくやれない(セイジツな?)ひとが心を患ったりするんじゃないかなーとか思った)。と思い至り、うっかり封印を解いてしまってもアレなのでここまでにする。