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2006-03-23 孤高なるマイノリティ、アジア人、日本人、そしてパラダイス鎖国

[][] 孤高なるマイノリティ、アジア人、日本人、そしてパラダイス鎖国 22:53

昨日、また次なるネタの伏線を張っておいたのだが、その話でうまく上の句となるエントリーを書いてくださった方がおられる。

イチローからは『もっとも遠い』日本国民たち : " Moon Blue "

とても共感する内容だが、一つ付け加えたい。

昨日のエントリーで、アジア人はアメリカにおいて「独特のマイノリティ」と書いた。ヒスパニック系や黒人と一緒の立場で頑張れるワケではないのだ。

アジア系の現実の壁とイチローのポジショニング - Tech Mom from Silicon Valley

昨年のアメリカの国勢調査結果を数ヶ月前に新聞で読んで驚いた。人種別に見た平均所得で比較すると、アジア人は白人よりも高い。それも確か15%ぐらいだったと思うが、はっきり差が出るほどの違いがあるのだ。

マイノリティといえば、人口比率が少ないだけでなく、社会的に不利な立場に置かれ、そのせいで所得も低いのが相場だ。黒人やヒスパニックはもちろん、白人よりも低い。だから、低い立場でも差別しちゃいけないとか、平等になるよう引き上げてあげようとか、ポリシーの話は単純である。で、それは建前として、「身分」の違いのない現代アメリカでは、「持っているお金」で差をつけ、高い家ばかりの地域には住めないとか、高い学費の学校には行けないとか、高い会費のスポーツクラブには行けないとか、そういうことで、お金持ち=マジョリティは、自分たちだけの安全地帯を作っているワケだ。

しかし、マイノリティでも、アジア人は勉強ができる。ものすごく、勉強する。それで、所得が高くなってしまった。いまや、全米屈指の高得点を誇る、クパティーノ市の公立高校は、アジア人ばかりとなってしまい、白人がついていけなくて引越し去ってしまう。(Wall Street Journalの特集記事より)お金で線を引いた「お金持ちクラブ」は、アジア人なら平気で入っていくことができるようになってしまった。ある意味で、ユダヤ系と似たような立場ということができる。(ユダヤ系は人種ではないので、国勢調査では数字が出ない。)つまり、白人にとって、アジア人というマイノリティは、「あんたたち、お金なくて大変ね、がんばってね」という優越感を持てる相手ではないのだ。一方、アジア人自身も、黒人・ヒスパニックの典型的マイノリティとは、同士として一緒に頑張る感じではない。

お金持ちアジア人の多いシリコンバレーにいると、それが当たり前で、特に違和感もなく、普通にお友達をつくることができるが、ここを一歩離れると、やはりアジア人は数が少なく、見かけも生活習慣も違う、異質な人々と見られるのが現実。それでいて、優越感を持てない相手ということで、一種の屈折した、「差別」ともいえない、「異質感の壁」があるのだ。(だから、昨日書いた「なんとなく、安心できるポジション」という話になる。)

さらに、アジア系の中でも、日本人は他と違う。中国系や韓国系、あるいはベトナム系などはもっと顕著に、自国よりもよい生活を求めて、あるいは自国の大学や職場では得られない名声を求めて、この国にやってくる。自国に帰ることは、後退を意味する。だから、続々と渡米し、またアメリカでお互いに助け合いながら根を下ろそうとする。しかし、日本人は、今の日系人がその昔移住してきた頃は同じ事情だったが、今では日本に帰ることが後退ではない。むしろ、「本社での栄転」という、前進だったりする。生活水準は、日米では一長一短で、決定的な差はなく、またアメリカの大学よりも日本の一流大学のほうが、日本ではよほど重みがある。だから、アメリカに根を下ろしている日本人というのは、そういったシンプルな動機ではなく、(あまり好きな言葉ではないが、くくるとするとこれしか思いつかない)「自己実現」を求めている(または、逆に日本で落ちこぼれて・・というケースもかなりあるが)と言えると思う。それなりに助け合うが、数も少ないし、職場も立場もいろいろ散らばっているし、仕方なく一生懸命一人で頑張っている人が多い。

そして、そういう在外日本人に対して、国内に住む人は一般的に冷ややかである。(というか、マスコミが、といったほうが正確かも・・)

Don't get me started on this.. この話を書くと長くなるのでこれでやめておこうと思ったが、あ〜止まらない・・・イチローほどのセレブですら、日本に住む人にとっては「他人事」なのである。私がミーハー魂をささげる真田広之についても、同じ怒りを感じている。何かいい話があるときだけ、持ち上げるに過ぎない。(野茂やイチローが渡米したとき、冷ややかな論調が多かったように記憶している。)

アメリカに住む日本人の孤独は、他の誰とも違う。アメリカにおける白人マジョリティからも、他のアジア人からも、そして祖国日本に住む日本人からも、離れてしまった孤独なのである。海外で頑張る日本人とは、わざわざそういう苦労を好き好んでしょいこんだ、変わり者でしかないのだ。

だから、パラダイス鎖国して、じっと日本にいるほうが、当たり前という結論になる。でも、ニッポンのためには、それではイケナイ、と思うのだ。イチローがいなかったら、WBCではどうなっていただろう?世界の中で日本がリスペクトされるようになるには、そういう変わり者がもっといないといけないと思う。

なお、下記の「パラダイス鎖国」の記事も参考に読んでほしい。

パラダイス的新鎖国時代到来? - いいのかいけないのか?(その1) - Tech Mom from Silicon Valley

2005-08-03 パラダイス的新鎖国時代到来(その4)- 産業編・携帯電話端末のケー

[][] パラダイス的新鎖国時代到来(その4)- 産業編・携帯電話端末のケーススタディ 01:52

さて、パラダイス鎖国は、文化や意識の面だけではない。私の専門分野である携帯電話の業界では、「パラダイス鎖国」現象が近年著しい。

1990年代半ば頃まで、すなわちアナログ(AMPS)時代には、アメリカでも日本製の携帯電話端末が活躍していた。私も最初に買った携帯電話はパナソニックだったのを覚えているし、NEC、富士通、沖、三菱電機などの電話機が店頭を飾っていた。この頃、アメリカの方が普及率は高く、技術やマーケティング面でもアメリカは日本よりも2年ほど先を行っている感覚であった。

しかし、その後デジタル化でアメリカはつまづいた。政府主導で業界標準を決めるのが嫌いで、日本のドコモ(当時はまだNTTの一部だった)のような明確な市場リーダーもいないアメリカでは、「いくつかある世界標準から好きなのを選んでいい」ということになった。この結果、TDMA、GSMCDMAという3つの方式が乱立し、いずれもそれぞれを担いだメーカーが、数多いキャリア(通信事業者)に売り込みをかける乱戦となった。無線通信の技術というのは、実際に設備を打ってみると、理論どおりいかないことが多いので、こうした新しい方式のどれがよいかの論争は、水掛け論に近い「宗教戦争」の様相を呈する。キャリアとしては、間違った選択をすると生死に関わるので、慎重に検討する。(実際、間違った選択をしたAT&Tワイヤレスは、10年たたないうちに消滅した。)当然、時間がかかる。泥仕合が数年続くアメリカに対し、日本はアナログがまだあまり普及しないうちに、さっさとドコモが独自方式のPDCを全国展開して、一気にデジタル化で先行した。日本の端末メーカー各社は、この時期にアメリカに見切りをつけてしまったのだ。混乱の果てにようやく98年頃から本格化した米国のデジタル携帯電話では、日本メーカーの姿はすっかり消えてしまった。

一方で、日本ではiモードが花開き、薄型で美しい液晶を搭載し、音もきれいで高機能な電話機が次々と出る。サービスでも端末でも、日本のケータイは「世界一」になった。日本の国内市場が成長するスピードについていくのに、メーカーも必死である。どの方式を開発すればいいかさえ決められない、アメリカなど、相手にしている暇はなかった。日本は世界をリードする携帯技術を手に入れたが、先に行きすぎて、他の市場を捨ててしまったという皮肉な結果になった。

そして、3Gも世界に先駆けて始まった。3Gは次世代の世界標準で、ようやくこれで日本も、PDCで孤立していた状況を抜け出し、メーカーは世界で売れると意気込んだ。

しかし、欧州でもアメリカでも、3Gの展開は遅々として進まない。世界標準といっても、今度も結局は2本立てになった。欧州のGSM後継方式とドコモ方式を融合したW-CDMAと、米国・韓国やKDDIが採用したCDMAの後継方式cdma2000の2つである。ドコモが名誉をかけて推進したW-CDMAのために、NECやパナソニックなど、ドコモ陣営のメーカーは莫大な研究開発費をかけた。並行して、ドコモが海外のキャリアに出資して、W-CDMAの採用を働きかける作戦に出た。忠誠を尽くしてくれたメーカーの努力にも報いなければいけないので、出資先のキャリアには、ドコモ陣営のメーカーの採用を働きかけた。アメリカでは、AT&Tワイヤレスがそれであった。

こうして、久しぶりに、業界展示会のCTIAでは、NECやパナソニックの端末がお目見えしたのが2年ほど前だったか。日本の技術の粋を集めた、美しく、高機能な端末であった。しかし、値段は高く、販売はそれほど伸びず、また他のキャリアへの浸透もあまり進まなかった。展示会ブースで話を聞くと、「なんだか、お高くとまってるなぁ。日本の洗練されたユーザーと比べて、アメリカの一般消費者をバカにしてるんじゃないのかな?」という印象を受けたものだ。

そして、ついに今年は、AT&Tワイヤレスの消滅とともに、この両社の携帯電話機の展示も、CTIAから消滅してしまった。90年代の華やかさを知る私は、今年のCTIAでの両社のブースの様子を見て、思わず鉄骨だらけの天井を見上げてため息をついた。やっぱり、ダメだったか・・・(詳細はここを参照)

現在、アメリカ市場でなんとか頑張っているのは、KDDIにCDMA端末を供給している三洋と京セラぐらいであるが、シェアは残念ながらあまり大きくない。結局、アメリカ市場ではデジタル3方式のうち、CDMA方式が勝者となったのだが、この方式を採用しているベライゾンとスプリントで、この2社の製品が売られている。いずれはW-CDMAに移行すると見られているGSM陣営のシンギュラーでは、ノキア・ソニーエリクソン(日本ではソニーが主体でCDMA端末もやっているが、アメリカではスウェーデンのエリクソンが主体でGSM端末に特化している)・シーメンスなどの欧州メーカーの独断場がつづいている。(米国のモトローラは両方式ともに供給しており、実は最近はだいぶ両方で巻き返している。)

こうして、日本の大手メーカーはアメリカでの地位を失い、欧州でも苦戦、一方日本ではどんどん進んだ端末が出る、という、典型的な「パラダイス鎖国」状態となってしまったのである。

日本が自国の殻に閉じこもる一方、韓国のメーカーがめざましい躍進を遂げた。同国では、国策としてCDMA方式を採用、端末デザインや液晶の技術、データ系サービスやエンタメ系コンテンツなどでは、日本と同等か場合によっては一歩先を行くぐらいの先進性がある。CDMA採用を決めた早い頃からサムスンがスプリントに端末を供給を開始した。サムスンと、その後やや遅れて参入したLGの韓国陣営は、韓国風(=日本とほぼ同じ)の折りたたみ式、美しい液晶、カメラ付きの魅力的な端末をどんどんアメリカに売り込んだ。その後GSMにも供給を始めているが、ここまでのアメリカでのCDMA陣営の勝利は、韓国メーカーの端末が原動力となっている。販売台数のシェアでは、まだノキアがトップを占めているが、これは無料やごく安価なものが多いからで、こうした端末を買うユーザーは、キャリアにとってもあまり上客ではない。業界で最も影響の大きい、数もマージンも大きい中位顧客層は、韓国メーカーとCDMA陣営が強いという構造ができあがった。

もはや、アメリカの携帯電話業界では、日本のメーカーはirrelevantになってしまった。それに対し、韓国メーカーは、relevantどころか、マーケット・メーカーにすらなっている。もはや、追いつけないほど先に行ってしまったのである。

この業界で、新規参入やシェアの拡大をしようと思ったら、「市場の不連続」現象のある時期、すなわち技術の世代交代期などを狙わないと難しいものである。日本メーカーにチャンスが巡ってくる、次の不連続期はいつのことか、何になるのか。いずれにしても、日本でのケータイ文化の爛熟とは裏腹に、世界での日本陣営のrelevanceは、むしろ低下の一方なのである。「パラダイス鎖国・産業編」の最も典型的なケースではないかと思う。

2005-07-28 パラダイス的新鎖国時代到来? - いいのかいけないのか?(その1)

[][] パラダイス的新鎖国時代到来? - いいのかいけないのか?(その1) 00:31

また1ヶ月も更新をさぼっていたのは、毎年夏の日本での休暇のため。毎年夏に帰るごとに、「日本はどんどん住みやすくなっていくな・・」とぼんやり思っていたが、今年の夏は決定的に、「日本はもう住みやすくなりすぎて、日本だけで閉じた生活でいいと思うようになってしまった」、つまり誰からも強制されない、「パラダイス的新鎖国時代」になってしまったように感じたのだった。

私が中学生の頃にアメリカかぶれになったのは、その頃日本と比べてアメリカが圧倒的に素敵なところに見えたからだ。ティーンのこととて、音楽からはいったワケだが、当時のティーンのアイドル、「カーペンターズ」と「山口百恵」の間には、歴然とした格の差があった。私よりも先輩の世代と比べればまだ大したことはないが、それでも生活レベルの差があり、アメリカに行くことはとてもお金がかかる大変なことで、「憧れ」の対象であった。それが原動力になって、一生懸命英語を勉強して、高校でアメリカに交換留学に来た。その後ヨーロッパやアジアを放浪して歩いたのも、アメリカの原体験で培われた「外国」「異郷」に対する憧れが原動力だった。

でも、今はアメリカのアイドルも細分化・矮小化してしまい、Jポップと圧倒的な格差があるようには見えない。文化面だけでなく、携帯電話やブロードバンドなど、生活に密着した技術の部分では、もうアメリカより日本のほうが進んでいると見える。わが家の8歳の息子でさえ、駅にずらりと並んだハイテク自販機や自動改札を見て、「日本のほうが技術が進んでる」を持論としている。日本の家は相変わらず狭いけれど、一歩外に出ればものすごい量の商品の並ぶ店やおいしいレストランがいくらでもあり、公共サービスも充実してきたし、一時ほどモノの値段も高くない。

まだまだ海外旅行は好きなようだが、これもぐんと安価・手軽になり、一昔前と比べ、一般の日本人が外国生活に憧れる理由は格段に減ってしまったのである。となれば、わざわざ苦労して英語を勉強して、犯罪やテロや戦争のある外国に行くのは、酔狂な話である。

そして、所得が増加して国内市場が大きくなり、一方で中国での生産やデジタル経済による種々の価格破壊によってコストは安くなり、商品やサービスを売る企業も、日本国内だけで十分採算がとれるようになった。私がビジネススクールにいた頃、効率的な生産規模を実現するためにはグローバル化は不可欠、といったセオリーが信じられていたが、今やそんな必要もなくなってしまったようだ。この頃よく漫画にもなった、途上国の果てまで日本製品を売り歩く「モーレツ・ジャパニーズ・ビジネスマン」の姿は、最近とんと見なくなってしまった。

そして、90年代のネットバブル・シリコンバレー全盛時代には、かろうじて「ベンチャー」「ハイテク」のキーワードでアメリカは魅力を維持していたが、それすらもうなくなってしまった。

一時期、技術の進展による過度なグローバル化(=アメリカの影響力増大)を懸念して、ヨーロッパで激しい抵抗が起きたことがあったが、技術の進展と社会の豊かさの増大がかえって自国閉鎖型エコノミーを現出させているかのようだ。

日本が住みやすい社会になってきたというのは、とてもいいことである。アメリカも最近、別の意味(政治的)で孤立を深めているが、その前から、今の日本の「パラダイス的鎖国」に近い現象が見られた。アメリカ人が圧倒的に外国語が下手なこと、世界でただ一ヵ国、いまだに「ポンド・ヤード制」を使っていることなど、いろいろその証左がある。つまり別の言い方をすれば、日本が「アメリカ化」しているのかもしれない。

しかし、ホントにそれはいいことなのだろうか?日本という国が世界の中で生きていくにはどうあるべきか、日本にとってはどういうグローバル化がよいのか、ということを、多分気づかないうちに高校の頃からずっと追いかけてきた私にとって、ある意味では「アイデンティティ・クライシス」ですらある。

いろいろ考えるところがあるので、続きはまた別の日に。

やまたかやまたか 2006/12/12 01:27 察するところ、私は少し上の世代のようです。
地方で農業をしていますが、このところ極楽浄土というのは日本の農村のことではないかと思うことがあります。
仕事でトラックを運転することがありますが、周囲の四季の変化、花の盛り、紅葉の頃などは仕事としてるとは思えないですね。
この自然が、人間による開発と深く関係して成立してきたことは、富山和子さんなど多くの識者の論じているところです。
今でも黙々と農村を維持している人々のいかに多いことか。
私も年をとって少しは気づいてきました。

anjinanjin 2008/03/24 03:23 パラダイス的新鎖国時代

ネットが普及すればするほど加速しています。
皮肉なものだと感じています。

ご存知ですか? 今まで継ぎ手がなかった伝統工芸士や職人さんの
元で修行を始めているのはみんな20代です。

かやぶき屋根も70代と20代が一緒に働いています。

うちへうちへと向かうとその先には農村での自給自足しかありません。

競争をはなから避けて農村をめざす若者がとても多いのが今の日本です。