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 みちのく怪談コンテスト

2013-07-11

第3回「みちのく怪談コンテスト」選考結果を発表いたします。

第3回「みちのく怪談コンテスト」


以下のように各賞が決定いたしました。


大 賞:『ジン』/鬼頭ちる

優秀賞: 『雪人』/真木真道
優秀賞: 『夜釣り』/湯菜岸時也



佳作:『書痴(とも)有り、深淵(えんぽう)より来たる』/岩里藁人
佳作:『海へ還る』/オギ
佳作:『二年目の夏』/剣先あやめ
佳作:『狐立』/のらぬこ
佳作:『故郷の味』/深田亨
佳作:『鉄道ノ延伸セサリシ事』/深田亨
佳作:『桐箱』/須藤茜
佳作:『芋煮怪』/樽地蔵太
佳作:『天童咲分(さきわけ)駒』/新熊昇
佳作:『崖の絵巻』/君島慧是



高橋克彦賞:『もう一人の僕』/三和
赤坂憲雄賞:『お蚕さま』/須藤茜
東雅夫賞: 『等高線』/国東
東北怪談同盟賞:『あなたさま、あなたさま』/こなこ
荒蝦夷賞: 『みちのくストリップ・ティーズ』/庵堂ちふう
赤べこ賞: 戸田書店山形店・笠原店長による選出(笠原店長本日欠席のため、後日、追って発表いたします)




各受賞者の方々には、事務局より、追ってご連絡をさせていただきます。

受賞なさった皆様方、そしてご投稿いただいたすべての皆様方に御礼申し上げます。


東北怪談同盟

2013-05-10

『みちのく怪談コンテスト2010傑作選』本日発売!!

皆さま、ご無沙汰しております。


たいへん長らくお待たせいたしました。諸事情により発売が遅れておりました『みちのく怪談コンテスト2010傑作選』を、(有)荒蝦夷より発売することができました。
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東北怪談同盟が誇る絵師、金子富之画伯による表紙が目印。
皆さまにご投稿いただいた作品の中から、「みちのく怪談」の原点たる柳田国男先生の『遠野物語』にあやかって、『遠野物語』原典と同じ119篇を収録しております。


それに加え、高橋克彦・赤坂憲雄・東雅夫の審査員3氏による選考会レポート、東北怪談同盟・黒木あるじ×鷲羽大介の対談による顛末記も収録。
価格は税込みで1575円となっております。


ネットでお買い上げの場合は、hontoネットストアをご利用ください。
http://honto.jp/netstore/pd-book_25615308.html


店頭でお買上げの場合は、こちらの荒蝦夷発行出版物取扱書店でお求めください。
http://homepage2.nifty.com/araemishi/shoten.html
全国の紀伊國屋書店、ジュンク堂書店、丸善各店でもお買い求めいただけます。
店頭にない場合は「仙台店から取り寄せ」の旨、各店のご担当者にお伝えください。


『みちのく怪談コンテスト2010傑作選』を、どうぞよろしくお願いします。


(わ)

2013-02-17

アップロード終了のお知らせ

皆さまには、本年度も「みちのく怪談コンテスト」にご参加いただき、まことにありがとうございました。

以上をもちまして、ご応募いただいた作品すべてのアップロードを完了いたしました。

選考や受賞の詳細につきましては、追って発表いたします。


今年もありがとうございました!
(わ)

まるす『棺への手紙』

 死化粧を施され、おだやかな表情で棺の中に横たわる姑の「納棺の義」は、粛々と進んでいた。
「おばあちゃんに『ありがとう』って書くのよ。できるでしょ?」
 保育園で、ひらがなを覚え始めた息子の峻に、そう言い聞かせてから、由美は自分の便箋に向き合い「もっと親孝行がしたかったです」と、サラリと書いた。ちいさな便箋に故人への想いを綴り、自分の髪の毛を一本挟み込んで折り畳む、それを人形を象った封筒に入れて棺に納めるのが、この地方の風習である。
 5年前、峻が生まれたのをきっかけに、一家は、夫の実家(母親が一人暮らしをしている東北地方のT市)に移り住んだ。同居には抵抗もあった由美だったが、一緒に暮らしてみると、姑は孫の面倒をよく見てくれる上に、家事のほとんどを賄ってくれた。おかげで彼女は、外に出て働き、新しい友人達と遊ぶ自分の時間を持つことも出来た。
 一年前、姑は脳梗塞で倒れ半身不随となった。その時も姑は、自宅療養ではなく、由美の勧める介護施設への入所を選んでくれた。そして『いずれは不自由な体になった姑を引き取らなければならない』という由美の憂鬱な心中を察したかのように、そのまま施設で逝ってくれたのだ。「逝ってくれた」というのは正直な気持ちだったが、もちろん彼女はそのような素振りは少しも見せず、姑の死を悼む良き嫁として如才無く振る舞った。
「かいた」
 峻が差し出してきた便箋を「ちゃんと書けたの?」と言いながら受け取ると、ハラリと何かが落ちた。由美の黒い喪服の胸元に止まったのは、一本の白髪だった。
 便箋に目を落とすと、そこには、たどたどしい文字で『おめえもおんなずこどさえんだ』と、あった。
 三度読み直して、それが『お前も、同じ事をされるぞ』という意味だと分かった由美に「ばあちゃんが、いってらよ」と無邪気な笑顔で、息子が話しかけてきた。

村岡好文『まがい物』

 ねぶたが見たい、と息子にせがまれた。
 青森までは遠いぞ、と言うと、町内に来るからそれを見たいという。そして一枚のチラシを持ってきた。「ねぶた来る」と大書してあり、武者絵らしきものが描かれてあった。日時は今日の午後一時。もう間もなくだ。
 私は苦笑した。チラシの字も絵も子供の殴り書きのようにへたくそだ。どうせまがい物に違いない。しかし病弱なうえ何に対しても消極的な息子が珍しく目を輝かせているのを見ると、まがい物でも何でも見せてやろうという気になった。
 外に出た。町内のどこに来るのかはわからない。私は真昼の暑い中、人通りのない道を息子とぶらぶら歩き始めた。と、どこからか声が聞こえてきた。ねぶた独特の、あのかけ声だ。息子が私の手を引っ張るようにしてその声の方へ足を速めた。
 るぁっせるァ、るぁっせるァ・・・
角を曲がると急に声が大きく響いた。十数人が神輿のようなものを引きつつ叫んでいた。
 ああ、やはりまがい物だ、と私は思った。彼らが引いているのがねぶたということらしいが、どう見てもできそこないの張子だ。そしてハネトたちも異様だった。目を吊り上げ歯を剥き出して、何かに怒りをぶつけているような踊り方だった。
 るぁっせるァ、るぁっせるァ・・・
彼らは喚き散らし滅茶苦茶に踊り狂う。こんなまがい物を見てもしようがない、と私は思い、息子を連れて帰ろうとした。だがふと見ると、息子は恍惚として、しかもわずかに手足を動かしていた。私は戸惑った。
 不意に息子がハネトの中に駆け込んでいった。咄嗟に伸ばした私の手は空を掴んだ。息子は跳ねた。あのひ弱な子とは思えないほどに。目を吊り上げ歯を剥き出して、何かに憎悪をかきたてられているかのように。
 るぁっせるァ、るぁっせるァ・・・
まがい物のねぶたは角を曲がって消えた。

日野光里『ゆきぼら』

春の雪解け近くになると、おかしな雪洞(せつどう)ができることがある。
人の形の洞だ。
まるで、ベスビオス火山の後に見られる人型の空間のように、重なる雪の中、ぽっかりと穴があいてるのだ。
それを、地元の人は「ゆきぼら」と呼ぶ。
「誰かいたの?」と問えば、首を振られる。
「これは人の形に化けた獣のあとだよ」だそうだ。
でも、獣だって抜けた痕がない。
「まあ、そういうものだから」
呟かれ、そういうものかと思うのだ。
ある冬、しんしんと積もった雪景色の夜。
ふわんっと、雪の中ほどあたりに明かりが灯った。
人の形の洞が内側から光っている。
ああ、ああやって「ゆきぼら」はできるのだと見ていた。
やがて、ぼんぼりのようなその光は、ふわりと雪を抜け、ゆらゆらと白い森へ帰っていく。
あれでは穴はないはずだと、私は思って見送った。

大河原朗『帳面』

 紳士服売りの婆さんは懐に手を入れて青ざめた。商売人の命がないのだ。
「頭には全部入っている。でも他の商売人に万が一でも拾われたら大変だ」
 それには東北の村々の家族構成から祝い事、法事の時期まで細かに書いてある。家々を周り歩くとき、何気ない会話からそれとなく聞き出したものだ。今でいう顧客名簿だが、婆さんはただ「帳面」と呼んでいた。
 この先の村で来年学校を出る息子がいる。器量が良いから東京へでも進学するに違いない。そうなれば一張羅も必要になろう。そう計算したときは、まだ帳面は持っていた。
 来た道を早足で戻る。棒きれで道ばたの草を払う。枯れた用水路を覗き込む。そうこうしてようやく帳面を見つけた。それが沢の入り口の大きな石の上だったので婆さんは怪しんだ。腰掛けるにはちょうどいいが、こんなところで休んだ覚えはない。帳面と自分の着物を結んでいた紐はざっくりと切れている。
 目的の村に着くと酷く騒がしい。駐在所の巡査なのか、笛を吹きながら村の男たちに何やら指図している。遠巻きに見ている女たちの輪に入ると、あそこの家の息子が急にバタンと倒れた、まだ身体は温かいのに息をしていない、などと囁き合っている。勉強のしすぎかね、と聞こえたとき、婆さんはそっとその場を離れ、村から立ち去った。
「よそ者だからな。変な因縁つけられても困るし、売るもんも売れなくなった」
 婆さんは、そういいながらも、懐の帳面をもう誰にも渡すまいかと抱きかかえていた。そして、心底悔やんだ。
 あの息子の名前がこすり消されていた。何者かに見られたとしたら、償いきれる過ちではない。
 婆さんが商売人の命を捨てた、これが理由である。

高柴三聞『カマスおやじがつれて行った』

 僕は、昔から押入れにいるのが好きだったから、随分とうっかりした事になってしまったなと思う。
 ある雪の朝。母さんがいなくなってしまった。父さんも、爺も婆も口を噤んでいるだけだった。出し抜けに、母さんがしてくれたカマスおやじの話を思い出した。
 母さんは、袋に入れられて攫われたのだと思った。私は、怖くて、怖くて押入れに身を隠した。うつらうつらと居眠りが始まる。そして暗くて静かな時間が流れていった。
子供の私は、空腹に耐えかねて押入れから這い出す。そして、外の異変に気がついたのだった。誰もいなくなっていたのだった。
テーブルに伏せてある茶碗。読みかけの新聞。開けっ放しの玄関。
私は、思わず怖くなって、外に駆け出した。
外は、誰も居なくなっていた。
 粉雪が静かに舞い降りる。道の真ん中に人だけ居なくなってしまった自動車。倒れて置かれた自転車。
 駆け込んだ商店にも誰も居なかった。人の姿。否、生きている者の姿はどこにも無かった。主を失った無機質な街が残骸のように僕の目の前に広がっていた。
それこそ、テレビやラジオを着けても、空しい砂嵐が出てくるだけだった。
それから私は、何年も一人ぼっちだった。何故、私だけ。やはり、押入れに居たのが良くなかったのか。
嗚呼、人の声が聞きたい。そして私は

野棲あづこ『後継者』

 しゅっしゅっと手元から聞こえる微かな音とともに籠は少しずつ形を浮かばせていく。私の籠は編み上がるなり、待ちわびている人の手に渡っていく。いつのまにか匠と呼ばれるようになったが、この腕は受け継いだもの。
 私の手柄ではない。

手は一時も休まない。祖母の手によって黙々と目を編み連ねていく籠は、美しい曲線を描く。私は、その中に紅い林檎や深い紫の葡萄が盛られている姿を想像してうっとりとする。
 ――私にも作れるかなあ。
 そういって、習い始めたのだが私の籠は目もそろわず、曲線は波のよう。祖母の手の動きと比べて、ふっと息を吐く。
 もう全然駄目だ。諦めかけて手を止めたとき、ぱちんと囲炉裏の火がはぜた。
 祖母が私の籠を見る。
 ――ああ、懐かしいねえ。
 祖母の指は不格好な籠の目をなでる。――気にせず続けな。そのうち私の手をやるよ。ばあちゃんの手もばあちゃんのばあちゃんから貰ったんだ。
 
籠編みを習い始めた次の冬、祖母は亡くなった。私は不格好な籠と、芸術品のような祖母の籠を並べて泣いた。
 泣ぐな。泣ぐな。
 泣き続けていると祖母の声が耳に響いた。肉厚で皮膚が堅い、暖かい感触がふわりと両手を包んだ。
 すぐに竹を割り、籠を編んだ。手が竹を知っていた。するすると目が揃い、線は緩やかな丸みを帯びた。編み上がった籠を前にもう一度泣いた。私は腕をあげ籠を編み、日々は積み重なった。
匠と持ち上げられるようになっても私はまだ一人前ではない。この手を受け継ぐ者を育てなくては。
 
 ――あなた、やってみませんか?

高柴三聞『家守になったお父さん』

 ある村の外れに親子が住んでいました。父と年頃の娘の貧しい二人暮らし。父は、朝から晩まで山に入り炭を焼いて暮らしていました。娘は、峠の小屋で一人お茶屋をして暮らしていました。娘は父が嫌いでした。卑屈で汚れていて何とも腹立たしくて仕方ありませんでした。ついつい強い口調で話をしてしまう事が度々でした。そんな娘が、父は怖くて仕方ありませんでした。いつも横目で娘の機嫌を窺って暮らす有様。
 ある雪の降る夜のこと。父親が、いつものように囲炉裏の前で背中を丸めて酒を呷っていました。娘は、飯を食うと、父親の前から消えるように床に着きました。家の中では親子の間を遮るものがありません。父が娘から隠れること、娘が父を避けることはどちらか一方が目を閉じることでしかできません。父が、苛立たしげに何か呟いて立ち上がりました。ゴトンと茶碗が音を立てて床の上に転がりました。いつのまにか父は酒臭い熱い吐息を娘の耳元に吐きかけながら娘の上に覆い被さっていました。暗い家の中に、犬の遠吠えのような叫び声が木霊しました。驚いた娘は、気が付けば壁を背にして座り込んでいました。娘の視線の先には、父の肉体だけが、ふわっと空気の中に溶けたかのように父の着物が床の上に落ちていました。娘が薄暗い暗闇に目を細めて見つめると小さな一匹の家守が壁の上を必死に逃げまどうように這い回っていました。そして、家守は、暗い天井の闇の中に消えていってしまったのです。
 それから、娘は独りぼっちで暮らしていました。村の人が父のことを訪ねると、娘は無言で家の天井を指さすのが常でした。そして指の先には必ず家守が一匹、落ちつきなく這い回っているのが見えたそうです。娘は長らく一人で暮らしていたそうですが、その娘も家を出て家守のいる家だけが長い間独りでに朽ちていくまで取り残されていたそうです。

高柴三聞『なまはげびふぉあくりすます』

 人間の子供に元気がないと言いながら沼の河童が転げるように、なまはげの住処にやってきた。なまはげは丁度、趣味の包丁砥ぎの最中で、内心煩いやつが来たと心の中でボヤイいた。河童が一方的に話すのを最初は上の空で聞いていたが、だんだんと心が痛くなってきた。何でも、親に愛されない子がおるとかで、人間の世界では「家庭の事情」とかいうのだそうだが…。なまはげは、包丁を研ぐのを止め腕組みして考え込んだ。子供に笑顔を取り戻さねば。
 その日の夜、山の頂に、河童となまはげがいた。この時のなまはげの姿は異様だった。巨大な蓑を顔の下のほうに結んでヒゲのつもりらしい。頭に真っ赤な三角の帽子がかぶれずに角の片方にさしてある。左手には汚れた大きな袋。右手にはいつもの包丁…。包丁をめぐって、二時間ほど二匹は口論になるが、なまはげが折れる形で決着。折衷案として包丁の代わりに樫の木で作った大きな十字架を握ることに。結果的になまはげの姿はますます異様に…。
 なまはげは、地響きのような声で「めれーくりすんます!」と叫ぶと、人骨の手の部分を二本、トナカイの角のよう掲げた河童を従え、夜の街へ突進。かくして街は、吼え猛る怪物達により恐慌をきたしたのだった。空気の冷たい夜空は悲鳴が良く通る。子供は脅え泣き叫び、大人達は我先に逃げ惑った。二匹は、いかんせん人間社会に疎かった。警察どころか戦車が砲撃をしながら街中を走りまわる大惨事となった。命からがら逃げ帰って来るなり倒れこんだ。可愛そうに疲労困憊である。鈴の音が何処からとも無く聞こえて来た。サンタクロースのトナカイの引く橇が大空を駆けていた。橇の通った後から雪が、ダイヤモンドのように煌きながら二匹の所に舞い降りてきたのだった。メリークリスマス。

大河原朗『感触』

 胸のあたりがもぞもぞする。それが左の乳房だったものだからキャッと軽く悲鳴をあげる。真っ暗な部屋に目を凝らしても誰もいない。時計は見えないが、深夜には違いない。
 気の強い性分だった。翌朝、男子青年部の宿舎に乗り込むと、寝ぼけ眼の男性陣に向かって「誰がやった」と睨み付けた。
 それが二人の馴初めだった。年頃の若い娘に首根っこを掴まれ「胸を揉んだでしょう」と迫られたら面食らうしかない。彼は当時を振り返り「一番顔のいいオレを狙ったんだ」と得意満面だが、彼女は「スケベ顔のこいつにちがいないと思っただけ」と鼻で笑う。
 なんだかんだで結婚にまで至り、子どもを授かった。分娩台の上、まだ羊水に濡れる我が子へ最初の母乳を与えたとき、彼女は「この感じよ」と声を漏らした。あの晩、左胸をくすぐった感触とまさに同じだったのだ。
 彼女は「あなたが生まれるためにママとパパを引き合わせたのね」と無心に乳房を吸う我が子に語りかけた。後から思えば気恥ずかしい言葉でも、生命誕生の神秘を体験した直後は、理屈を超越した実感があったという。
「世の中には不思議なことがあるのね」
 彼女はその後、家族三人で幸せな生活を送っている――と、話がこれで終わったのは一年間だけだった。
 腫瘍が見つかった。
 子どもが一歳を過ぎ、乳離れしてからも左胸にあの感触が残っていた。感動体験の余韻にしては長すぎる。母子検診で医者にその旨を告げ、精密検査を受けた。彼女の嫌な予感は的中した。
 ところが、たしかに腫瘍はあったが、初期も初期、自覚症状もないばかりか普通では発見するのも難しいほどに小さかった。運が良いと医者にも感心された。
「どこまでが偶然なんだろうね」
 彼女は我が子を抱きながら笑う。もう左胸にあの感触はない。

一双『温度画像』

 中学最後の冬休みに僕はチャットサイトをロムっていた。
 話しているのはどちらも男で、九州と東北の人のようだった。僕がロムり出した時、彼らは雪の話をしていた。
「今年はまだ直に見てないなぁ」
「マジで? こっちは積もったのが溶ける前に次のが降るよ」
「白い?w」
「白いねぇwww」
「同じ日本で、同じ冬なのに、ホント違うよな」
「うんうん。そんなに離れているにもかかわらずこうして世間話ができる便利な時代w」
「しかも文章だけでなw」
「まったくwwwそれでも人柄って伝わるよねぇ。そこでユニークな九州君に、東北の俺が雪の代わりの冷たい話を進呈しよう」
「ナニナニ? ちょっと怖いんだけどw」
「んー、知ってて損はしないと思うけど、怖いの嫌なら止めとく?」
九州男児ナメんなよっw」
「オッケーwそれでは東北男児が語ります。一枚の画像の話。写っているのは雪原に少し埋まったピンクのニット帽」
「女物?」
「だろうね。その画像、触れると温度が違う。雪の部分は冷たくて、ニット帽の部分は温かい。そして、ニット帽の下はもっと冷たい」
「それって……」
「わからない。ただ、画像に触れるとパソコンでも携帯でも必ず壊れるらしい。文字通りのフリーズ(凍結)」
「何だそれwダジャレかよwww」
「wwwww」
「その画像。どこにありますか?」
 それまでロムっていた僕が書き込むと、二人は即座にチャットサイトからログアウトした。
 怪談好きが怖がりというは本当の話らしい。

田磨香『糸水』

 父の記憶はなく、貧しい母子家庭に育った少年時代。上手く周囲に馴染めなかった僕の、Dはたった一人の友達だった。
 青森から転校してきたDもまた、それがひどく中途半端な時期だったことと、訛りによる言葉の壁が災いして、上手く周囲に馴染めず、僕だけが友達だった。
 ある冬の日。いつものように、Dの家で遊んでいた時である。Dが突然、神妙な顔をして黙り込んだ。何事かと思っていると、やがて意を決した顔で立ち上がり、ついて来てと言って歩き出した。
 連れて行かれた先は、台所だった。蛇口から、細い糸のように、水が垂れている。Dはギュッと栓を閉めて、その糸を切った。
 見てて、と言ったDの声は、少し震えていたように思う。そして、一分と経たずして、ひとりでに栓が回り、蛇口からはまた糸状の水が垂れ始めた。
「おばあちゃん」
 二度、三度と同じことを繰り返したあと、四度目に、Dは呟いた。Dのいた青森では、あまりの寒さのために、水道の水さえ凍ってしまう。それを防ぐために、こうして水を出しっぱなしにしておくという。もう何年も前に亡くなったおばあちゃんがついてきているのだと、Dは言った。
 秘密だよ、と微笑んで。
 ああ。二人だけの秘密だ。
 仕事を終え、家に帰れば台所の蛇口から、細い糸のように、水が垂れている。
「少しずつ出せばメーターが回らなくて、水道代が節約できるのよ」
 母はそう言って、常に水を少しだけ出しっぱなしにして、貯めて使っていた。
 細い糸のような水。それは今はもうどこにいるかもわからぬDとの変わらぬ友情のようで嬉しく、母の人生を思うと、少し悲しい。

こなこ『あなたさま、あなたさま』

 あなたさま、あなたさま。一六の春の夜。東京からいらしたあなたさまのご寝所に、すうっとすべりこんだのはわたくしでございます。あなたさまの透きとおるような白い肌に、書きものをされる指先の凛としたたたずまいに、はしたなくも前後もしらず、吸いよせられるようにおもむいていったのはこのわたくしでございます。そうしてあなたさまに触れられて、撫ぜられて、わたくしのからだは目覚めていったのでございます。そら、ここも、ここも、そしてここも、そこも。あなたさまのもたらす深い深いよろこびを欲して、こんなにも昂ぶりつづけているのがおわかりになりますか。あなたさま、あなたさま。都会者は信用ならね。そんな言葉をくりかえし聞かされて育ったわたくしでございますが、ええ、ええ、もちろんわかってございます。あなたさまがそのようなかたでないことを。すがりつくわたくしの両脚をへし折り、あの谷底へと棄てていったことも、すべてはわたくしを守るため。わたくしを村の男たちのなぐさみものにしないためのあたたかい配慮でございましょう。ええ、ええ、もちろん、わたくしだけがわかってございます。なんていとおしいかた。おかげでわたくし脚は少々不自由になりましたけれども、薄桃色のすべらかな肌も、たっぷりとつやをたたえる黒髪も、ゆたかにうるおいつづけるそこも、すべてあなたさまとの夜のままでございます。ですから、あなたさま、あなたさま。わたくしをみたしてやまないあなたさま。あれから幾度となく季節がゆき過ぎましたが、あなたさまがこの村で見聞きしたことをしっかりまとめあげ、立派な学者さまになられて東京から迎えにきてくださる日を、わたくしずっとずっといい子にして待ちつづけているのでございます。ですから、ねえ、あなたさま、あなたさま。わたくしを目覚めさせるただひとりのあなたさま。さっさとおめのそれこっちゃ寄こせ。ぐぢゃぐぢゃに噛みちぎって食う。

国東『等高線』

 イヤホンが壊れたみたいに遠く近く、蝉の声が内耳で反響する。高い木立の中、木漏れ日がうるさいくらいだ。ゆうくんが今日はじめて振り返りぼくに「だまっているように」というジェスチャーをした。ぼくらは山道を上がって行く。ゆうくんの青いTシャツの背中には、ねずみの顔に似た汗じみができている。
 季節外れの椿がぼくらを覗き込むように咲いている。かれらは確かに、植物らしくじっとしているのに、黄色い花糸が常にこちらを向いているのだ。ぼくの不連続か瞬きの間に、かおをすっとを曲げてしまうようだ。かれらの中心から伸びた見えない糸を引っ張っているような感じた。世界を凧のように引いているのだ。
 椿が地蔵に変わってもぼくらは緊張を保ち続けた。地蔵は山道の脇にぎゅうぎゅうと肩を並べものめずらしげな表情でぼくらを見上げている。かれらは押合って、小さな頭を重ねて、ぼくらを目でカチカチと追っていた。
 ゆうくんの背中のしみはすっかり大きい。広げた傘を上から見るようだ。それはくるくるご機嫌に、見ない間は回っているように思えた。前方の木の上にたくさんの山犬がいた。かれらは前脚に顎を乗せたり幹に頬を寄せたりしてみな眠っていたが、決まって口を開いていて、その黒い額縁の中にはまた小さな山犬があるのだった。柔らかい舌で小さなかれの背を押している。時には夢のように舐めているし、今にも溢れそうなのもある。木の下を通り過ぎるとかれらの尻尾がすべて糾弾するようにぼくらを指した。
 金魚がいて、テトラポットがあり、イタチがいて、よくわからない緑色のマグカップのようなものが続いた。それはきっと道順だから、あとでメモしようと思ったが三十を越えたあたりからわからなくなった。ゆうくんと違ってぼくは頭が悪いのだ。ぼくらはかれらの中心線を引っ張り続け世界は次第に暗くなっていった。

鬼頭ちる『ジン』

 両親の馴れ初めを想う時、つい頬がゆるんでしまう。
 今から五十年ほど前、当時の父はまだ浪人生だった。ある雷のひどい日、一匹の猫が道端に倒れていたという。可哀想に、もしかして雷にやられたのか? 父は猫を連れて帰り、懸命に看病してやった。ここからが、ちょっと変わっていた。
 父はしばらくその猫と暮らすことになるのだが、何と猫は、”自分は猫ではない”と云い、筆記で会話をしてきたという。云われてみれば、猫よりだいぶ手足が長い。他にも幾つか猫とは違う特徴があり、父が”ではお前は何だ?”と訊ねると、猫もどきは自分のことを「ジン」とだけ名乗った。
 そんなジンは父の合格発表の日、突然いなくなった。出会った時と同じ、雷の日だったという。それから社会へ出た父は、何気なく立ち寄った博物館で、母と出会った。それは折しも、硝子の向こう側でミイラが微笑んでいた場所だった。
 母はちょっと変わった趣味を持つ女性で、今でいうところの『ミイラガール』だった。日本全国の、特に妖怪のミイラを観賞するのが何より好きだったという。そんな不思議な魅力を持つ母に父は、急速に惹かれていった。
「ねえ、宮沢賢治で有名な岩手の花巻に、《雷神のミイラ》があるそうよ。行ってみない?」母の眼が少し潤んでいた。
 雄山寺に祀ってあった”それ”を一目見るなり、父は”これはジンだ!”と直感したという。そして心の中で話しかけた。”ジン、ジン。お前、雷神だったのか”。その時、感動で震える父に、母はそっとこう云った。
「大丈夫。ジンは今幸せよ」実は父は、母にジンのことを話したことはなかったという。二人はその後、夫婦となった。
 今は亡き母は、雷が好きな人だった。普通なら怖くて逃げるのに、いざ雷の音を聞くと「充電してきます!」と外へ飛び出していくのだ。もっとも娘の私は、コンセントから直に頂くのが好きだけど。

宇津呂鹿太郎『二人の家』

 祖母が亡くなったのは冬が始まる日の朝だった。九十二歳だった。
 葬儀は祖母が長年住み続けた家で行われた。先に逝った祖父が二十代の頃に建てた家だ。所有していた山を切り開き、柱を立て、床を張り、屋根を葺いて、文字通りほとんど一人で建てた家だった。電気や水道も自分で引いたという。現代の大阪育ちの私には俄かには信じられない話だが、荒削りな家の柱や、家へと立ち並ぶ電柱の高さがまちまちなのを見ると、それが真実であることが分かる。
 その家は私の父と叔母にとっての生家でもあった。父も叔母も、大人になると働くために町に移り住んだ。祖父が亡くなってから、父は祖母にその家を出て一緒に暮らそうと何度か言ったことがある。だが祖母は「おれはどこにもいがね」の一点張り。頑固さにかけては誰にも負けない祖母だった。
 葬儀の後、親戚らと夜遅くまで祖母の思い出話に花を咲かせた。やがて皆それぞれ家路に就いたが、遠方から来ていた私と父、叔母の三人は、そこに泊まることにしていた。
 最後の一組を見送り、部屋に戻るといつの間に入ってきたのか、時期外れの蜂が一匹、天井の辺りを飛び回っている。叔母が窓を開けて蝿叩きで蜂を追い回していると、突然灯りが一斉に消えた。慌てて懐中電灯を探し、ブレーカーを確認したが異常はない。停電か。止むを得ず懐中電灯を頼りに布団を敷いて寝た。蜂のことはすっかり忘れていた。
 次の日の朝、外に出ると家のすぐ近くの電柱が一本、真ん中からぽっきりと折れており、電線が切れてしまっていた。
 家は暗く静まり返っている。私にはまるで家も死んだように思えた。その時初めて、家を出るのを頑なに拒んでいた祖母の気持ちが私にも理解できた気がした。
 現在、祖母の家には誰も住んでいない。
 たまに窓から灯りが漏れているのを見たという話を聞くが、真偽の程は定かではない。

鬼頭ちる『猫道雪』

 毎年、故郷の雪が深くなっていくような気がする。帰郷の為、駅に降りたった時にはもう、ちらほら雪が舞っていた。
 それにしても妙だった。なぜか足が重いのだ。歩いても歩いても、一向に進まない。空は暗く、いつしか吹雪に変わり、視界は完全に遮られ、時々意識も遠くなる……。
 その時だった。遥か前方に、ぽっかりと黒い小さい玉が浮かんでいたのだ。それは右に左に揺れながら、猛吹雪の中を軽やかに進んで行く。私は必死になってその玉を追った。
 追いかけて追いかけて、汗だくになって、いつの間にか足も軽くなって、やっと追いついた時、その正体が分かった。
 それは、猫のしっぽの先だった。真っ白なその猫は、尾の先だけがまるで目印のように黒く染まっていた。そしてよく見ると、体が宙に浮いていた。嘘じゃない。本当にその猫は、雪の上にフワリと浮かんでいたのだ。
 一度も振り返らず、ただ黙々と歩き続けた猫は、やがて町のトンネルに入ると、すーっと煙のように消えてしまった。
 思わず祖母に話すと『猫道雪』という言葉が返ってきた。
 東北の冬は長く、厳しい。そんな環境の中で、暖かい毛と愛らしい仕草を持つ猫は、雪国に住む人々にとっては生きた宝物だ。人間も幸せ、きっと猫も幸せ。でも、これまでぬくぬくと生きてきた猫は、その人生の最後にはやはり雪国の猫らしく、己の死期が冬と悟ると、あの『猫道雪』を通ってあの世へと旅立つのだそうだ。私が見たのは、まさにその瞬間だった。
 やがて春が来て、夫が子猫を拾ってきた。その猫は真っ白で、でもしっぽの先が黒く染まっていた。そしてよく見ると、頭にもまるでおかっぱのような黒い模様がついていた。
「あらあなた、前はそんな柄だったのね」コタツに入ろうとする子猫のしっぽを、私は慌てて掴んだ。「だめよ。コタツはもうしまうの。春なんだから」

鬼頭ちる『救出』

 よくある話だった。婚約者が浮気し、その相手が無二の親友だった。奴らは自分たちこそ“真実の愛“だとか”運命だった“とか現を抜かし、平然と私の元を去っていった。
『死ねばいいのに。地獄におちろ。不幸になれ』私は唱えた。
 それから私は、誰ひとり待つ者のいない東北へ帰った。就職し新しく始まった生活は、これまでの私を何ひとつ変えなかった。私は、あの言葉を絶えず繰り返し、生きた。
 だからあの時、避難せずひとり残っていた事務所に冷たい海水が入ってきても、怖くなかった。それどころか、己の死の瞬間にまで必死に唱えた。意識が遠のいていく。
『死ねばいいのに……地獄におちろ……不幸になれ……』
「わかりますか? おい、生きてるぞ!」男性の、はっきりした声が聞こえる。そっと目を開けると、目の前にあの男の顔があった。私を裏切った男の顔。咄嗟に振り払った。
「落ち着いて」「もう大丈夫ですよ」「寒くないですか?」
 何なんだ? これは夢なのか? 夢なら、非道い悪夢だ。だって、子供も大人も老人も、男性すべてがあの男の顔をしているのだ。女性も、こともあろうにすべてあの憎い女の顔に見える。もう気が狂いそうだ。私は次々に差し出される数多くの手を、頑なに拒否し続けた。しかし、どうしてだろう。彼らは、とてもやさしかった。
 やがて冷静さを取り戻した私は、やっと気づいた。そうだ、奴らがここにいるはずがない。これは幻覚だ。そうだ、何か言わなくては。そうだ、大切なあの言葉を伝えなくては。
『ありがとう』その瞬間、男性からあの男の顔が消えた。
『ありがとうございます』女性にそう伝えると、あの女の顔もすっと無くなり、本当の顔が無言で抱きしめてくれた。
 あれから私の世界は変わった。たまに思い出す悪夢も、夫と子供の笑顔で消え失せる。汚い言霊も美しい言霊も、私を救出するのにきっと必要だったのだ。

敬志『逃げ童』

「座敷童って住み着くとお金持ちになるんじゃなくて、お金持ちの家を掛け持ちで回ってるんですって」
 名門A女子大の学生から聞いた話だ。
 他校の生徒の論文で読んだという。
 
 この家に来てから随分と経つ。居心地は悪くないが、やはり仕来りは守らなくてはいけない。雪が降り始めれば動けなくなる。幸い今日は何故だが人の気配がない。床の間を下りて寝床を覗く。夏に生まれたぼこが私を見て笑った。名残り惜しいが仕方が無い。表座敷に移り縁側に出る。みちみちとしなる板張りをゆっくりと進む。御庭の向こうの蔵が増えていた。知らぬ間に家は大きくなっているようだ。ここから出られれば楽なのだが決まりでそれは出来ない。茶の間から一旦常居へと戻る。炉で熾火が赤々と燃えているのにここにも人はいない。土間に下り小厩から梁に登り様子を伺う。まっこが不安そうに嘶いている。屋根の隙間を雪がちらついていた。時間は無さそうだ。梁から飛び下り厩の向 こうに埋められた千切れた河童の子達を踏みつけ一目散に駆け出した。誰も追っては来ない。そのまま坂を下り祠のある四つ辻まで走った。ここで何処に行くのか決めなくてはならないが随分と前のことなので思い出せない。突然祠の影から人が飛び出し私を抱きすくめた。途端に人影は苦鳴を上げて大きく仰け反り、私はうっすらと雪の積もった田圃へ放り出された。背後で怒声が上がった。祠の影から叫びと共に大勢の人が飛び出した。辻の四方から人々が押し寄せる。私は泥を耳に詰め込み体を丸めた。その背なで男と女と年寄りと子供の怒号と悲鳴が渦巻き、焦げ臭い熱気が一晩吹き荒れた。
 三軒の分限者の家が燃え、二軒の家族が村を追われた。
 元座敷童だった老人から採取と、その論文には記されていたらしい。

敬志『コラージュ』

 仕事終わりの一人旅で飛び込んだ蔵王半郷の旅館は、山の端に埋もれるように草臥れてはいたが、部屋は小奇麗で主の老夫婦も愛想良くしてくれた。ただ部屋の鴨居にずらりと飾られた、宿泊客であろう人々のスナップの圧迫感には辟易させられ、翌朝そのせいか日の出を待たずに目が覚めた。陽気も良かったので庭をまわっていると、離れに隠れる様に朝の清々さを拒絶する様な建物がある。どうやらお堂らしい。人目を憚り扉を引くと鮮烈な色彩が眠気を吹き飛ばした。絵馬がお堂を埋めていた。中には水彩画や油絵が混じっていた。その全てが結婚式をモチーフにしている。冥婚――未婚の死者同士を死後に娶せる「ムカサリ絵馬」というのがこれだろう。六畳程の堂内にそれが十重二十重と巡ってい た。兎に角本尊に挨拶をと正面に祀られた観音像に近づくと、その陰に何か押し込まれている。引き出すと結婚記念写真だった。紋付と角隠しが並んでいる。
 ただ顔が違っていた。そこだけ別の写真を稚拙に切り抜いて貼ってある。隅にはよれた字で男女の名前も書いてあった。その名と顔に覚えがあった。男は少し前、結婚式場に飛び込み四人の生命を奪った殺人事件の犯人、そして女性はその被害者である。事件当時、犯人と被害者達には接点が無く無差別殺人だと報道されていたはずだ。だが接点はあったのだ。見直せば他にも写真が押し込まれていた。自殺したアイドルとの合成。老人と女学生のアイコラ。雑誌や盗撮の切り張りから画像ソフトでの合成まで、歪に澱んだ片思いが仏の裏に折り重なっていた。
 
 翌々年、山に埋もれた旅館を再訪した。
 一週間前、男の死刑が執行された。一審の判決に上告をしなかっという。
 忌まわしく思い願った祝言は成就したらしい。私は観音像の裏から写真を引き出し、煌びやかな絵馬の上にピンで留めてやった。

巴田夕虚『霊媒』

 O山には死んだ祖母と話をしにきた。
 だが口寄せを頼んで降りてきたのは知らない中年男性の声だった。
「ボクの願いをどうか聞いてください」
 男は数年前に亡くなった者だという。
 恋人が今日この霊場に来ており、一目逢いたいのだと涙まじりに語る。
 だが私の用事に割り込まずとも、待っていればその恋人が呼んでくれるだろうに。
 そういうと「両親と一緒にいるから無理だ」という。
 なんでもその恋人は両親から厳しい束縛を受けており、生前も二人きりで逢うことさえままならなかったらしい。
「あなたはボクの霊媒になる素質がある」
 男はそういい、私に肉体を借してくれと頼んできた。逡巡したが、気の毒な話でもあるようだし、その申し入れを承諾した。
 すると耳の穴からうどんが流れ込むような感触があり、それから男の声が頭の中に直接響くようになった。
(ありがとう、じゃあ行きましょう)
 立ち上がると、意思とは関係なく脚が勝手に歩き出した。人の波をすばやく避け、ぐいぐいと進んでゆく。
(いた、あそこです)
 前方をゆく三人の親娘の背中がみえた。とても仲睦まじそうな様子だが――まさか恋人とはあの娘のことなのか。まだあどけない少女じゃないか。数年前だとせいぜい中学生か、下手すれば小学生だろう。
(電話もメールも、手紙やプレゼントも、毎日送ったんですけどね。あの両親が邪魔をするんですよ、酷いでしょう)
(逢いたくて門の前に居ただけなのにあの父親、殴りかかってきたこともあるんですよ。生意気なんですよね、年下のくせに)
(ああ、でも、あなたのおかげで、彼女はこれからボクと暮らせるようになる)
 私の手が伸びて少女の肩を掴む。

君島慧是『よく晴れて風のない紺色の夜のこと』

 晴れた日の小川の水面をばら撒いたようにちりちり光る雪の表面を、夜が冷たく青く固めていた。巽さんは新聞を巻いた足をいれたゴム長で、よその畑のうえを歩いていた。積もった雪で、大概の畑をただの丘と境界もなしに渡っていける。おかげで道がだいぶ縮まった。
 畑とも丘ともつかないなだらかな青い雪原の、すこし小高いむこうに、ぽつんと一本だけすっかり葉を落した広葉樹が立っている。夜空に広げた枝にせっかく掴まえたお月さんを、いま放している。
 その樹のだいぶ後ろで、地平線の森の手前を、きらきらきらきら白雲母のカケラの群れそっくりに輝いて流れる川のような帯があった。風に巻きあげられた雪かと目を擦ったが、今夜はまったくの無風でそよとも吹かない。手を伸ばした親指と人差し指を広げたほどの高さで北から南へ。酔っ払ってでもいたら天の川でもおりてきたかと思っただろうか。
 白雲母の流れが消えると、あたりは紺色がいよいよ冴えて、母親の針箱に大切に仕舞われていた端切れの色でできた硝子のようだった。風のない夜に色と光ばかりが透きとおる。一番近い星までなら、ずっとこの紺色で続いていたとしてなんの不思議があるだろう。
 気が遠くなるほど雪の原、紺色の空に月灯り、天に枝を広げる一本だけの樹、その影。
 ただひとつ佇む樹が、空の紺とおなじ色の影を雪原のうえで招くように斜に広げている。巽さんのゴム長の後ろでも斜めにくっきり、青い棒みたいに自分の影が雪に刺さっている。
 ぽかんとした辺りの景色に見惚れるあまり、その場に立ち止まったきりの脚をわからせるみたいだった。巽さんはたっぷり吸った息をゆっくり吐きだした。落ち着け。空だって月だってこんなに澄んでいるのだ、落ち着いてみせろ俺と叱咤する。あの樹の横を抜ければ病院はもうすぐだ。いつのまにか満月に白雲母を集めたような雲がかかり、鉱物めいて透きとおる鮮やかな虹を現出した。

蔵開剣人『涙黒子』

「また来ちまった」少し白髪の混じった髪をかき上げながら、ヒロシがつぶやいた。
 ヒロシは、仙台を襲った大震災で、家と5歳下の妻のキョウコを失った。ヒロシは、仕事で家を離れていて助かったのだ。キョウコは、派手な所はなかったが、職を転々とするヒロシを陰ながらよく支えてくれていた。
 ヒロシは週末になると、家のあった場所を訪れていた。家は跡形もなくなっていた。ヒロシは、いつものようにしばらくの間黙って佇んでいた。すると、真っ白くスレンダーな猫が、どこからともなくヒロシにすり寄ってきた。猫は、帰り道も、ヒロシから離れず、何度も追い払おうとしたが、とうとう間借りしている家までついてきた。仕方なくヒロシは、猫を家に泊めてやった。猫はヒロシの隣で嬉しそうに寝ていた。
 仕事に出る時、猫を家の外に出して出かけたが、家に戻るとまたあの猫が待っていた。
「もう、来るなといっただろう」ヒロシは、下腹のでたお腹を折って猫に言った。
「ニャー」猫が鳴いた。
「俺のどこが気に入ったんだ。言ってみろ」
「ニャー」猫はただ、鳴くだけだった。
 次の日も、猫は出て行かなかった。
「今日で最後だぞ」ヒロシは猫を両手で抱き上げて言った。ふと、猫の顔をよく見ると、左目の下に涙黒子があった。妻のキョウコの黒子の位置とまったく同じだ。
「そういえばお前、キョウコに似てるな」
 その夜、ヒロシは夢を見た。夢の中にキョウコが出て来た。
「あなたにまた会えてうれしい。あなたが悲しんでいるから、私は天国の番人に頼んで3日だけ会いに来たの。これからも、ずっとあなたのことを見守っているわ」
 翌朝、目が覚めると猫はもう何処にもいなかった。
「キョウコ」 ヒロシの目には、涙が光っていた。

真木真道『湯煙変化』

 具体的な場所を記すわけにはいかないが、東北のとある温泉地には妖怪が出る。妖怪というよりも人の霊なのかもしれないが詳細は分からない。
 そこでは夜、一人で湯に浸かっていると妙に濃く湯気が立ち上ることがある。湯気は空中で渦巻きながら徐々に一箇所に集まり、やがてぼんやりと人の形を成していく。そしてじきに目鼻立ちまで分かるほどにその姿は鮮明になり、ついには人が出来上がって湯の中に落ちる。だから、そうなる前に凝縮する湯気の中に腕を突っ込んで掻き回さなければならない。ねっとりと纏わり付く感触を我慢しながら、人にならないよう霧散するまでひたすら攪拌を続ける。それでこの怪の害は防げる。何しろ現れるのが裸の美女ならいいが、放っておくと萎びた陰気なじいさんが完成するのだ。湯の中に落ちたじいさんは底に沈んで横たわり、どろんとした色のない目でじっと見つめてくる。その様子には恐怖感以上に変に気分を苛立たされるものがあるという。これにせっかくの温泉の楽しみを台無しにされた人は多い。

岩里藁人『アイスキャンディー』

 半分くれよ、と兄ちゃんは言った。いやだ、とボクは言った。半分あげればよかったんだ。アイスキャンディーは二本あったんだから。
 まん中で二つに割れるアイスはボクの大好物で、冬でもおこづかいで買って食べていた。アイスをあげなかった翌日、地震があって、その後きた津波が、兄ちゃんも、家も、町も、すべて流してしまった。ボクは卒業式の練習で小学校にいたので、助かった。
 その日から、ボクは祖母ちゃんたちと体育館で寝た。こわい夢を見て目がさめると、へんな模様の天井が見えて、ここは家じゃないんだと思った。トイレに行きたくて外に出ると、町の方が真っ黒だった。本当にもう兄ちゃんたちはいないんだと考えながら、オシッコをした。
 一週間くらいたって、毛布にくるまって寝ていると「ケンジー」とボクをよぶ声がした。兄ちゃん? と飛び起きて外に出ると、にこにこ笑いながら兄ちゃんが立っていた。兄ちゃんだけじゃない、隣のおばさんも、いつもアイスを買いに行ったコンビニのお姉さんも、みんな笑って立っていた。その後ろには、町の光がいっぱいについていた。
 よかった、みんな夢だったんだと思ったところで、目がさめた。いつもの、へんな模様の天井が、ぐにゃあとなった。
 外に出ると、やっぱり町の方は真っ黒だった。兄ちゃん、と声に出してみた。声に出さないと自分まで消えてしまいそうだった。

 ――兄ちゃん、ボクは大きくなったら、あの黒い町に明かりをつける人になるよ。ひとつひとつ明かりをつけて、町が元通りになったら、また今日みたいにみんなで会いに来て。そしたら二人で高いところにのぼって、見下ろそう。兄ちゃんたちの町の光と、ボクたちの町の光、ふたつ並んで、きっとアイスキャンディーのように見えるから。

岩里藁人『書痴(とも)有り、深淵(えんぽう)より来たる』

「あっ」いつも通り無造作に冊子小包を開け、思わず声をあげた。手が震える。角礫岩『些戯伊誌異考』――間違いない、それは私が生涯かけて捜し求めていた稀覯本だった。
 著者は柳田國男門下生の偽名と言われている。炉辺叢書の一冊として刊行される予定だったが、危険思想を孕むために中止、少部数刷られた私家版も失火に遭って、世に数冊も残っていないという曰く付きのものだ。五年前、某百貨店の古書市に出品されたとき、私は祈るような思いで抽選に参加した。しかし、落手したのはFという男であった。Fは食費を削って稀覯本収集に明け暮れているという書痴で、私の最大のライバルだった。何度も煮え湯を飲んだり飲ませたりした間柄だが、あの時ほど恨めしく思ったことはない。
 そのFも、もうこの世にいない。あの津波が蔵書もFも、すべてを持っていってしまった。『些戯伊誌異考』も失われたものと諦めていたのだが。それがどうして此処に? 小包には印刷された宛名シールが貼られているのみで、差出人の名もない。私は首をひねりつつ、本棚の一番いい場所にそれを収めた。
 その夜、夢枕にFが立った。寂しげに痩身を揺らめかせている彼を見て、私は今までの因縁をすべて忘れて謝罪したくなった。……すまない、正直に言おう。さっき本を見た時、君の無念を悼むより先に、ただただ嬉しかった。書痴の業と嗤ってくれ。しかし君なら判ってくれるだろう、いや、だからこそ、あの大切な一冊を私に届けてくれたのではあるまいか……そう言いかけて、気付いた。Fの目に、書痴独特の暗い焔が宿っていることに。
 厭な汗をかいて飛び起きた私は、書斎へと走った。潮の香がする。夢の続きではない、足元がビチャビチャに濡れている。訳のわからぬ咆哮とともに書棚の扉を開けると、どっと水が溢れた。潮水はあの本からこんこんと湧き出し、私の最も大切な蔵書すべてを、まるで舐め回したように濡らしていた。

真木真道『火の怪』

 真冬の夜。雪道の上に焚き火のように炎が踊っていることがある。近づくと燃える物など何もない。ただ火がそこにある。不思議に思いながらも凍えた体を温めようと手をかざす。
 しかし、それはいけない。雪が燃える火は冷たい。たちまち体の芯まで冷え、身動きもできなくなってしまう。
 昔は北を行く旅人がこれによくやられた。まいね火という。

 また、夕暮れに火が降ることがある。
 赤くちろちろと燃える火の粉が雪のように降り注ぐ。これも熱くはない。掌に受け止めるとしゅんと消える。
 だが、積もる。火が屋根に道に木々の上に積もっていく。積もって燃え上がることはないが、景色が赤く埋まる。夕日の照り返しの中、世界が赤一色に染め上げられる。
 一晩経つと雪が積もっているだけだ。名は特にない。

真木真道『雪人』

 雪に悩まされる地では雪に纏わる怪異が多く語られる。
 雪人は大雑把なフォルムこそ人を思わせる形をしているが首はなく、腕はあるが指はなく、目鼻耳といったディテールにも欠けたのっぺらぼう。要するに単なる雪の塊でしかない。しかし、足があるので歩ける。関節を持たぬ丸太のような足を地を摺るように前後に滑らせながら移動する。大きさは個体によってまちまちで決まってはいない。小さいのは幼い子供くらいの身長だが、巨大なタイプは頭の先が平屋の屋根を越えるほど高いこともある。大抵は人よりもやや大きい程度、共通の特徴はぶくぶくと丸く太っていることだ。雪が降り続く時などは新たな降雪を身に纏い更に膨らんでいく。
 雪人達は群れをなして移動する。動けるのは深夜の決まった短い時間帯に限られるようだ。群れの規模は状況によって様々だが、開けた場所を夥しい数の雪人達が月の光に照らされながらもそもそと静かに行進して行く様は美しく壮観だという。彼らは決して人を襲ったりはしない。家の中に入って来ることもない。害といえばバランスを失った雪人が倒れて崩れ、運悪く間近にいた人を埋めてしまう事故が極めて稀に起こる程度だ。
 雪人の怪は自然に発生するものではない。人が為す。雪人を操る力を持つ古い家筋があり、小さな形代を積もった雪の中に埋めて雪人を起こす。そして何やら呪いを唱えて行き先に導く。もちろん術の詳細はその家の者しか知らない。その家筋も今は少なくなった。
 雪人を動かすのは術者にとっても相当な負担が心身に掛かるようだが、年寄りや女子供しかいない家からの頼みなら酒一本の礼で快く引き受けてくれることが多いという。
 除雪は重労働なのだ。雪に自ら動いて退いてもらえればこんなに助かることはない。世界有数の降雪量に苦しむ青森らしい術であろう。

天羽孔明『雪女に出逢いし話』

 若い頃に雪山で遭難しかけた時、雪女に出逢って助けられたことを妻に話すと、妻はとても哀しげな表情をいたしました……。
「あぁ、あの時のことは、けっして誰にも話さないでと言ったのに……」
「では、やはり君があの時の雪女だったのか……。僕は、どうしてもあの時のお礼を君に言いたかったんだ。僕はね、君のおかげで良い人生が過ごせたよ。ありがとう。さあ、僕はもう君になら殺されてもいいよ……」
「いえ、愛するあなたを殺めるぐらいなら、私はここで雪となりましょう……」

 そう言って妻が雪となって消えた日の夜、僕もまた、老衰でゆっくりと目を閉じました……。

天羽孔明『巳さんの居る家』

 私の家族は、私と、私の娘と、私の母親と祖母という、女性ばかりの四人家族です。
 私の父親は私がまだ幼かった頃に亡くなったそうです。
 私がまだ小学生の頃、曾祖母はまだ健在で、私はその曾祖母に、なぜ私にはお父さんがいないの? と泣きながら訴えたことがあります。
「我が家は巳様の巫女筋なので、男は長生き出来ないんだよ」
 曾祖母が少し悲しげな顔でそのように答えたのを、今もはっきりと覚えております。
 巳様と言うのは、我が家の裏手にある小さな祠の事で、普段、その扉はかたく閉じられているのですが、曾祖母が亡くなった時、曾祖母の喉仏を祠に納めると言うので、数年ぶりに祠の扉が開かれ、私は初めてその祠の中を見たのです。
 そのときの不気味さは、今も忘れられません。
 祠の中には人頭蛇身の像があり、その像の周囲にはたくさんの小さな遺骨が転がり、さらにその遺骨が風化したであろう白い粉が積もっておりました。
 もちろん、曾祖母の喉仏もまた、同じように祠の中に納められました。

 そんな不気味な因習が嫌で、わたしは大学を卒業すると同時に、同じゼミに所属していた男性と結婚をして東京へと出たのですが、娘が生まれて一年もたった頃、なんの前触れもなく主人に先立たれ、結局は私もまたこの家へと娘と共に戻ることになってしまいました……。

天羽孔明『こけし沼』

 三十年ほど前に他界した、明治生まれの祖父の故郷は、岩手から山形へ抜ける県道の途中にある小さな集落だったそうです。
 その集落から北東へと向かう林道の入口には二本の大きな楠が立ち、その二本を繋ぐようにして太い注連縄が渡らされ、それより奥へは妄りに立ち入ることを禁じられていたそうです。
 しかし祖父は、子供の頃にその先へ行ったことがあると言っておりました。
 その注連縄の先、およそ半里ほども山道を登ると、そこには深い緑色の大きな沼があったそうです。
 その沼の畔に建つ祠には、こけしの形をした石の地蔵が納められ、その周囲にも大小様々なこけしが置かれてあったそうです……。
 しかし祖父は、その沼からどうやって戻ったのかという記憶がなく、注連縄の楠の下に所在なげに立っている所を同じ集落の人に連れて帰られ、その後自宅で高熱を出し、三日間も眠っていたといいます。
 不思議なことに祖父は、その沼の光景を鮮明に覚えているのに、何故その沼へ行ったのか、いやそれどころか、高熱から目覚めた時には自分の名前も含めて、それまでの記憶が一切無くなっていたようなのです。
 後年、誰に教えられる事もなく、なぜかその沼はこけし沼と呼ばれる沼であることを知ったようでした。亡くなる前、病院のベッドで、自分は本当は弟で、こけし沼で兄と生まれ変わったなんて言ってましたが、それが本当のことかどうかは定かではありません。
 ただ、僕がまだ中学生だったころ、酔っ払った祖父が言ったことを今も覚えています。

『こけし沼のこけしは、子供を間引くって意味があったんだ。儂は本当は間引かれの子消し仔なんだ。兄貴、すまない……』と……。

オギ『霧の朝』

 幼い頃、父の車に乗って、ずいぶん遠くまで行ったことがあります。父は一人でよく喋りよく笑い、お母さんはどこ、という疑問をさし挟む隙もないほどでした。色々な場所に行き、車の中で眠るのは楽しかったけれど、父の様子がおかしいことは子供の目にも明らかでした。
 あの日、肌寒さに目を覚ますと、父の姿がありませんでした。開いたままのドアから、乳白色の霧が流れ込んでいます。外を見ると、父の後ろ姿が、ふらりと霧に飲み込まれたところでした。私はお気に入りの人形を掴み、急いで後を追いました。
 背の高い草はらでした。霧が音も色彩も吸い取ってしまったようで、耳を澄ましても何も聞こえません。ようやく父らしき影を見つけ駆け寄ると、それは石の柱で、その向こうに、大きな家がありました。
 霧だというのに戸も窓も全て開け放たれ、けれど人の姿はありません。私は疲れて縁側に腰かけました。おはじきが散らばっていたので、それと人形で遊ぶうちに、眠ってしまったようです。
 気づけば車の中でした。運転席に父がいます。窓越しに、どこまでも連なる山々が見えました。私は人形をあの家に忘れてきたことに気づきました。かわりに赤いおはじきを一枚、握りしめていました。
 その時、山の中から声がしたのです。嗄れた、悲鳴のような、細いけれどいつまでも耳に残る声。
「猿かな」
 父がぼそりとそう言いましたが、あれは本当に猿だったのでしょうか。
 こんな風に霧の濃い朝には、あの声が聞こえるような気がして、なぜだかどうしても、あの山に行かなければと思うのです。
 おはじきはまだ手元にあります。父は今も元気です。

オギ『海へ還る』

 北の海辺で人魚を拾った。ずいぶんと昔の話だ。
 人魚は私に、鱗を剥いでくれとねだった。鱗をすべて剥いでしまえば人になれるなどと、一体誰に吹きこまれたのか。人魚の鱗は高く売れる。私は人魚を殺さぬように、少しずつその鱗を剥いだ。
 むろん脚など現れはしない。やがて生え変わった鱗は白く薄く、潮風にすら耐えられない。私は人魚を樽に入れ、背負ったまま旅を続けた。
 人魚の甘い歌声は人を惹き付け、その異形は金を呼ぶ。人魚目当てに襲われることもあったが、たいていの傷は鱗を飲めば、跡形もなく治ってしまう。
 何年経ったことだろう。ある日顔を洗っていて、ふと、水に映る己の顔が、ほとんど年を取ってないことに気づいた。
 年を数えなくなって久しいが、五十はとうに越えたはずだ。だが髪は黒々と、日に焼けた肌は艶をおび、手足の衰える様子もない。
「鱗のせいか」
 人魚は笑って答えない。
 またある日、転んだ拍子に、足の甲がずるりと剥けた。痛みはない。薄い皮の下に、青黒い鱗がびっしりとのぞいていた。
 引き剥がした鱗を、樽へ落とす。薄紅に染まった水の中で、人魚は笑いながら身を捩らせた。
 私の鱗を食らうせいか、人魚の鱗は、日に日に色を取り戻していく。足の鱗は剥がしても剥がしても生え、少しずつ広がっていった。
 鱗が腿を覆う頃、あの海辺にたどり着いた。風は強く、波は高い。樽から身を乗り出した人魚は、私の首にすがり付き、高らかに歌いだした。
 人魚の声が脳を揺らす。目眩のままに海に踏み入る。暗い波の間から、幾千もの手が私を招いている。

2013-02-08

佐原淘『サザエ堂』

 二重螺旋のサザエ堂に婆ちゃんと二人で登った。婆ちゃんがリンパ腺のガンで死ぬので、喜美子お前婆ちゃんとサザエ堂に行けと言われたのだ。
 埃臭い堂に入ると窓から差す陽がまぶしい。婆ちゃんが何も言わずに登りだしたので手を引いてやった。階段が細かいから婆ちゃんにも登りやすいな、と思っていると、婆ちゃんの頬が桃色に輝き、登るにつれどんどん若くなって、しまいには子供になった。
 上から野良着の若い男女が降りて来た。二人で子供の婆ちゃんを抱き上げた。仏間の写真でしか見た事のなかった、婆ちゃんの両親だと気づいた。婆ちゃんは二人の首っ玉に抱きつきクンクン甘えて、婆ちゃんの両親は頬ずりして本当に我が子が可愛くてしょうがない気持ちなのが伝わって来た。4人で登って行くと婆ちゃんはすやすや赤ちゃんになり、そのうち母親の股に消えてしまって、今度は婆ちゃんの両親がどんどん子供になっていった。すると上から4人の男女が降りて来て子供を抱きしめたり、高い高いしたりしたり、これは婆ちゃんの両親の両親なんだなと思った。登るにつれて人は倍々に増えて、サザエ堂の頂上には数えきれないくらいの男女がひしめき合っていた。
 そのうちの一人が、さ、こんだおめえの番だべ、と言った。私は螺旋を降って行った。後ろからドタドタと若者が降りてきて私と並ぶとおめえも婆ちゃん送ったんだべと言った。私はうなずいた。一緒に降るうち私は若者の赤ん坊を生んだ。可愛くて切なくなるくらいの赤ん坊だ。そのうちに赤ん坊は大きくなり、大人になって自分の赤ん坊を生んだ。その赤ん坊が大人になるころ私は老いて死んでしまった。でも孫たちはどんどん増え。夕日の差すサザエ堂の出口から観光客みたいにぞろぞろと出て自分たちの街に帰っていった。

佐原淘『「恨み」と狸』

 私は恨み。ホームから電車に飛び込む以前の事は覚えていない。私の腕が飛び、腹が黄色い脂肪と小山のような内臓をぶちまけるのを見た。しかし私は車両の下にべったりと張り付き、私をそこへ追い込んだ世間への恨みだけの存在となった。私は手を伸ばし絡まる弱いものを次々と車両の下へ引きずり込み、お互いの恨みを吸いあい太って「私達」となり、捻じれ合い車台に絡みつき、暗い叫び声をあげながら東京の地下を走っていた。
 突然、私達の車両がどこかに運ばれて行った。気が付くと雪の上を走っていた。北の国の鉄道に売却されたのだ。それでも私達は切断するための肉を求め、ホームと車両の隙間から、老人と制服を着た中高生を見上げて細い手を這わせていた。
 ある晩私達の車両は黒い塊を撥ねた。狸だった。死骸は線路の間に転がり、狸は私達となった。そして変化が起きた。その朝気づいたのは臭いだった。車軸の油の臭い。回転を始めるモーターのオゾンの臭い。そして走り始めた車体の下に吹き込む冷たい風に乗った雪の匂い。遅い春を迎えた時、私達は押し寄せる匂いに圧倒された。草の全てにそれぞれ匂いがあり、その向こうの木々にも匂いがあり、その枝にとまる鳥が咥えた虫が死の警報の匂いを放っていた。匂いの風景は果てしなかった。私達は枕木の下、地下3mに棲む蝉の幼虫まで嗅ぎ当てた。もはや人を鉄路に引き込むことを忘れていた私達は次々に、匂いの世界に消えて行った。最後まで踏みとどまっていた私も、押し寄せるブナの花の香りに恍惚となり、乳児のような嗚咽を上げながら森の中に溶け出していった。
 私がいなくなると狸は自分の肉体に戻り、ひょっこり起きて首をぶるぶる震わせ森に帰っていった。

村岡好文『静電気』

 あの大震災からもうすぐ一年が経とうという、冬の日のことだった。私は津波被害に遭った叔父に頼まれ、叔父の家へ諸々の整理に赴くことになった。妻子を津波で亡くした叔父は一人で仮設住宅に入っていたが、働くこともせず毎日パチンコ屋へ入り浸っており、自分の家の整理も甥である私に任せると言って一緒に来ようとはしなかった。
 叔父の家はだだっ広い平地にぽつんと残っていた。周囲の家のほとんどは基礎だけ残して跡形もなくなっていたが、流されなかった家も何戸かあった。叔父の家はその中でも奇跡的にほぼ完全な形で残ったのである。
 私は幼稚園児の息子と玄関の前に立った。本当は一人で来たかったのだが、急に妻に用事ができて押し付けられたのだ。ドアノブに触れたとき、指先にピリッと衝撃を感じて、私は思わず手を引っ込めた。
「静電気だね。」
息子が覚えたての言葉を得意げに使う。
 私は家の中に入った。息子は庭で遊び始めたので、これ幸いと早速作業にかかることにした。私はこの家のどこに何があるかは大体わかっていたつもりだった。だが、間もなく私は戸惑いを覚えた。どうも物の置き場所が前と少しずつ違っているのだ。模様替えというほどではない。書類の場所が移動していたり引き出しの段が変わっていたりという些細な違いなのだが、これが意外と厄介だった。
 作業に没頭していた私の傍に、いつの間にか息子が来ていた。
「ねえパパ。静電気だよ。お庭に静電気がいたよ。ぼく、五回もビリビリしちゃった。」
私は作業を続けながら生返事を返した。
「ねえパパ。静電気がいたんだよ。踏んづけたら逃げちゃった。どこ行ったの?」
私が適当に相槌を打っていると、息子が急に嬉しそうに笑って言った。
「パパ、いたよ。おうちの中にいっぱい。静電気が・・・」

御於紗馬 (みお しょうま)『みどりヶ丘の鬼』

 関口の奥さんが失踪して一年になる。
 彼が仙台の出張所に転属し、引っ越した矢先のことだ。知らせを受けたときは戸惑ったものの、私も自分の仕事に追われて延び延びにしてしまった。
 新幹線、在来線、バスを乗り継ぎ、彼の住む新興住宅地へ向かう。最近切り拓かれたというのに、人影も無く家々も古ぼけていた。彼の新居は特に荒れていた。
「おまえか」
 玄関から出てきた顔は、憔悴しきって別人のようだった。理知的だった表情は、動物園の狼のように変わってしまった。
「まぁ、上がれ」
 ホコリだらけの部屋は、吐き気を催す臭気が漂っている。やたらとベトつくソファーを勧められたが、断った。
「儂が弱いのが悪いだけだ。女は強い男に惚れるもんだ。それだけのこった」
 奥さんの事を口にすると、言葉を遮りボソリと言った。関口の瞳は静かに燃えている。
「取り返すさ……人間には、無理だがな」
「息子さんはどうした?」
 居心地の悪さに、話を逸らそうとした。
「食った」
 彼の言葉に思考が止まる。舐るような視線を向けられて、ようやく我に返る。
「喰わなきゃ、勝てねえからな。ガキなんかまた、作りゃぁいい」
 彼は一歩、私に近づいた。彼の爪が妙に尖っていることに、今更ながら気づく。
「×○岳の主はエラく強ええからな、儂も強くならないかん。もっと食って、強くならないかん」
 彼が私に飛びかかろうとするや、何かが私を掴んだ。天井をすり抜けると闇の中、私は巨大な人間に握り締められていた。長い髪を振り乱し、全裸のそいつが、吠えた。
「喰うのはアタシだ」
 関口の、奥さんだ。

沼利鴻『天井』

恐い恐い、と祖母が呟く。

なにが、と問うと、天井、と答える。



祖母は古い離れに住んでいた。



天井のなにが恐いの、と私は訊ねました。

あんた天井をじっと眺めた事があるのかい。あれほど心細くなる事はないよ。妾らは、その下で毎晩眠っているのだよ。

じゃあ、私がお婆ちゃんと一緒に寝てあげるというと、ありがとう、ありがとう、と祖母は泣きじゃくりました。

その夜、私は離れに泊まり祖母と布団を並べて眠りました。

正直、後悔していました。

祖母の怯え方が尋常ではなかったからです。

床に入るなり頭から掛け布団を被り、がたがた震えているのです。

電気消すよ、と問いかけると、豆電球にしておくれと布団の中からくぐもった声が返ってきました。

古い木造家屋が豆電球の仄暗い灯りに照らし出されると、様相が一変します。明るい時分には見えなかった壁の染みや起伏が幽かで妖しげな意味を帯びて浮かび上がってきて、灯りの届かない部屋の隅に何物かが潜んでいるような気さえしてくるのです。

恐いね。

私は、静かに祖母に声を掛けました。

そうだよ、恐いよ恐いよ。

すぐ隣の布団で、祖母の歯がカチカチ鳴っています。

私はじっと天井を見ました。

心細く不安になる眺めです。これまでの事、これからの事が心に湧き立ち言いようもなく恐くなるのです。

こっちの布団に来るかい。

祖母の嗄れた声がします。

私は躊躇しました。

あんなに怯えている祖母と添い寝をしたならば、更に恐くなるような気がしたのです。

だから、私はせめて、手を握ろうと祖母の布団に手を入れたのです。

と、



げらげらげらげらげらげらげらげらげら



祖母がけたたましく笑いだすのです。

恐い、と思う間もなく急速に血の気が失せ、意識が遠退きました。



翌朝目覚めると、祖母は私の手を強く握ったまま息絶えていました。



母が、お前まで連れていかれなくて良かったと泣き崩れ、何かを唱えてから祖母と私の手を引き離しました。



間に合った、と母は呟きました。

沼利鴻『鰍沼』

二人の少年が古びた社の前で立ち止まり、そしてまた歩き出した。

「鰍を食べながら、ここに住んでいたんだ」

京助が薄い笑みを浮かべる。

良太は、うん、とだけ答える。

薄暗い森の社で、孤独に鰍を食べ続けた男を想像すると良太の肌は粟立つ。その男は異質な者になっている。もう人ではない。

男の身の上を彼是想像しながら歩いて行くと、やがて鰍沼が見えた。

沼と呼ばれているが水深は浅い。水は澄んでいる。湧水によってできている池であるらしい。

京助は竿袋から三又の銛を出し、組み立て始めた。

その間、良太は柔らかい砂が敷き詰められた水底に映っている、ゆらゆら揺れる光の綾をじっと眺めている。日は中天に昇り、鰍沼を真上から照らしている。

見蕩れていると、水の中を黒く小さな影が走る。不意に現れ、消え入るように見えなくなる。黒い流れ星だと良太は思った。

「いるいる」

いつの間にか傍らに立っていた京助が喜びを押し殺した声で言った。

銛を片手に静かに水に入っていく京助の後を、良太も音をたてないように付いていく。足裏の、砂の感触が心地いい。

京助が立ち止まり、無言で水底の石を指した。良太がしゃがみ込み、その石を素早くひっくり返すと、先程の黒い流れ星が走り出す。そこに京助は勢いよく銛を突き入れた。砂が沸き起こり水は濁る。掬い上げた銛先には、踠いて身を捩る鰍が突き刺さっていた。

二人は、顔を見合わせ頷いた。



面白いように獲れた。

魚籠を一杯にし、二人は意気揚々と帰路についた。

道は社に差し掛かっていた。

日が翳り、蜩の声がふと止んだ。

二人はどちらからともなく、歩みを止めた。



ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ



観音開きの扉が軋んで開いた。

奥の暗がりから、か細い声が聞こえた。



うまい、うまい



にゅっ、と二本の青白い腕が社から伸びてきたかと思うと、叫ぶ間もなく京助を引き込んだ。



良太は膝をがくがくと震わせ、呆けている。

また、社の扉が軋む。

魚籠の中の鰍が、狂ったように跳ね踊る。

三和『桜の妖精』

先生が石段をおりている。その後ろから、あたしも石段をおりている。紺色の背広の背中を、あたしは一心に追いかける。舞い散る桜の一片が、前を行く先生の黒髪にひらと着地した。先生の頭にのった桜の花びら、いたずらな妖精みたい。あたしはスカートのプリーツをひるがえして石段を急ぎ駆け降り、真後ろまで追いついた。背の高い先生の頭についた花びらをとってあげるのだ。
先生。
声をかけようとして、やっぱりやめた。だって桜の花びら、先生の頭の上がとっても居心地良さそう。あたしの気配に気づいたのか、先生は振り返った。
「今、帰りか」
「はい、そうです。先生、さようなら」
「さようなら。気をつけて帰れよ」
先生、頭の花びらにいつ気づくかなあ。車の中かなあ。家に帰ってからかなあ。それとも気付かないまま?
やっぱり声かけたかったなあ。先生に触れるチャンスだったのに、惜しいことした。
翌朝登校すると、大勢の生徒教職員が見守る中、スーツ姿の先生はなぜか学校一高い高い杉の木の天辺で、おんおん泣きじゃくっていた。どうやら降りられないらしい。てか、どうやって登った?
「ははあ。こりゃあ天狗の仕業だな」
定年間近の佐々木先生が仰ぎ見ながらつぶやいた。
「ふふ。天狗じゃなくて、桜の妖精です」
あたしがにっこり笑って訂正すると、あたしの横で見物していたリンちゃんが、にんまり笑う。
「お。アッコの新作妄想、桜の妖精編。今度はどんなの?エロいの?きゃー」
あたしはリンちゃんに回し蹴りをくらわした。

三和『片割れて』

冷たい風が吹きつけて、頬が痛い。
顔をあげてふと辺りを見渡す。見えるわけはないのだが。風は、さっきの風はどこから吹いてきただろう。北からだろうか。北からじゃないか。北からに違いない。
双子の片割れである僕は、明るい夜の都会の真ん中にぼおっと立ちつくした。
どうして僕は今、一人ぼっちなんだろう。
おかしなことである。
母親のお腹の中から、ずっと一緒だった。
どうして僕らは今一緒にいないのか。双子はいつも一緒にいるものなのに。
淋しいなあ。
黒いアスファルトを見つめとぼとぼと歩き始めた途端、鞄の中の携帯がブルブルと震えた。
急いで手袋をとり携帯をみると、智也からのメールだ。
件名:みやげ 本文:こっち帰るとき、いちごミルクココアチョコとメロンミルクココアチョコ買ってきて。
どうしてこんなにタイミングよくメールが来るのだろう。
いつもそうだ。僕の心を読んだように、僕が淋しい時、辛い時、悲しい時に限って、智也からメールがくる。智也はめったに自分からメールをしないので、確率からしてこれは本当に不思議なことである。
しかし、この不思議について友人に話したら、
「そりゃ、双子だからだろ」
とあっさり返されてしまった。
双子が周波数が合う不思議を誰も不思議に感じない不思議について黙考しながら歩いている内、僕はオレンジ色の電灯に照らされた寮の玄関までたどり着いていた。

敬志『汁だく大盛り牛丼』

 東松島から石巻に向かう道沿いの牛丼チェーン店の駐車場に、船が一艘停まっている。
 交通量の多い幹線道路に面した一番手前の区画なのでよく目立つ。
船といっても沖釣りに出られる程度のボートの様な物だ。船外機は脱落し、船名も擦れ削れて名残のみ留めている。
 時折その船が揺れる。風は無く車も通ってはいない。それでもぎちぎちと左右に傾ぐ。
 特に糸雨が刺す夕暮れや、濡れ雪が霏々と降る夜半に道行く人が気付くと、船は濡れそぼりながら揺らいでいるのだという。
 人が縋り付く様に。
そんな話を夜明け前、長距離運転の眠気と空腹とに耐え兼ね飛び込んだ、まだ灯の少なかった仙台郊外の系列店で聞いた。
 翌日、石巻に向かう途中、探すとは無しに件の道を行けば、松島寄りの店の片隅で確かにそれらしい船がひっそり朽ちかけていた。
震災から最初の冬のことだ。

 昨年の五月。友人と釜石か沿岸線を通り、仙台まで抜けるコースを走る機会があった。
 途中、石巻市街に寄ったのでそこから道程を変えるとこも出来たのだが、ふと冬の出来事を思い出し、東松島からのルートを選んだ。
 
 牛丼屋の窓際に座り、途切れた会話の合間に外を眺めると、曇天の夕暮れはいつの間にか雨に変わっていた。
「――避難所でこれを一番思い出しました」
 そう言いながら店長らしき中年は汁だく大盛り牛丼をテーブルに置いた。
飽きてたはずなんですがねぇと呟く店長の眼差しの先に、船は今もあった。
 
 駐車場から出る時、助手席から船の中を覗くと、ラップをかけられた丼がまだ冷たい初夏の雨に濡れていた。

勝山海百合『ILC誘致のための地質調査説明会』

 安定した花崗岩の岩盤が広がる北上山地に超線形大型加速器、国際リニアコライダーを誘致することを目的とした地質調査を行うため、岩手県奥州市の公民館で住民を対象にした説明会が開催された。会場には高齢の男性を中心にした数十人が「おらほでなにすんだべ」という興味から集まった。説明後に質問を募ると既に説明した事柄について聞かれたが、講師は丁寧に回答した。
「……ほか質問はございませんか」
 講師が最後の質問を促すと、「はい」と手を挙げる人がいる。おかっぱの髪が白い、年配の痩せた女性に見えた。講師 は三十年前、小学生のときに通っていた珠算塾の先生が年を取ったらこうなるのではとふと思った。
「ILCだば、高速に加速した電子と陽電子を衝突させて、ビッグバン直後の状態を再現するそうだども、そうなったら、宇宙の始まりにもどったりしねだべか。おらだちはみんな、なかったことにされるんだべか」
「えー……」講師は油断をしていたので答えるのに間が空いたが、「それはありません」と答えた。「大丈夫、ご心配なく」
「そうでがんすか――」
 女性は安心したように頭を下げた。「だば掘らせっかな」と呟くのを聞いた者もいた。
 説明会に参加した高橋勇三は、家に帰ってから、最後に手を挙げた小豆色の半コートを着た女性がクマガイサチヨ先生に違いないと思えて仕方な かった。昭和十九年、今でいう小学校の弁当の時間には、食前に神への祈りの言葉を唱えることになっていた。
「かけまくもいともかしこきおおみかみ とようけひめのおおみかみ……」
 校内放送が流れるなか、サチヨ先生は黒板にその言葉を書いた。放送で読み上げられるよりも早く、しかも楷書で書くのを見て勇三は神業だと感心したものだったが、あれから六十八年経つのに七十歳くらいにしか見えないことは疑問に思わなかった。

多麻乃美須々『つじ子』

 朝起きてサラダを作ろうと冷蔵庫の野菜室を開けると大根が削れていた。引き出しを開ける時に削れたのだろう。でも、その次の日の朝も大根が削れていた。今度は、まるで小さな歯型だ。
 その日の晩、寝床で眠りに入る頃、からからと冷蔵庫から音が聞こえた。製氷する音だ。そう思いながら布団にもぐると、「かり、かり」と言う音もする。気になりだして眠れない。起き上がり、電気を点けて、冷蔵庫の様子を見に行った。「から、から、かりっ」と音がする。野菜室をゆっくり開けると、おかっぱ頭の少女が上目づかいで睨んでいた。真黒に輝く眼、そして右頬の傷・・・。小さな手で大根を押さえている。

「おなかすいた」と震える声。

 部屋中の明りが一斉に消えた。なにもかも真っ暗闇に包まれた。僕は腰がくだけるように床に膝を突いた。お前か・・・。

「つじ子だよね。早池峰のタケさんが作ってくれた人形。妹のつもりにと・・・つじ子・・・。海が、お前も、みんなさらっていった。みんな・・・」

「つじ子、迎えにきた。いっしょに行こう。いっしょにさがしに行こう」

「そうだね、いっしょに行こう。みんなをさがしに・・・」

「かり、かり、かり」と闇に音が響く。

庵堂ちふう『みちのくストリップ・ティーズ』

 フラれて何もかもどうでもよくなり、それでもいったんはこれではいかんと奮い立ち、被災地支援のボランティアに参加してみたりなどしたのだけど、足手まといになるばかりで被災者にも「役立たず」とののしられ、もう死んでやろうと現地の山に入った。
 山に入ってみると、ただ山に入っただけでは死ねないという冷厳なる現実に気がついた。ぼくは名前もなさそうな小川のほとりで途方に暮れて座っていた。
 ふと気がつくと、上流から靴が流れてきた。ヒールのついた女物だ。まぁそんなこともあるだろう。ぼくは目を伏せた。
まもなく、ストッキングが流れてきた。黒。黒か。だ からどうした、ぼくは死ぬんだ。
 今度はジャケットだった。ジャケットぐらい誰でも着ている。
 だが、ぼくは薄桃色のシュシュが流れてきたのを見逃さなかった。長身で細身の女が長い髪を振りほどく姿が目に浮かんだ。
やたらと丈の短いスカートが岸に寄せられたときには、ぼくは立ち上がって上流へ歩き出していた。
誰かが、今、この上流で、脱いでいる。
 あぁ、キャミソール。水に浸っていても濃厚な女の匂いを留めていそうだった。最後に一発という話もある。
 来た! 来ましたね。ブラがぶらぶら。Fカップのブラジャー。いや、あれはGはあると見た。ジィーカーーーップ! やったぜ。やっべ、あと一枚しかないんじゃないの?
 短い橋の上にぼくは見つけた。
 引き締まった長い足から、パンティをするすると脱ぐ、……河童。
 ぼくは思わず中井貴一のように言った。「カッ、パッ!」
 しかも、目を凝らしてよく見れば、オス。
 ぼくは傍らに落ちていた棍棒代わりになりそうな太い枝を手に取った。

庵堂ちふう『pop.0001』

 一人。一人というのがいい。それがオレの望んでいた ことだと今更分かった。連中がみんな逃げていったからそうなった。ここ にはもうオレしかいない。空の霞んだ町。
たまに勝手にやってきて、辺りをうろつきまわる連中 もいる。ここら一帯はもうオレの庭だっていう意識になってるから、オレからするとそいつらは侵入者ってことになる。だから追い出しにかかる。カメラなんか持ってる奴は最悪で、だいたい叩き壊してやる。
 金ならなくはない。どさくさに紛れて手に入れたもの だ。街まで出て金を使って何か手に入れることもある。でも、置き去りにされたものをかき集めれば暮らしは何とかなる。
 オレの楽しみは空になった家々を燃やして回ること だ。火が燃え広がり、家屋全体を覆いつくし、やがて崩れ落ちる。それをただじっと見ている。
 じっと見ているうちにだんだん虚しい気分になってく る、その感じがオレはなんだか好きだ。オレにだってちゃんと感情ってものがあったんだなって思う。そんなこと、知ってたはずのことだった。
 久しぶりに街まで買い出しに出たとき、道端から食堂 の中で流れていたテレビを見た。どいつもこいつも、まるで何もなかったみたいに呆けてやがる。だけど、そんなの昔からそうだった。誰も何もしてくれない。それだけが本当のことだ。
 オレは毎日全身にたっぷり嫌なものを浴びている。体の内側からも取り込んでる。その嫌なものを浴び続け、吸収し続けているうちに、何か巨大な化け物にでも変身しないもんかと思う。そしたら、連中の街を破壊してやるんだ。
 炎を見ながら、オレは我を忘れるほど怒り狂い、 ぎゅっと拳を握りしめる。それから急に泣き出し、力が抜けたように地べたに座り込む。そうして疲れ果てて寝てしまう。目が覚めても一人 だ。

庵堂ちふう『森の中で』

蜜子は敦志と二人きりになれて嬉しかった。普段、教 室ではどんな感情も表に出さない彼女だったが、自然と頬が緩んでいた。森の中では誰に見つかる心配もなかった。
二人は幼馴染だった。中学でいじめにあっている蜜子 に声をかけてくれるのは敦志だけだった。
誰かに隠された鞄を探してすっかり帰りが遅くなった 蜜子に、部活あがりの敦志が一緒に帰ろうと声をかけた。通りかかりに森があった。子供の頃この森の中で遊んだねという話をしているうち に、ちょっと寄り道しようと敦志が誘った。それが最初だった。
辺りが薄暗くなり蜜子がもう帰ろうと言ったとき、敦志がキスを迫った。蜜子はかすかに震えながらも黙って受け入れた。敦志がもう一度と手を伸ばすと、蜜子は身体をくねらせてかわし、はぐらかすように笑った。まだ怖かった。それ以上に、こんなことがみんなに知れたらと思うと身がすくんだ。
二人はふざけあうように森の中を追いかけっこした。 蜜子の笑い声が森に響いた。
そのとき、蜜子は鳥の鳴き声を聞いた。すぐに谷に行き当たった。蜜子は崖淵の木に寄り添って、耳をすませた。鳴き声は谷底からするようだった。乾いた甲高い声だった。
何の鳥だろうと思って蜜子が「ねぇ」と振り返ると、もう敦志の姿がなかった。そこにはただ不気味に静まり返った薄暗い森が広がっているだけだった。
蜜子が森から出てきたのは、翌日の夕方のことだった。昨夜のうちに捜索願いが出されていて、身柄はすぐに保護された。しかし、敦志は二度と見つからなかった。
不思議なことに、その出来事を境に蜜子へのいじめはなくなった。
帰り道、蜜子は森の中からあの鳥の鳴き声が聞こえないかと、耳をすませてみることがあった。しかし、そこにはまるで何者かが呼んでいるような深い静寂があるだけだった。

七海かりん『開かずの蔵』

 私がその話をした時、母は嘘をつくなと叱ったが父は大層喜んだ。
 我が家には古い蔵があるのだが、開くことはない。何人もの腕の良い職人が挑んだが、誰も開くことの出来なかった開かずの蔵である。その蔵に私は一度入ったことがある。物心がついた頃、蔵が開いていたので入ると入り口が閉まり、閉じ込められた。泣き叫んだが誰も来ず、疲れて眠ったようで蔵の外壁に寄りかかった状態で目覚めた。
 時を経て、就職した会社を半年で辞め農業を継いだ時、父が言った。「俺も蔵に閉じ込められた」何でも代々、蔵に閉じ込められる者が跡継ぎとなるらしい。そのことは跡継ぎ以外誰も信じないのだそうだ。当然だろう。私自身、夢を見たのだと思っていた。次男が「蔵に閉じ込められたことがある」 と言うまでは。
 畑仕事が好きで、思春期になっても手伝いをしていた長男に「蔵に閉じ込められたことがあるか?」と訊くと怪訝な顔をされた。次男は医大志望だったことと併せて、跡継ぎの話は信じていなかった。ところが、長男はキャリアウーマンと結婚して東京に居を構え、三浪で挫折した次男が跡を継いだ。 中学生になって蔵に閉じ込められた次男は、信じて貰えないと黙っていたそうだ。

 夕餉の箸が進まない孫娘に、どうかしたかと訊くと言った。「蔵に閉じ込められた」
 次世代は婿養子か。

なかた夏生『足』

 膝のあたりに何やら文字が書いてあるのだが、読めない。それよりもまた、左足だけが疼き始めた。足の指の間の出来物は相変わらず膿んでいて、黄色い汁を垂れ流している。甲からふくらはぎにかけて、肌はひび割れ痛いのだ。やがて頭も痛くなり、そうなる前にまた、病院へいく羽目になる。
 子供の頃、納屋の中で白い蛇の大群をみつけて、農機具の為に置いてあった軽油だったか、ガソリンだったかを蛇にかけた。蛇と納屋を焼きつくしたと聞いたのは病院で、納屋の外で倒れていた私は四日ぶりに目をさましたと聞いた。退院の日、母は私にお守りを渡しながら、これを忘れていたからあんなことになるのだと言った。
蛇を殺したからだと言うと、病院の先生は「またそれですか」と言った。この先生に診てもらった事はなかったはずだ。だから私は「また?」と聞いた。
「蛇を殺したのですよね、寒い日で、怖くもないのに殺した」
「ええ」と答えた。診てもらった事がどうやらあるらしいと思った。
「それで、その左足で死んだ蛇を踏んだと」
「祟りなんです」
「でもその事は覚えてないのですよね?」
「ええ、まったく」
「足。ズボンを捲ってみなさい」
 おかしな先生だが言われた通りにした。
「く。す。り。ぬ。る。そう書いてあるでしょう? あなたの字だ」
「そうなんですか?」
「この間も言いましたが、あなたの足は薬で治ります。酷いしもやけですが、そうなったのもあなたが薬をぬらないからだ」
「私がこれを書いたと?」
「もし、蛇の事を思い出したらまた来なさい、その時がくればあなたは薬を塗ることも忘れなくなるから」
「どういう事ですか?」
「後遺症なんです、一酸化炭素中毒の、それから、前にも言いましたが、足が痛いときは外科に行きなさい」
 忘れないように、病院を出た後左足にマジックで、「げか」と書いた。
 私の左足は文字だらけで、先生にさっきもらった薬がきれたら、またいろんな事をわすれる、蛇を忘れているように。

高山あつひこ『骨の語る物語』

 僕は骨。地中奥深く潜る旅の途中。地震によって起きた断層の隙間を滑り、地下水の流れに乗って、深みへと落ちていく。
 あの日、電気仕掛けで火山がうまく爆発したのと同時に、僕の魂は空遠く舞い上がって宇宙の一部になったのだけれど、僕の体は粉々になって、この懐かしい故郷の森の土になることを選んだ。僕の体の破片を鳥や獣が食べて糧にし、森の色々な処へ運んで行った。咀嚼され、消化され、彼等の体の一部となり、小さなものはもっと大きなものの餌になり、僕の体はどんどん変わっていった。僕を食べた動物が死ぬと、僕は森の土になった。残った僕の体と同じように、とろとろと腐り、土に染み込み、森の木や草を育てる滋養になっていったのだ。僕の滋養が育てた草や木が伸びていくこの快さ。ある時は、すくすくと育った草から一輪の花が咲き開き、僕を有頂天にさせた。やがて、その花びらがひらひ らと散り、土となった僕の上にふんわり積もった。次に実がなり、その実を食べた鳥が大空へ飛び立ち、そしてその死がまた僕を土に帰した。こんな繰り返しの中、この大地の滋養となった快さでだんだん何も感じなくなっていった頃に、津波がやって来たのだ。遠くの海の底で起きた地震で、海が川を遡ぼってきた。僕が土に与えたわずかな滋養など、汚泥と塩分が入り込んで消えてしまった。唯一残された骨だけが、地震のはずみで土の下に潜り込んで行ったのだ。
 飢饉を避ける為、科学の名の下に僕は火山を噴火させた。でも、もし大爆発していたら?津波が起きていたら?僕は生贄となって山を鎮めただけなのか?そんな疑問を胸に僕は地下深く潜り続ける。この旅の果て、僕が化石となる頃には、鉱石から地下の秘密を探り当て、マグマの怒りの謎を解き明しているだろう。そして、僕の化石を掘り当てた者にその答えを託すのだ。僕は科学者だ。帰り道のない旅は二度としない。掘り起こしてくれ。

なかた夏生『指』

 両手の指どうしがくっついたままの手に刃を入れたのは母で、毎日少しずつカッターで皮膚を切っていき、全部の指が外れた頃に死んだ。指紋と母をなくしたまま私は大きくなって、二十二歳で結婚した。相手は北に住む人だった。その人は全部の手の指先をなくしていて、第二関節までしかない指で、私の指先を触った。私は、手術を待たなかった母の事とカッターの話をして、主人はヤモネの話を私にした。
 ヤモネは米の収穫の頃、山からおりてくる虫で、赤色をしていて、トンボにとてもよく似ているんだ。捕まえる事は出来ない、鳥みたいに高く飛ぶから。かさがけをしているときなんかに上を見ると、そらは金色に染まって見える。僕が暮らした街はすぐに冬がくるから、ヤモネは秋の終わりの夜、一斉に卵を産んで、どこかに消える、多分山に帰るんだろうけど。幼虫はね、雪の中から出てくる。今度は田圃が真っ黒になる。ヤモネは初雪が来る日を知っていて、必ず最初の雪の日に幼虫が出てくるように卵を産むんだ。見つからないように、ばれないように。夜の雪にあわせるように。
 雪が降りそうな前の日は気を付けないといけない。朝、田圃に出て黒い色を見た時にはもう遅いから。気づかずに寝ていると僕みたいに食べられてしまうんだよ。
 洗面台の配管から、お風呂場の管から、床下の隙間からヤモネの幼虫は入ってきて、寝ている子供の肉を喰う。本当は喰うわけじゃないけど、僕らは喰うと言う。綺麗に指先だけ無くなるからね。ほら、食べられた後みたいに見えるだろう?
 本当は凍らせて壊死させるんだ。雪みたいに冷たい幼虫でね、あいつらも生きないといけないから体温の交換をするのさ。そして、あいつらが暖かくなる分、僕らの指は落ちていく。だから君の母さんがしたことは、僕らの街の子供に比べればまだましさ。だって指は有るもの。
 私は、私と主人の指を見る。今年の秋から、私たちは娘と一緒に、彼の街で暮らす。

なかた夏生『姉』

 わ、たしを産んだことを母はしら、ない、ない。とても小さかたから、姉の髪の毛のな、かにかくれんぼうし、てい、きてきた。母が姉のかみの毛に、くし、をいれる時こわかった。わ、たしと姉が七つになたとき、かくれ家をかえた。お米入れのはこの中のそこの方で生きることにし、た。まよなかにはこから出て、おかずののこりを食べた。姉にかくれて、がこうに行った。すきな人がで、できたけど、あきらめた。話せるけれど、話さない。も、もじはおぼえ、お、ぼえていない、ぜんぶ。
早くしなさい。母のこえが聞こえる。きょう姉はおよめに行く。わ、たしもいしょに行く。きれいなふくを着てるから、みみなかでかくれんぼうをする。中へは、はいていて、かべをやぶて、もと中へはいる。母のこえがもやもやとしかきこえなくなた。
きしゃの中はよくゆれた。姉のとなりの男の人のむこうに、うみと、たんぼと、鳥と、ななめになた、松の木がみえた。姉のまぶたはぬれていて、あたたかくて、泣いているのだとおもた。
姉のおなかの中にあかぼうができたのは、きしゃからおりてから、ずと後の事だた。
おなかの中で、あ、姉とあかぼうはつながていて、その中でかくれんぼうをして、くらした。長いことくらして、おなかがすいたらその糸をたべたけど、たべたらあかぼうがなくから、できるだけがまんした。
糸をたどってあかぼうの中にはいた。は、入った。入っていて、いって、あかぼうの目になた。はなになった。耳にもなた。あかぼうは泣かなくなて、私はあかぼうになれた。
姉の足の間から光が見えた。しばらくたって、姉は赤ん坊の私を抱いた。柔らかい櫛を、私の髪に入れた。「こんにちは」と言ったから、私は笑った。寒い夜、姉は私を抱いてくれた。私が暮らした米の箱の匂いがした。
「道、凍ってるから、ゆっくり歩きなさいよ」と姉が言う。
「うん母さん」と私は答える。
 私は、小学校まで田圃の中を、駆け抜けていく。

松音戸子『九十五の君へ』

 拝啓 今この手紙をどこで読んでいるだろうか。君に話したいことがあって、馴れないながら筆を執っている。
 刈和野駅を知っているだろう? その駅前に、祭事の『刈和野の大綱引き』で使われる綱のレプリカが展示されていたのを覚えているか? レプリカといっても、小さいものでなくて、凄く太くて、かなり長い。ガラス張りの建物に綱だけが寝そべっていて、迫力があったよな? いつものように電車に乗ってその展示を眺めていたら、知らぬ間に大綱の上にいたんだ。端っこにまたがって、落ちないように抱きかかえて。
 あまりに異様な事態に、俺は腰をぬかしたよ。横を見下ろすと、日光に照らされた線路がびかびか光っていた。
 綱の向こう側から『おうおうおうおう』という唸り声が聞こえたので、目をやると、痩せた爺さんがいた。大綱にしがみついて、全身で引っ張っているような仕草をしていた。その迫力に、負けた! と思った。
 そして俺はやってきた時と同じ唐突さで、電車の座席に戻っていたのだけれど、あれはおかしな体験だった。手に綱の跡がついていたので、夢ではないのだろう。

 向こう側にいたのは、君だろ? 何だかそんな気がしたから。俺は定年退職して病気になって、いろいろ気落ちしていた。そんな時、生命力と気力に溢れた君を見て、まだまだやれるぞと元気を貰ったんだよ。
 小学校の時にタイムカプセルにいれた二十歳の自分へ宛てた手紙は、ついぞ届かないままだった。だけどこの手紙は届くと信じているよ。本当にありがとう。俺を引っ張ってくれて。
                                            六十五の僕より

2013-02-07

来福堂『ニルヤの花』

いつ又、揺れるんだろうか。そう思うと、恐ろしくて堪らない。うつらうつらと、眠っては覚める。あれから、ずっとそうだ。
だから、これが夢かうつつか分からない。
見た事のないような、色鮮やかな花々を両手に抱えて、親父とお袋が笑っている。
あの日二人は、冷たい波に消えたのに。
「南だ、ずっと南。流れついたら、冬の無い島だったよ」親父が語った。
「雪、降らないんだ。だから懐かしくて」
そうかい、こっちは、今ずっと雪だよ。
「ああ、でも、花は降るんだよ。はらはらとな。それ見て、雪を思い出すんだ」
雪かき要らないんだろ。花だもんな。
「あんた、寝てないでしょ。眠れなかったら、母ちゃん、子守歌を歌おうか?」
冗談はやめろよ。俺はもういい年だ。
「ま、そんな訳だから、こっちはこっちで楽しくやっている。心配するな」
「ご飯、ちゃんと食べるのよ」
花が降って、はらはら降って、二人が見えなくなったのち、布団の温もりに包まれている自分に気付いた。やはり、夢だ。
体を起こせば、未明の薄闇が、ひたひたと部屋を満たしている。冬の夜明けは遅い。今日が始まる。そろりと布団から這い出した、その時、濃厚な花の香りがした。
そんな馬鹿な、と窓辺に近寄り、カーテンを開けば、窓の向こうの白い景色から、冬の気配が伝わってくる。気のせいだった。
気抜けして、足下に目をやると、畳の上、あの日の親父が被っていた、毛糸の帽子がある。拾いあげようとすれば、溶けるように消えた。その刹那「いけねぇ、母ちゃんが編んだんだ。怒られるわ」と微かな声がした。
暖かいんなら、毛糸帽は要らないだろ。
花の香りも消えゆく中で、いつか誰かに聞いた、遠い南の土地のその又とおく、海の彼方にあるという、常世の国の話を、ぼんやりと思いおこした。

山村幽星『屏風おとし』

 古い田舎屋に住むようになったのは、たまたま訪れた農村で人気のなさそうな農家の日当りのいい庭になにげなく入りこんで、ガラス戸の閉ざされた縁を振り返り、こんなところで暮らすのもと思いだしたとき、いきなり縁側のガラス戸が開かれ、やっぱり人が住んでいたのかとばつの悪い思いに襲われるとともに、いかにも好々爺然とした、ごま塩頭でしょっちゅう笑顔をうかべているのでそれが貼りついたままになったような老人に、「住みなさらんか。いつでも住めるようになっている」と声をかけられたからだった。
 寒い季節になってきた。日中は、囲炉裏で薪を燃やし、炎に包まれるのを見ていた。寝るときには、電気コタツを足もとに置き、枕元には少しでも寒さがしのびよるのを避けるように、納戸から見つけた屏風を広げておいた。柳の糸が何本も風に大きく揺れるところを描き、その下に緩やかな波紋の渦が描いてあった。ある夜、夜中に目がさめ、寝つかれないままコタツの暖をたよりに眠ろうとしていたとき、急に息苦しくなり、部屋じゅうがわきあがってきた水気に浸され、薄青い微光に満たされるようだった。
息ができないと思って、もだえているうちに手を伸ばしていたのだろう、大きな音とともになにかが倒れ、その音で目がさめ、やっとのことで身を起こして、息を整えながらうすぼんやりした部屋を見まわした。とくに変わったこともなく、ただ枕元で屏風が倒れていた。それを立てなおしたとき、絵柄が上下逆さになっていることがわかった。妖しく水草がゆれる水中の眺めとなった。掃除をしたとき、一旦、畳んでおき、開いて立てたときに逆様にしたようだ。
声をかけてくれた老人がきて、不思議な体験を語ると、驚いた顔をされ、この屏風は死期の迫った人を安らかに送りだすため、その枕元に逆様にたてるものだといわれた。

山村幽星『邪鬼』

「なんではるばるこんなところまでやってきた」
「人にきかせるほどのことではない。心にうかぶ十七文字を書きつける者があるのだよ」
「外にはなにもしない。ずいぶん暇な人があったものだ」
「ずいぶん厳しいことをいうもんだ。人には生まれついた成りわいがある。舟を浮かべる者、馬の口をとらえる者、商う者、政道につく者、それぞれじゃ。そして求道の者がいる。言の葉を連ね、斯道の人の歓心を誘うのだ」
「旅人に一夜の慰めとなる女たちもいる」
「なにをいうことやら。不穏なものいいだ。浮かれ女と同様、なにも恥じることはないよ。さっきから言葉を返してくるオマエはなに者なのだ」
「そんなこと、しれたことさ。なんでもたださねば済まぬ者さ。河原で親と生き別れた童子を見たことがあろう」
「たしかに」
「それでなんとした」
「食い物を与えるしか。人のもつ因縁によって、哀れをさそう児もある」
「人にさらわれ、旅に病んで死ぬ子もある。児を思う一念にひかれて彷徨いでた母は、だれつげるとなくとも、行き倒れて埋められた児の塚にだどりつく」
「そのようなことは、すでに聞いておる」
「わかるだろう。オレは、哀れな魂が彷徨い鬼となった者だ」
 旅人は、板敷きに筵をしいて寝ていて、胸のあたりに強い圧迫感を覚え、うなされていた。ケラケラ笑う声とともに、馬の尿する音がするようだ。

来福堂『プロジェクト・ザシキワラシ』

某月某日、遠野市のとある場所で、会議が執り行われた。そこに並ぶのは、幼い顔ばかり。しかし、表情は真剣そのものだった。
「来たるべき日、この遠野は拠点となります。その際、物事が円滑に運ぶよう、準備が必要です。えー」議長が辺りを見回す。
「まず、市長となる者を説得します。どなたか、やって頂けませんか?」
その呼び掛けに、一人が手をあげた。
「やがて市長となる者の夢に入り込み、朝になったら忘れ、けれど使命感だけは心に残るように、手際良くお願いします」
議長の言葉に、志願者は真顔で頷いた。
計画は粛粛と進み。そして確実に、運命の日は近付いて来た。
その日、彼らは大地を踏み締め、祈った。ドン、と大地が揺れた。災いの日が来た。
揺れがおさまり、リーダーが叫ぶ。
「ただ今から、活動を開始する!」
その言葉を合図に、ワラシは散らばった。
地震発生後、早々に遠野市は運動公園を開放し、自衛隊の受け入れ準備を始め、震災に対する後方支援の拠点となった。この対応の迅速さは、市が後方支援拠点施設整備推進構想なるものを作成し、訓練してきた成果であったが、陰でワラシの働きかけがあった事は、人は知る由も無い。
岩手県沿岸南部から半径約五十キロの場所にある遠野市は、沿岸と内陸の結節点でもある。交通、物流の要として、なくてはならない土地であった故に、彼らは集結した。
人は働く。ワラシはその背を支える。人の営みが上手く進むように、慰め、励まし、導いて。見えない者達の活動が、注目を集める事は無い。それでも笑顔でワラシ達は言う。
「東北には、私らがついてる。決して、見捨てたりはしないよ。故郷だもの」
座敷童子達による、人間への後方支援活動を後に彼らは、プロジェクト・ザシキワラシ、と名付けた。

来福堂『あのこ』

間引く子は、産後三日以内に石臼の下敷きにして殺し、土間に埋めれば、その家の守り神になる。そう言うけれど、では守り神だらけのこの家は、どんなに幸せかといえば、まんまも炊けない有様。貧しくて人に成れなかったんだもの、比所に長居はしないさ。
静かな夜。私は土間から這い出した。外に出れば月は青い。そこへ風が吹いてきて、何処へ行く、と問うた。山に入れば山童。川に入れば河童。家に入れば座敷童子になれるんだとさ。皆、元は同じなんだと。
私は、家、と答え、風の教えた道をゆく。
辿り着いたその家は、ワラシなんて居なくても、十分、豊かな家だった。
家には、産まれたばかりの丸々とした子が寝かされていたよ。笑顔がめんこくて、思わず、小さな手に触れ、あんたの姉ちゃんになるね、って言ったらさ、又、笑ったんだ。
あの子と過ごした日々は、本当に楽しかったよ。家の大人には、私が見えない。女の子同士、宝物みたいな時間だったね。
幸せな時ってのは、呆気なく過ぎる。あっという間に、赤ん坊は大人になったよ。もう遊べなくはなったけれど、私の事、忘れずにいてくれた。それで満足だよ。後から弟も産まれたけれど、あれは生意気でさ。
あの子は綺麗になった。縁談も沢山きた。駄目だと思った男は、私が邪魔をした。そして、やっと良い縁があった。寂しいけれど、さよならだね。戻る家が無くなるのは困るから、私は当分ここに居る。その代わり、別の守りが、そっちへ行くからね。
月の青い夜は好きなんだ。土間から、やっと出られた、あの夜の風を思い出すから。
そんな月夜に川に行ったら、河童に会ったよ。座敷童子になって欲しいと頼んだら、了解してくれた。旨いもん食べたいとさ。だから、ずっと幸せに暮らせるよ。沢山、子供を産んで、ちゃんと人間に育てておくれ。
私は、いつまでも祈っているよ。

剣先あやめ『二年目の夏』

 震災から二度目の夏がやってきた。墓さえも流されてしまい、涙を流す余裕もなかった去年よりは落ち着いた気持ちで逝ってしまった人々の御霊を迎えようと、盆の入りの前日、車に積めるだけ故人が好きだった食べ物や花を買った。夕暮れの朱色の光の中、集落の入り口で信号待ちをしていると、歩道に薄汚れた白い着物を着た老婆がぽつんと立っている。気になったので車を傍まで寄せてどこに行くんですか、と窓を開けて声をかけた。
狭い集落なのでこの辺りに住んでいる人は皆顔見知りだ。しかし、この老婆を見かけたことは一度もない。老婆は以外にはっきりとした口調で、ここに住んでいる縁者が沢山亡くなったので様子を見に来てみたが、これ以上進んで良いのかどうか迷っていると言った。
「どこのお家?乗せてってあげようか」
 私の申し出に老婆はしばらく考えている風だったが、やがてきっぱりと首を振った。
「やっぱりやめとく、一度村に入っちゃなんねえと言われたんだから守らな」
 首をかしげる私に老婆のひび割れた薄い唇が微かに笑みを浮かべた。その足元には根元から波にさらわれた石柱の跡がある。それが何であったか私は知らない。
「はなのこともゆきのこともおらはちゃんと覚えているからな」
 老婆がそう言った途端突風が吹き、思わず閉じた目を開けた時にはもうそこに彼女の姿はなかった。キツネにつままれたような気持ちで家に戻り、すっかり元気をなくしてしまった祖母に今会ったことを話した。
「ああ、それは××家の一番上の姉さんだろう。草履を残して山に入ってしまったんだよ」
 そこでようやく私ははなとゆきが××家に住んでいた老姉妹だと気がついた。ふたりはあの津波で家ごと流された。偲んでくれる人がいて良かったと祖母は静かに笑った。

佐原陶『窯変』

 東北のある大学の理論物理学の学生が考えすぎて行き詰ったあげく学問を放棄し、ある窯元に弟子入りした。彼は新たに出直すつもりで一生懸命陶器を作った。しかし彼の陶器は不出来で、師匠はことごとく壊さねばならなかった。何年やっても一つも物にならず、彼はある日、師匠が目の前で次々に打ち砕く自分の器を見つめながら狂気に陥った。自分の土を持ってくると伝統の器を無視して奇怪な形態をこね始めた。それは人型に自分の歯で噛みながら装飾を施したもので、もし遮光器土偶が恒星を持たぬ惑星に生まれ、邪悪なエネルギーで成長したらこうなるのではというような形態であった。
 学生は今すぐこれを窯で焼いてくださいと願ったが師匠は拒否した。学生は師匠の家の見事な日本庭園の真ん中に穴を掘り始めた。師匠も他の弟子も取り押さえようとしたが、彼が師匠の作品を人質として振りかざすと引き下がるしかなかった。穴の土偶を薪で囲い素焼きを始めた。土偶は三日三晩焼かれ、庭木は薪に伐られ広い庭園は無残に荒れた。その間、学生は一睡もしなかった。一日冷まして土偶はできた。落ち窪んだ学生の眼は輝き、憎々しげに見つめる師匠に幼児ほどの大きさの奇怪な土偶を誇らしげに手渡した。
 師匠は土偶を振り上げ、地面に叩きつけた。次の瞬間不思議なことが起こった。粉々に割れた土偶の破片が地面の小石に反射し、師匠の足や庭石に反射し、戻って来たかと思うと、まるでフィルムを逆回しにするように組み合わさり元の土偶に戻った。地面に転がる土偶には瑕ひとつ無かった。学生は呪文のように叫んだ。「ボルツマンのH関数が増大した!エントロピーの減少だ!」土偶を茫然と見ていた師匠は急に苦悶の絶叫をあげ、胸を押さえ倒れこむと絶命した。心不全だった。学生もその後衰弱し、病院で死んだ。
 東北で発掘される縄文の土偶は、多くが砕かれた状態だが稀に完全体もあるという。

斗田浜仁『相談員』

(カタリ)
「あ、来た」私がここに勤めてから何回目だろう。はじめの頃は、誰か来たのかな?とドアを開けると誰もいない。不思議に思って、先輩に聞いてみた。
「あら、ここは死者の魂が集まる場所よ。面接で言われなかった?」どおりで夕方からの勤務でも大丈夫かと聞いてきたわけだ。
 この文学館は森の中にあり、昼でも暗く空気が重い。収蔵品もこの世にいない作家の遺品や原稿なわけで、人の情念がこもっている感じ。ご丁寧に隣には葬祭場まである。
 私には死者は見えない。でも彼らが発する音や声は聞こえる。だいたい、死者が見えて声も聞こえる人って少ないんじゃない?。ここの学芸員はなんらかの能力を持っている人達が勤めているみたい。
 ここのロビーの床って積み木のような木片が並んでいて、歩くとカタカタと音が鳴るの。最後の片づけをしている頃、誰もいないロビーが鳴り出す。最初はうるさかったけど、だいぶ慣れた。でも、普通の人には聞こえない。
(カタリ、カタ、カタ、カタ、カタ)
 あら?今日は大勢来ているみたいね。そうか、今日は怪談イベントがあったんだ。怪談話をすると魂が集まってくるって言うよね。だからかな。さっき、ちらっとイベントを覗いたら、偉い先生らしき人が言ってた。
 怪談は「生きている人が、死者と向き合う事で生きる意味を見つけていく作業」だって。
 そうかもね。でもそれって、生きてる人の話じゃない?死者はどうなのよ?死者だって誰かに相談したい時ってあるわ。
 さて、今日は死者の相談日。ここの相談員は学芸員だけあって、答えが難しくて困るんだって。だから私に集中するの。私?私はイタコの末裔。和むんだって。私は婆ちゃんの真似してるだけなんだけどね。
 今日は長くなりそう。超過勤務手当出るかなぁ。では最初の方どうぞ。

白雨『夜行列車』

 一九八六年夏。上野駅発の急行八甲田に私は友人と乗車した。
 自由席は労働者風の男がほとんどで、他には私たちと同様、大きなバックパックを背負った若い男が数人いるだけだった。若い男は皆、北海道への貧乏旅行だろう。
 十九時二十一分、定刻通りに列車は出発した。友人と話をし、駅弁を食べ、洗面をすませるとあとは寝るだけだった。ボックス席のシートを外して床に置く。こうすると肘かけに邪魔されずに足をのばして寝 られるのだと友人が教えてくれた。席に座ったまま寝ている者もいたが、床に新聞紙を敷いて寝ている者も多かったから、通路にはあちこちか ら足がにょきにょきと飛び出し、まるで死体置き場のようだった。
早々に車内は消灯され、常夜灯のぼんやりとしたオレンジ色の灯りだけになった。 
 私も一度は目を瞑ったものの、なんだか腹の具合が悪くなり、トイレに行くことにした。同じ車両の最後部席に一人の男が目を開けていた。まだ、起きている人もいたのかと、その時はさして気にもとめなかったが、腹痛で二度目のトイレに行ったとき、何か変だな、と思った。その男は起きているというより、目をぽかっと開けているのだった。 何も見ていないような、それでいて、どこか嬉しそうな表情にも見えた。私がそばを通り過ぎると、「行かなきゃよかったなぁ」とつぶやくような声が聞こえた。振り向いたがその男と目は合わなかった。
 六時五十一分。青森駅に到着するまで私はぐっすりと眠っていたらしい。起きると、体のあちこちが痛かった。青函連絡船に乗り換えるため、乗客たちは次々に電車を降りていく。
 あの席に男の姿はなかった。
 青函トンネルが開通したのは、それから二年後のことだった。

白雨『ストーブ列車』

 だるまストーブの焚き口を開け、車掌が石炭をくべた。赤々とした火が踊る。
 ワゴンを押した売り子がやってきた。日本酒やビール、それにストーブの上で焼くためのスルメもある。
この車両は旅行会社の貸切りだった。五十歳以上の一人参加限定ツアーで、私のほかには男が四人、女が二人乗り合わせていた。乗車前、ホーム で雪を物珍しげに見上げている者ばかりだったから、東北の人間はいないのだろう。
「スルメ、焼いていいですかね?」
 車掌と売り子がいなくなってから、眼鏡をかけた男が言うと一気に車内の空気が和んだ。私も東京から持ってきた餅を鞄の中から取り出した。
「これも良かったら、皆さんで」
「あら、いいですねえ。私はお芋を持ってきたんですよ」
 小柄な女がすかさず言う。皆、それがツアーの目当てだったらしく、鞄から出したものを次々に焼き網の上に並べはじめた。
 それまで一人、隅の席にいたもっさりした男が乗客の輪に近寄ってきた。眼鏡の男が気付いて、「一緒に食べませんか」と声をかけると、その男は手にしていた箱の蓋を開けた。
 一瞬、皆、息をのんだ。見たこともない半透明の物体が入っている。
「生ものは焼いちゃいけないって……」
「これは、生ものじゃないんじゃないかな」
「それ、あれかしら。鹿が食べるって聞いたことがありますけど ――」
「うちの地元では見かけないねえ」
 それぞれが言うと、男は頭をかいた。
「天ぷらにすれば食べられるっていうから、焼いてみたらどうか な、と思ってね。幸い今日は貸切りだから、みなさんが良ければ」
 見た目とは違って妙に愛嬌のある口調で男が言うと、五つの火 照った顔がそろって頷いた。
焼き網にのせられたそれは、一度伸び上がるように身をくねらせたかと思うと、霊燿を発して、とけてなくなった。
雪 が、窓の外を飛ぶように流れていった。 

鷹匠りく『しゃべり地蔵尊』

 自ら怖い体験をしにきたんじゃないだろうね。やはり好奇心か……。最近そういう奴が多いんだ。まぁいい、せっかくここまできたんだ。良いことを教えてやろう。
 本当に怖い話なんて出まわらないし誰にも伝えられないんだよ。何故かって?本物の恐怖を体験する時と命を落とす時は同時にやってくるからさ。
 死人に口なしというだろう。他の地蔵尊を見てごらん。皆悲しい目や怒りに充ちて訴えかけているのが分かるだろう?二千体程いる地蔵尊の中で唯一話が出来るのは私だけだ。奇妙がるのも無理はない。私だけ他の地蔵尊と違って口が大きく開いているからな。そういえばさっき言った事には語弊がある。“死人に口なし”というのは私にはあてはまらない。想いとは不思議でなぁ。私は命を落とす瞬間に話がしたいと強く思った。生前は言葉を話す事が出来なかった人生だったからな。そうそう君は恐怖を体験したいのだったねぇ。

 「河原地蔵尊って噂通りいろいろなお地蔵様がいるのね。ねぇ見て。このお地蔵様は何で泣いているんでしょうか?片足を上げて今にも逃げだしそうな雰囲気ですよね」
 「余程怖い事でもあったんじゃないか?とりあえず写メで撮っとこうか」
 ……また……好奇心か……。
 「あれ?おまえ今何か言った?」

鷹匠りく『みちのく童謡』

 めんこい赤子は顔隠せ顔隠せ。じゃないとよそに連れられる。こんにちは。こんにちは。背負っているのは何ですか?さぁさぁこれは何でしょう。布に浮きでるその影は小さな掌そうでしょう?いえいえ、これは“ゆべし”だよ。この膨らみは何ですか?これは可愛い“さくらんぼ”。右をつつくとおかしいな。さくらんぼなのに柔らかい。いえいえ、こちらは“ずんだ餅”。布の上じゃわかりやしない。そうだね、これはずんだ餅。左もつつくがおかしいな、やはりこれも柔らかい。これはとれたて“牡蠣”ですよ。あらあらこれは何かしら?何かが二本突き出てる。あらあらこれは“きりたんぽ”。困った困ったどうしよう、布が大きく捲れてる。真っ赤な色は何ですか?甘い甘い“林檎”だよ。

 「卓上にあるこの写真は館長が赤ちゃんの頃ですか?大きなおくるみで顔が覆われていらっしゃる。よく見えないけれど、隠れている小さな指は霜焼けで赤くなっていて痛そうだわ。……あの、この部屋はどうしていつも真っ暗なんでしょうか?朝も昼もずっと。明るいのは僅かな木漏れ日だけ。あ、二本の長い影が……」
 「……すまない、そろそろ時間だ。北上市の祭りの打ち合わせに出掛けなきゃいけない。もうすぐ開館時間だ。しっかりと掃除をしておいてほしい。鬼門の掃除は念入りに……」

鷹匠りく『きぃきぃ首』

 湿り気を帯びる万年床に張り付けた耳で這いずり回る音を聞いていた。規則正しく泣いていた床板からの微動が消える。静寂と同時に顔に冷気が触れるを感じ、私は瞼を堅く閉じる。眼球に侵入する睫さえも一緒に飲み込んだ。漂う冷たさの中にある刺さる視線は、畳を持ち上げたままこちらの様子を伺っているようだった。見る事に躊躇いが重なっていたそれを確認したくなった私は寝返りを打ちながら布団を涙袋までかぶせ薄目を開けた。隙間から見える小豆ほどの眼球は四方八方に蠢きだし部屋を見渡している。右肘から突き出す歪な指が畳を鷲掴みにすると、白髪は踝を覆い隠しながら蛇腹状に流れた。次は左腕と交互に繰り返した後、枕元にある小さな棚に手を伸ばす影が視界に入ってきた。飾られている鳴子こけしを掴んだ指はこけしの首を捻った。
 ――きぃきぃ、きぃきぃ。
「鳴子こけしの音色だぁ」
 首を捻り引っこ抜くと頭は畳に転がり、片方に握られていたもう一つのこけしの頭に胴体部分をはめ込んだ。
「やっと……めんこい着物見つけたよぉ」
 鳴子こけしの顔は三歳の頃に他界した妹の顔とうり二つだった。七五三の着物を買いに出掛けた祖母と妹は不慮の事故に巻き込まれ他界していた。思いだした途端に懐かしい香りが脳裏をかすめる。祖母が作ってくれた黒砂糖饅頭の香ばしさに唾液が滴る。今年は何回忌だったか、遠い記憶を辿るが思い出せない。まぁいい、そのうち私も同じ所へ逝くのだから。病床に伏せたままの私は思い出せない記憶と一緒に唾液を飲み込んだ。

ドテ子『首洗いの井戸』

 岩手県に首洗いの井戸と呼ばれる井戸がある。その昔、源氏が藤原氏を滅ぼし、首を洗ったのが由縁と言われている。
その井戸を覗き込むと水面に藤原氏が映るという噂があった。
 ある夏の夜、友人と遊び半分でその井戸に肝試しに行くことになった。
 井戸は何もないところにぽつんとあり、周りにロープが張り巡らされていた。夏だというのにそこだけ涼しく感じられた。
 ジャンケンで負けた俺が先に覗くことになった。所詮作り話と思いながらも、いかにもという雰囲気に恐る恐る井戸を覗き込んだ。
懐中電灯に照らされた水面には人の顔が映り一瞬息をのんだ。すぐに自分の顔だとわかって胸を撫で下ろす。
顔を上げて友人に話しかけようとしたその時。
 水面が歪んだ 。
 顔が、変わった。
「待っていたぞ」
 井戸から腹に響くような声がして、逃げようとしたその瞬間、後ろから何者かに強い力で背中を押された。
 それ以来ずっと俺は友人が来るのを待っている。

ドテ子『ラジオ』

 重くなってきた息子を抱っこで寝かしつけた頃だった。
 大きな揺れを感じて咄嗟に出口を確保し、息子を抱き抱えて比較的周りに物が少ないソファの上に飛び移った。ブツンという電化製品の電源が切れる音とともにファンヒーターからの温風が途絶え排気ガスの匂いがした。それでも揺れは治まらず、テレビや棚、窓を揺らして色々な物を落とした。
 ようやく長い地震が治まる。寒さを感じて眠りこんでいる子供と毛布にくるまった。
 仕事中の夫にメールを送るが、送信できず。電話も繋がらない。 
 情報を得ようとラジオのスイッチを入れると地元アナウンサーが注意喚起を繰り返していた。
「落ち着いて行動して下さい。ガスの元栓を締め、火の始末をして下さい。津波の恐れがありますので……」
 ガスの元栓を閉めていなかったことに気付き、台所へ向かう。さっきよりも更に寒くなっている。
 元栓を閉めると同時に余震に襲われた。急いで子供の元へ戻る。途中何かにつまずいた。見るとラジオが落ちていた。はずみでチューニングがずれたのかラジオからは雑音がしている。
 揺れが治まったのを確認してラジオを拾い上げた。
 突然チューニングが合って人の声が聞こえてきた。聞き取りにくかったので音量を上げる。男性の声だ。
「波だ!津波がくるぞ!逃げろ!」
「 早ぐ!早ぐ!」
 別の男性の声もした。
「もっと上さ逃げろ!急いで!」
 女性の悲鳴や子供が泣く声も聞こえた。何の説明もなく、緊迫した声だけが聞こえる。まるでラジオドラマのようだった。
 私はラジオを手にしたまま見つめていた。
「ゆうこ!」
 一際大きい女性の叫び声がして、ラジオはまた不快なノイズに変わった。
 女性の呼んだ名前は偶然にも私と同じ名前だった。そして、その声には聞き覚えがあった。
 その後、何度試してもその放送が入ることはなかった。
 後日、幼なじみが津波で行方不明になったことを知る。

ドテ子『不死沢』

 昔ある山奥に不死沢という沢があった。その沢の水を飲むと不死になると言われていた。そのため、多くの人々がその沢の水を求めて探し歩いた。
 ある時、1人の子供が薪を拾いに山に入った。子供は病気がちな母親と二人暮らしで、働けない母親の代わりにいつも働いていた。 
 その日はなかなか薪が集まらず、いつもは行かない奥の方まで入って行ってしまった。気がついた時には知らない場所へと迷いこんでいた。
 ふと、水の流れる音が聞こえ、喉が渇いていた子供はその音のする方へと向かった。すると突然山が開けて、小さな沢が現れた。澄んだ水が静かに流れていた。
 子供は、その水を両手ですくって飲もうとした。
 その時、「待で」と嗄れた声がした。見ると子供よりもさらに小さな老婆が立っていた。
「こごの水はおらの水だ」
「すまねえ」
 子供は謝って立ち去ろうとした。すると老婆はにやりとして「見だどご、喉渇いでるようだども」と言った。 
 子供は素直に頷いた。
「こごの水は不死の水。こごで今飲んでしまうが、持ってって母ちゃんさ飲ませるが、どっちがいい?」
 子供は迷わず言った。
「母ちゃんさ飲ませる」
 老婆は意地悪そうに「本当にいいのが?」と言った。
 それでも子供の気持ちは変わらなかった。瓢箪に沢の水を汲むと、お礼を言って帰ろうとした。すると老婆が言った。
「その水は一口飲むど疲れがとれで、二口飲むど病気が治る。三口飲むど不死になる。げんともそれ以上飲めば……」
 老婆は不気味な笑いを残していなくなってしまった。
 子供はこれで母親の病が治るととんで家に帰った。
 家に帰るとさっそく床に伏せっている母親にその水を飲ませた。母親は一口、二口と水を飲むとみるみる元気になっていった。ところが、あまりの水のうまさに子供が止めるのも聞かず、全部飲み干してしまった。母親はそれでも飽きたらず、子供を食い殺してしまった。

ジャパコミ『女の槍』

 天正一九年九月、後に戦国の三大美少年と評される名古屋山三郎は当時一六歳。叛徒九戸政実征伐に参陣する主君、蒲生氏郷に随従して、奥州糠部へと下っていた。
 蒲生勢が最初に対峙した敵が姉帯城主、姉帯大学である。大学は城外に伏兵を置き、奇襲をもって寄せ手を苦しめた。それを打ち破ったのが氏郷の甥、蒲生氏綱の知略だ。弱冠一八歳の氏綱は、わずかな手勢で姉帯城に焼き討ちをかけるなど戦功目覚ましく、氏郷の信任も厚かった。護衛につけられた山三郎にとっても、誇るべき主筋の若武者であった。
 三五〇〇の寄せ手についに包囲された姉帯勢は、二二〇騎全て城外へと打って出てきた。
 驚いたことに、先鋒の騎馬武者は女であった。緋色縅の具足の上に、戦火に照り輝く黒髪をなびかせ、槍を手に駆け寄せてくる。
「姉帯大学兼興が妻なり。お手向いたす!」
 女はそう叫んだ。年は二十歳ほどか。不敵に笑う女の美貌に、山三郎は息をのんだ。
 陣頭の氏綱が真っ先に女の標的となった。護る山三郎は必死で槍をしごき、女の穂先をいなすも転倒した。突かれると覚悟した山三郎を、女は一瞥の後に捨て置き、進撃を続けた。続く姉帯勢が殺到し乱戦となる中、女は軽やかに戦場を跳び回り、蒲生勢を翻弄した。誰一人、女を止められなかった。城が落ち、夫大学が自刃した後、女は行方をくらませた。
 それから数日もせず、氏綱が熱病に冒され、気を違えて死んだ。敵の本拠、九戸城を目前にしての事だった。
 山三郎は四年後、主君氏郷の死をもって蒲生家を辞した。傾奇者として名を売りつつ、愛人の踊り子に男装をさせ新しい踊りを考案したりしたが、やがて仕官した森家にて刃傷沙汰を起こし、返り討ちに遭って死んだ。享年二九歳であった。
 女はほどなく自害し、槍一筋を遺して祟り神となったという。その名は「小滝の前」、あるいは「小滝の舞」と、伝えられている。

ジャパコミ『英雄伝説』

 取材で宮城を訪れたのは二〇一〇年の秋のことだ。あくる年は仮面ライダー放映開始四〇周年で、私は原作者石ノ森章太郎の伝記を物するため、出身地の登米市中田町石森と、所縁の深い石巻市を巡って聞き歩いた。
 石ノ森章太郎、本名小野寺章太郎は少年時代、熱心な映画ファンで、石森の自宅から映画館のある石巻へと、自転車で二、三時間かけて通っていたらしい。
 取材中、妙なことに気付いた。章太郎が石森にいた日時と、石巻にいた日時が重なることがあるのだ。章太郎が封切り日に観たという映画は、彼が法事で石森を離れていない日に封切られていたりする。矛盾する証言は数件あり、いずれ記憶違いにしても、あたかも章太郎が二人いるかのように感じられた。
 取材先で知り合った人物で、Bという男がいる。三〇年来の石ノ森ファンで、東北のファンや関係者の間では広く知られた人物だ。
 そのBと飲んだときに、酒飲み話として「二人の章太郎」の話をしてみた。彼は、思い当たる節でもあるのか、やけに深く頷くと、今度私も調べてみますよ、と言った。
 その後、あの震災があって伝記の刊行は延期となった。ようやく刊行のめどが立った今年、改めて宮城へ取材に訪れた。Bが被災地の案内を買って出てくれて、私は古川駅で彼の車に拾ってもらった。
「調べてみたらね、小野寺と石ノ森、二人の章太郎がいたんですよ」
 Bは車中でそう告げた。矛盾する証言は、よく聞いてみると一方が「小野寺さん」、一方が「石ノ森さん」と、名前が違ったという。
 ……そんな馬鹿な。石ノ森(デビュー当時は石森)というペンネームは章太郎が東京に出てからつけたものだ。私は聞いた。
「つまり『石ノ森さん』の方が嘘だと……」
「いえいえ。そう言うことじゃありませんよ」
 Bは笑って答え、こう続けた。
「章太郎はね、ヒーローなんですから」

ジャパコミ『オクナイサマのいる家』

去年の秋に、遠野でストーカーを「オクナイサマ」が追い払ったってニュースあったじゃないですか。そのとき被害に遭っていた女性が、私の同僚のAさんです。
 Aさんは共働きで、嫁ぎ先は遠野の妖怪保護区のバッファゾーンにある農家です。勤め先の花巻へは車で一時間、近くにスーパーもなく、狐の経立や熊が当たり前に出るという所でした。補助金のおかげで家計は良く、Aさんは早く仕事をやめて家庭に入れとお姑さんに迫られていたそうです。旦那を連れて家を出たいと、よく愚痴をこぼしていました。
 それが、脅迫メールが届くようになってからは、「遠野の方が安心かも」と話すようになりました。さらにあの日、ナイフを持って家に押しかけてきたストーカーがオクナイサマに追い払われるのを見て、婚家に住み続ける決心を固めたそうです。オクナイサマを見るのは彼女も初めてでしたが、家で祀っているご神体が文化庁認定の「本物」だと聞かされていたので、ストーカーに石つぶてを投げつける見知らぬ男の子の正体に、すぐ気が付いたのです。「意外にイケメンでびっくりした」って嬉しそうに話していました。
 ここまではだいたいニュースでも出ている話ですが、問題はそのあと、病院に迎えに来た旦那さんの言うことがひどいんですよ。「犯人が捕まるまで、おまえの実家に避難してくれ」って言ったっていうんです。
 Aさんの実家は花巻でストーカーにも場所が知られています。かえって危険だとAさんは断ったのですが、旦那さんは自治会と保護区の方針だから逆らえない、警察も巡回するから大丈夫、と押し切ってしまいました。
 せめてオクナイサマを花巻の実家に迎えたいとお願いしたのですが断られ、Aさんはストーカーが事故死したと伝えられるまでの三日間、まともに眠れなかったそうです。
 こういう話って、マスコミはほとんど取り上げないんですよね。

山村幽星『枯野の薄』

 王朝人は、宮仕えの女性と歌の贈答をし、関係をもった。好きごころから大胆な関係におよんだために左遷の憂き目にあった貴公子もあった。身分に恵まれず、宮廷の才女たちと交遊のもてない者のなかには、家の財力を頼りに出家して歌道に明け暮れる者もでた。彼らが中世の文化の担い手になった。時代は下って、同じ流れの文化を担う者は、俳諧の道を志すようになった。
 かつて左遷にあった貴公子は、陸奥の地にあって都を慕い、帰京をまたずにかの地で果てた。薄の生い茂る野原のなかに葬られ、わずかに土饅頭が残された。ときをへだてて、歌道を目指し漂泊者となった歌人は、よもやとおもい土地の者にたずねてその在り処をしった。墓を取り囲んで、茫々として枯れた薄だけがあった。かの貴公子は、才人であって女性との関係も華やかで、宮廷生活を楽しんでいた。権勢を誇る者や奔放に生を謳歌する者は、どうしても反撥を招くならいである。その成れの果てが遠い国での土饅頭であった。
 漂泊者は、手向けをしながら、詩魂が流れこむのがわかった。後悔はないよ。都での思い出がすべてだった。薄が妖しく揺れ、あたかも魂魄が彷徨うようであった。わかっていますよ。見しらぬ土地でもここへこられるものと思っていました。詩才を頼りに、縛られずに生きるだけのこと。わかる者だけが、わかればよい。
 また長い年月があって、同じく詩道にとりつかれるしかなかった俳人が、行脚の途次、そこへ寄ろうとしながら、天のめぐりあわせよろしからず、雨にぬかるんだ土地を前にして、訪ねあてることはかなわなかった。いや、すでに彼の脳裏にはいずれ枯野を彷徨う姿が見えていた。

のらぬこ『狐立』

 降り続いた雪は朝にはやんで、三月上旬の津軽平原は春を思わせるような晴天だった。
 隆は眼前に広がる雪原を、手でひさしを作って眺めた。足跡ひとつない純白の景色を見ると、少年時代の純真な気持ちが蘇る。過去を捨て、再出発する前に、一度だけ故郷を見たくて帰ってきたが、これで、いい思い出になるだろう。
 見るのに飽きたそのとき、陽炎のようなものが目の前に立ちこめると、青空に不思議な光景が映し出された。景色が逆さになっているので股からのぞく。目をこらしてみると、弘前の街並みに似ていた。そこを女がうなだれた姿で歩いている。その服装には見覚えがあった。女はなにかに気がついたというように、顔を上げ隆のほうに向けた。
 女の顔に驚いた隆は、腰を抜かして尻餅をついた。立ち上がると、さきほどの光景は姿を消していた。
 隆の父親は急に帰省した息子を見ると、顔をほころばせた。手土産を肴に、酒盛りが始まる。
 酔った勢いで隆は、昼に見た不思議な出来事を父親に話した。
「それは『狐立』じゃ。ばばから聞いたごどがあら。大昔サあのあだりだばよぐあっだきやしいが、蜃気楼サ似たものきやしい。こいが起ぎるど、今年は大豊作だの」
 父親の浮かれる様子を横目で眺めながら、隆は頭の中で話を整理した。どうやら三月上旬、晴天、雪景色という条件が揃うと、あそこでは蜃気楼に似た『狐立』と呼ばれる現象が起きるらしい。となると、あれは幻覚ではなく、遠く離れた場所が目の前に映し出されたということになる。どうりで、景色が逆さまに
なっていたわけだ。
 それならばどうして、死んだ女が街を歩いていたのか、女の首を絞めたときの感触が隆の手のひらに蘇った。戸外では強風が垣根にあたり、悲鳴のような音を出している。

深田亨『故郷の味』

 クール宅配便で届いた荷物を見て、ああそろそろ来る頃だなと思った。母からだった。保冷剤の下に小さなタッパー。蓋を開けると故郷の香りがした。くろ漬け、と子供の頃は言っていたが正しくは九郎漬けというそうだ。九郎判官義経の九郎。
これは代々おなごが作るのよ、だから良いお婿さんを貰わないとね。少女の頃からそう聞かされ続けていたのが嫌で、一人っ子の私は故郷を離れた。でもどこにいたって進んだ物流は易々と故郷を届けてくる。九郎判官義経最期の地といわれる衣川近くの集落が私の故郷。首実検のため切り離された胴体を、義経を慕う村人が秘かに薬草漬けにして保存したのが九郎漬けの始まりだという。それは代々引き継がれ、八百年以上も続いてきたとされるが、多分誰も信じてはいなかっただろう。もう義経の肉体などその中に残っているわけはなく、その都度加えられた材料によって薄められてしまっているはず。継ぎ足し継ぎ足しした秘伝のタレのようなものにすぎない。その作り方は口伝により母から娘あるいは姑から嫁へと伝えられてきた。
タッパーの中身を小皿に少し取ってみる。うっすらとピンクがかった肉味噌のようなもの。冷蔵庫が普及したので昔ほど薬草を利かさなくても長持ちする。母の短い手紙が入っていた。
初めて作ったけれど味はどうかしら。もう九郎漬けを作る家もうちだけになってしまいました。あなたも早く帰ってきて婿をとってくれたらと思います。……遠慮がちにそう書いてある。子供の頃はまだ数軒の家で作っていたのに、後継ぎが途絶えて材料も無くなったんだな。
箸の先につまんで口に入れる。去年亡くなった父の匂いがした。帰らないと決めたはずなのに、なんだか帰りたくなった。

青木しょう『迎え火』

 また叱られた。ろうそくの火を消し忘れているという。
 仏壇にお茶を供えて手を合わせるのが現在の私の日課だ。私が上京していた頃は、母が気が向いたときに拝んでいたらしい。
 都会に就職した私は、ある朝駅のホームでAEDのお世話になって、実家に連れ戻された。過労とストレス、栄養失調で心身は限界に達しており、友人たちはその頃の私を「ミイラみたい」と表現した。
 二ヶ月が経ち、私は大量の薬を使ってようやく人間らしくなった。取り乱す前兆を感じたらすばやく精神安定剤を舌下に挟んで溶かし、発作を抑え込む。薬を使うタイミングはすぐに覚えた。しかし肝心の薬量はいつまで経っても減らない。
 よく都会におけるコミュニケーション不足が取り沙汰される。それも悪いことばかりではない。田舎には「好奇心丸出しの目」と「誰彼構わず情報を垂れ流す口」がある。コミュニティに縛られた世界は過干渉だ。精神を患った未婚の、しかも婿取りを拒んで家を絶やす娘――周囲の目を気にした両親は、障子の桟を指でぬぐうような執拗さで私の欠点を探しまわり、叱責する。耐えきれなくなって部屋にこもれば「余計に病気がひどくなる」と言い張り、自分たちが監視できる場所に引きずりだして満足げな顔をする。
 薬漬けの日々が延々と続いた。ある日、私は仏壇に手を合わせながらふと思った。
 そちらに行きたい。
 翌日から仏壇の火が消えなくなった。
 手を合わせてそちらに行かせてくださいと念じた後、ろうそくの火を消す。居間に戻ってお茶を飲んでいると、また消し忘れていたと親に叱られる。
 そんなことが四十九回続いた今夜、仏壇が直に火を噴いた。両親は何ごとかわめきながら走り去った。私は黙って手を合わせる。
 お迎えにきてくれて、ありがとう。

青木しょう『子返しの絵馬』

 あの日、私は金魚を殺した。
 激しい揺れの中で水槽の濾過装置が止まった。地下水をくみ上げる我が家の水道は停電になると使えない。酸素は一、二時間ごとに水をかき混ぜてやれば供給できる。しかし大きくなりすぎた五匹の金魚が恐ろしい速さで水を汚していくのはどうしようもない。人間が使う水さえも足りない。水槽の水を取り換えるなど論外で。
 夜、近所で火事が出た。真っ赤に染まる夜空を窓から眺め、寒さと不安に震えながら、私は水槽をかき混ぜる。
 翌朝、火事でお年寄りが亡くなった話を聞きながら、私はやはり水を混ぜている。水槽の水は昨日より濁っている。
 まだ電気は戻らない。
 昼過ぎ、一匹が力なく水流にもまれはじめた。水が汚れすぎている。私は弱った金魚を水槽から出し、バケツに入れて魚体が隠れる程度の水を与える。水槽をかき混ぜながらバケツの中の金魚がけいれんするのを見守る。金魚の口から気泡が出る。死の合図。
 私は庭木の根もとを掘り返す。凍った土に難儀しながら、死んだ魚を埋める。
 翌日の昼に電気が戻った。私は急いで水槽の水を換えた。残りの金魚は生き延びた。
 幾多の命が必死に伸ばされた手からこぼれ落ちた――悲痛な慟哭に満ちたあの日、あの哀れな魚は選ばれて死んだ。
 他の金魚のためだ、みんなが言った。よく一匹にとどめた。全滅してもおかしくなかったのに。英断だ。おまえは悪くない。
 たくさんの慰めを豪雨のように浴びながら、私はかつて博物館で見た絵を思い出す。嬰児を押さえつけ、小さな顔をふさぐ女。女の影には二本の角が生えている。間引きをすると鬼になる――そんな戒めの絵だという。
 私はそっと自分の頭に触れてみる。まだ角は生えていない。だがいずれ生えるだろう。
 影はすでに鬼の姿をしている。

青木しょう『助太刀』

 叔父はため池にうつぶせに浮かんでいるところを発見された。松が取れたばかりの、放射冷却で空気まで凍った朝のことだった。
 叔父といっても法律上は他人だ。しかし私の住む集落では婚家を含めて係累を辿れる限り「親戚」と呼ぶ。そのような、他の土地なら他人であるところの「叔父」が入水自殺をした。
 今時期、ため池は氷の上で子供たちが遊べるほど固く凍る。やせぎすで小柄な叔父が乗った程度で割れたりするはずがない。だが叔父はため池の真ん中で死んだ。首に切れた首吊り縄をぶらさげたまま、ちょうど人ひとりぶん割れた穴から冷たい水に落ちて死んだ。
 葬列を組んで寺まで歩く。女衆は頭に白い布をかぶり、六尺が担ぐ盒箱から伸びた縁の綱を携えて歩いた。私は最後尾で綱の端を持った。叔父の家は寺のすぐ目の前だし、境内が狭いから三遍巡りもすぐに終わる。つつがない葬儀と納骨だった。
 忌明けの膳でしこたま飲んだ大人たちがそのまま我が家に流れてきた。まだ飲むかと呆れながら座敷に肴を持っていく。集まった大人たちはちっとも酔っぱらいらしくなく、神妙な面持ちで車座になっている。
「じさまの鉈がよ、あれ、梁に板渡してのせておいた馬喰道具の」
 話しはじめたのは叔父の従兄だった。私は漬物と煮しめをゆっくり並べ、耳を澄ます。じさま、とみんなが呼ぶのは叔父の父親。馬飼いをしていて、叔父が自死するちょうど一週間前に他界した。脳卒中で文字通りポックリ亡くなったらしい。
「梁にどっつり刺さっててよ。そこから縄が切れてな。あれはじさまがやったんだな」
「そうだな。それでもだめだったんだ」
 父の言葉に隣家の伯父がうなずいた。最初に叔父を発見したのはこの二人だった。
「あきらめないから、手助けしたんだな。最後まで世話焼きなじさまだ」

よいこぐま『影を置く』

「一緒に気球に乗りませんか?」よっちゃんの手紙は唐突に始まった。彼女の住む会津で熱気球のイベントが催されるのだと書かれていた。
「地上から見ても、色とりどりの気球が空をふわふわと漂う様子はとても素敵なのですが、乗ってみるとまあ、これがまた素敵なのよショウコちゃん。地面に張り付いていた気球の影が少しずつ離れていってね・・・」
 私は楽しげな手紙の内容に惹かれた。久しぶりによっちゃんにも会いたくなり、すぐに返事を書いた。熱気球の搭乗体験は人気があるので、早朝に待ち合わせの約束をした。
 朝靄の中、よっちゃんが満面の笑顔で手を振っていた。十月とは言え、早くも底冷えがする。数年ぶりに会うよっちゃんは、思いのほか元気そうで私は安堵した。
 私たちは無事に受付を済ませて気球に乗った。朝の冷たい空気が頬に触れ、夜が明けたばかりの日差しが眩しい。突然足元が掬われるような感覚の後、気球が浮き上がった。
 しばらくすると、地面をじりじりと離れていく気球の影の背後から、地面に張り付いたまま動かない小さな影が現れた。ぼんやりとしているが、人間の形に見える。私は嫌な予感がした。傍らのよっちゃんが口を開いた。
「わたし、去年もあの影を見たんだよね。何となくショウコちゃんに似てない?」
 よっちゃんは「冗談冗談」と明るく笑ったが、私は背筋が冷たくなった。自分の影を置いてきてしまったようで、ずっと気が気ではなかった。
 自宅に戻り、数日が過ぎて不安を忘れたころ、ふいにベランダに張り付いている影を見つけた。影は毎日時間をかけて、少しずつ部屋に入ってきた。もうすぐ寝室に辿り着く。まだ何事も起きない。ただ、私に似た形をして、日に日に濃くなっていく。

松音戸子『カハ』

 まぼろしの店はまぼろしすぎた。
 知る人ぞ知る横手やきそばの店を探していたら迷ってしまい、気付いたら田んぼにいた。
 あぜ道に、大きな石がつきささっている。2メートルくらいの長い石だ。鰹節みたいな形。『なんの石かもどうしてここにあるのかも分からない、掘ってみても底がしれなかった石町の建石』みたいなことが立札に書かれていた。「秋田のモノリスか? それとも忘れられたパワースポット?」最初は笑って見ていたが、突如頬を涙が流れた。俺も、だ、と思ったのだ。自分がどこからきて、何者かさえよく分からない。こんな風に思ったのは初めてで、戸惑いながら、石の周りに落ちているゴミを必死に拾った。めまぐるしく変わっていく、振りほどかれ続ける世界に抗うために自分を突き刺したい。そう、この建石のように。ひざまずいた俺は手で土をかきわけ、自分を刺すための穴をほった。
 土の中から、男の顔面がしゅるりと出てきた。
「うわあ!」
「ここに入ろうとしているのか? 出ていく予定だから、スペース空くよ、どうぞ」
 地中の男は木枯らしのような声でそう言った。俺は慌てて土を戻した。
「すみません! 墓だとは知らずに無礼なことを。ゆっくりお休みください!」
「違うよ、にいちゃん。ここは墓じゃないよ。墓とは真逆な場所だ」
 真逆という言葉を聞いて、恐る恐るかけた土を寄せる。顔は言葉を続けた。
「墓は死んだ人間が入るだろ? ここは生きている死人が出ていく場所だもの。さあ、引っ張り上げてくれよ。一緒に横手焼きそば食べに行こうぜ。早く太陽みたいな目玉焼きをおがみたいよお」
 男は手を伸ばすように舌をぺろりと出した。

巴田夕虚『大人買い』

 夜、県境の山道をバイクで行く途中、峠の手前の自販機で休息した。
 自販機の隣に、屋根と柱だけの小さな屋台があった。ヘッドライトで照らしてみると、農村でみかけるような無人販売所らしい。無人販売とはいえ、夜間まで売り物を放置することなどあまりなさそうなものだが、この屋台には黒い輪のようなものが並べたままにされている。
 輪は全部で六つあった。両手に乗るくらいの大きさで、素材は、どうやら毛髪のようだ。このあたりの民芸品だろうか。非常に長い黒髪を緋色の糸によってきつく結い、茅の輪くぐりの輪のような形に造作してある。一見、祭具のようにもみえる。
 黒髪は夜目にも艶々とした、非常に美しいものばかりが使用されていた。本物の人毛なのだろうか。しっとりと露に濡れているのが、なんだか妙に色っぽい。手にとって眺めたり、撫でてみたりするうち、だんだんとこの謎のオブジェに対して、あらぬ妄想が悶々と膨らんでいった。
 屋台には黒マジックのまずい手書きで「一ヶ五百円」の札が掲示してある。財布から紙幣を三枚取り出し、料金箱にねじこんだ。なんとなくあたりを憚りつつ、それらを六つともすばやく懐にしまった。
 意気揚々とバイクにまたがり、発進すると、まもなく峠にさしかかった。そこで突然、強い睡魔に襲われた。身体の自由がきかず、次のカーブで派手に転倒した。
 目を覚ますと病院だった。早朝に匿名の通報があったらしく、意識を失った状態でガードレールに引っかかっていたのを、救急隊に助けられたのだ。幸いバイクだけが谷底へ落ち、私は軽い怪我だけで済んだ。
 だがその後、いくら捜しても谷底からは愛車の残骸すら発見されない。しかも身につけていたはずの財布や、煙草や、なによりあの髪の輪もすべてなくなっていた。

料理男『樹氷に抱かれし魂』

 蔵王の代名詞である樹氷はモンスターと呼ばれる。木々が氷雪に覆い尽くされ巨大な立像と化した姿は、美を通り越して畏敬の念すら覚える。まさしく怪物に違いない。
 夜間のライトアップ目当てに毎年訪れるのだが、その年はどうにも貧相だった。線が細いというのではなく、ただ白いだけで何かが足りない。がっかりしながら歩いていると、ほどなくして、一人の老人が目にとまった。両手に雪を掬っては、ペタペタと樹氷になすり付けているのだ。いくら出来が悪くても、自然の造型に手を加えて良いはずがない。コースの仕切りを越え、「ちょっとあんた」と声を掛けた。すると老人は止めるどころか、「お前も手伝え」とこちらを見向きもせずに言うではないか。その間も体は動いている。
「手伝えって……それはまずいでしょ。あんたもさっさと」
「つべこべ言うな!このままでは、この子らが浮かばれん!」
 こちらの言葉を遮って、老人が語気を強める。気圧され躊躇う私に、老人は「ほれっ」と両手に掬った雪を放ってよこした。受け止めようと、反射的に手を伸ばす。まるで冷たくなかった。それどころか、防寒着を通してさえ温もりが感じられる。
「これは……」
「生まれることの叶わなかった赤子の魂だ。樹氷となり、多くの人間に愛でて貰うことで成仏する。分かったらさっさと手伝え」
 ここの次はそこ、そこが終わったらあちらと、言われるがままになすり付けて回る。不思議と怖くはなかった。
 やがて、朝日に輝く樹氷を満足げに眺めつつ、老人が頭を下げる。
「昨年はとにかく多かった。役目とはいえ、儂一人では正直しんどい。礼を言う」
「そんな」と照れて次に顔を上げた時には、もう老人の姿は無かった。
 平成24年1月上旬のことである。

料理男『突然変異霊』

「いいか、確かに言ったからな!」
 ほぼ一方的に喋って、友人からの電話は切れた。友人とは、山形は米沢で自称霊能力者として活動しているKだ。
 それにしても妙なことを言っていた。かけてくるなり受話器のこちらにまで唾が飛んできそうな勢いで「逃げろ!」だったから、落ち着くようなだめてから問い質すと、霊達が移動し始めたと言うではないか。それも、本来ならその場所から離れられないとされている地縛霊が。こぞって。
「ちょっと待てよ。霊なんてちょいちょいと祓えよ。それこそお前の得意分野だろ」
「バカ野郎!そんな簡単なら電話なんてするか!祓えないから電話してんだ!」
 からかっているのだろうと笑うと、高校からの長い付き合いでも記憶に無い剣幕で怒られた。これは真剣に聞かねばなるまい。「どういうことだ?」と問う私に、一旦息を整えてからKは説明を始めた。
「……こないだ依頼があったんだよ。アパートの一室だってんでいつもの調子で行ってみたら、これが全然祓えやしねえ。妙に青白くハッキリ見えてるのによ。一旦出直すことにして霊能者仲間に聞いてみたら、信じられねえかも知れねえけどな、放射能を浴びた霊なんだってよ。強く浴びた連中は一切祓えないどころか、地縛霊だろうと好き勝手動けるようになるんだと」
 そうやって動けるようになった霊達が、道すがら悪さをしつつ、あちこちへ移動し始めている。もう隣接する県にまで拡大しているから、いずれ関東もヤバイぞと、要はそういうことらしい。信じがたい話だが、北関東や南東北で残酷な事件や悲惨な事故が相次いでいるのは、その霊達の仕業なのだろうか。
 ふと外を見ると、妙に青白い人が数人、ふわふわと横切っていく。ここはマンションの7階で、小さな出窓の向こうに足場は無い。
 ひと足、遅かったかも……

料理男『みんなの願い』

 妻から「あなた、最近かわったわね」と言われるようになった。
 自慢ではないが、私は日に3箱は吸うヘビースモーカーだった。それが今は、全然吸っていない。家にあった在庫も全て処分した。ある日突然吸わなくなった私を見て、妻も娘もあんぐりと口を開けていたが、私自身が一番驚いている。
 大きな変化はまだある。何やら強く興味を引かれ、衝動買いした本格的ロードバイク。ドライブに出るたび邪魔者扱いしてきた自転車乗りに、当の私ががなっているという本末転倒さ。その反動なのだろうか、大好きだった車にはほとんど乗らなくなった。
 他にも幾つか変化はあるが、いずれも健康的なため、家族には概ね好評だ。
 こうした変化が起こることに、心当たりが無いわけではない。
 民話の故郷遠野の地に、伝承園という施設がある。中に建つ曲り家からの続きに「オシラ堂」という建物があり、千体の小さなオシラサマが四方の壁を埋め尽くしている。その一体一体は百円と引き換えに観光客が願い事をしたためた布を何十枚と羽織り、よほど鈍感でない限り、一歩足を踏み入れたら、異様な光景に圧倒されること間違いない。
 昨年観光で訪れた際、私は眩暈を覚えた。千体のオシラサマにその何十倍何百倍もの願い、いや何万倍、それ以上の欲望が凝縮している空間だと思ったら息苦しくなり、写真を撮るのも忘れて逃げ出してしまったのだ。そんな有様だから、何かを願おうなどとは思いもしなかった。
 今朝、愛する妻は、いつもの笑顔で私を送り出してくれた。可愛い娘の「パパ、いってらっしゃい!」も嬉しい。
 ただ、このところ私は、無性に妻を殺したくてならない。娘を殺したくてならない。
 この欲望を抑えて欲しいというのが、今一番の願いである。