ジャパコミ『女の槍』

 天正一九年九月、後に戦国の三大美少年と評される名古屋山三郎は当時一六歳。叛徒九戸政実征伐に参陣する主君、蒲生氏郷に随従して、奥州糠部へと下っていた。
 蒲生勢が最初に対峙した敵が姉帯城主、姉帯大学である。大学は城外に伏兵を置き、奇襲をもって寄せ手を苦しめた。それを打ち破ったのが氏郷の甥、蒲生氏綱の知略だ。弱冠一八歳の氏綱は、わずかな手勢で姉帯城に焼き討ちをかけるなど戦功目覚ましく、氏郷の信任も厚かった。護衛につけられた山三郎にとっても、誇るべき主筋の若武者であった。
 三五〇〇の寄せ手についに包囲された姉帯勢は、二二〇騎全て城外へと打って出てきた。
 驚いたことに、先鋒の騎馬武者は女であった。緋色縅の具足の上に、戦火に照り輝く黒髪をなびかせ、槍を手に駆け寄せてくる。
「姉帯大学兼興が妻なり。お手向いたす!」
 女はそう叫んだ。年は二十歳ほどか。不敵に笑う女の美貌に、山三郎は息をのんだ。
 陣頭の氏綱が真っ先に女の標的となった。護る山三郎は必死で槍をしごき、女の穂先をいなすも転倒した。突かれると覚悟した山三郎を、女は一瞥の後に捨て置き、進撃を続けた。続く姉帯勢が殺到し乱戦となる中、女は軽やかに戦場を跳び回り、蒲生勢を翻弄した。誰一人、女を止められなかった。城が落ち、夫大学が自刃した後、女は行方をくらませた。
 それから数日もせず、氏綱が熱病に冒され、気を違えて死んだ。敵の本拠、九戸城を目前にしての事だった。
 山三郎は四年後、主君氏郷の死をもって蒲生家を辞した。傾奇者として名を売りつつ、愛人の踊り子に男装をさせ新しい踊りを考案したりしたが、やがて仕官した森家にて刃傷沙汰を起こし、返り討ちに遭って死んだ。享年二九歳であった。
 女はほどなく自害し、槍一筋を遺して祟り神となったという。その名は「小滝の前」、あるいは「小滝の舞」と、伝えられている。