イチジクの葉のトイレットペーパー


 アフガンの六月の朝のこと。ペシャワール会の山口敦史が当時のささやかな体験を書いている。ダラエヌールの試験農場へ行く途中、山口は便意を催した。ところがトイレットペーパーを持ち合わせていない。アフガンの友人は木の葉を使えという。
 「切迫感が募ってきた。やむをえず現地人の言に従うほかはないと考え、すぐに木々にぶら下がっている葉の選定に入った。真夏の光が射し込む六月の昼下がり、水路の水の豊富なところには青々と木々が茂っている。柳、桑など日陰用の木と共に、イチジク、アンズ、リンゴの野生種など、、子どもたちに癒やしとビタミンを与えてくれる果樹が植えられていた。アフガン東部に多いイチジクは、五月ごろから熟し始め小さな実をつける。味はものすごく甘く、いくばくかの酸味とあいまって子どもから大人まで親しまれている。もちろんぼくも大好きだ。
 彼らと話したことがある。『これはアツイ‥‥、これはツメタイ、一緒に食べるとよい』。それはおそらく食物の陰と陽を考慮している研ぎ澄まされた感覚なのだと思う。穀類を多く、わずかだが肉類を摂る彼らの食生活のなかで、肉体を維持するために無機成分やビタミンを多く含むイチジクをはじめとする果樹は欠かせない存在になっている。そして、これらの果樹は陰ということになるのだと思う。そのために、この時期になると子どもたちはいつもより早く起き、イチジクによじ登り、われ先にと赤く熟したイチジクをもぎとる。そして朝の食卓にしばしばナン(平焼きパン)とチャイ(お茶)と一緒に出てくる。
 一本の木に、子どもたちが大勢よじ登っているのも見かけられ、木が折れないかと心配になる。時には立派なひげをはやした大人までもが登って、目を輝かせてイチジクをとっている。日本に帰ったとき、よく『どうしてアフガンの子どもたちの眼は輝いているのでしょうか?日本の子どもたちにないものを持っているようですが?』と、質問される。その時は、『アフガンには物がない分、人の心が豊かであること、自然が多いこと‥‥』と説明しているが、思い当たることがあるのは、大人までも目を輝かせて木に登ることもその一つの理由になるではないかと思う。
 なるべく新鮮で大きな葉を5枚ほど手に持って、黄金色に染まった小麦畑に走りこんだ。そこには、すでに幾人もの人がマークを残していた。少しぐらいは土をかぶせればいいのにと思ったが、少しも嫌な気がしなかった。ここの暑さと乾燥のためにすでに干からびてしまっており、気分を害する臭気も発していないし、ハエもたかっていなかったりする。葉の裏には、こそばがゆい毛が密生していたが、いたって心地よく使えた。繊維が発達しているので破れる心配もなかった。
 こうして下腹部の張りから解放されることができた。生まれてこの方20数年、大‥‥の後始末は、紙で拭くものだと誰にも教わったことでもないが知っていた。しかし、アフガンに来て、ふとあるとき、水差しと手でキレイにふき取ることができ、今こうしてイチジクの葉っぱの心地よさを味わうことができた。一つ一つの既成概念から脱却することができ、また一つ自由になっていくことができてうれしかった。
 よく考えてみると単純なことなんだと思う。大‥‥を終わった後、キレイにしなければならないのは誰でも持っている共通の感覚である。しかし、この命題をクリアするために、紙で始末しなければならないという教えはどこにもない。紙による方法一つしかないと思い込んでいた僕が、自分自身を生き難くしていたのだと思う。このように、ささやかなひと時を通して、20余年の間に培われたものから少しずつ自由になっていった。」 (「アフガン農業支援奮闘記」高橋修編著 石風社

 ぼくが小学生だったとき、学校からの帰り道、ウンチがしたくなった。ぼくは畑の中を通る裏道を選び、途中で大豆の葉を数枚ちぎった。それを持って畑の中にしゃがんで用をたした。田舎の生活では、必要なものがないときはどうするという、方法を考え選ぶ思考生活があり、応用問題は常にあった。選択肢を一つしか持たない生活ではその一つがなくなれば、たちまち頭脳が行き詰まる。かつての石油危機のとき、われさきに買われたのはトイレットペーパーだった。
 ものが足りなければ足りないなりに、工夫する自由が活発になる。そして充たされる喜びが大きい。
 山口君は、20代の青年だった。人生経験、農業経験も未熟なままに、アフガンに行って、NGOの活動に参加したのだった。

 「アフガン農業支援奮闘記」(高橋修編著 石風社)は、400ページに及ぶ詳細な記録である。2010年に出版されたNGOペシャワール会の記録だ。
 医師の中村哲はアフガン医療支援に入り、1991年に診療所を立ち上げ、ペシャワール会をつくった。活動を続けるうちに、医療だけでは命を救うことができない酷薄な生活現実が住民に重くのしかかっていることを知る。それを放置していては、住民の健康は守れない。子どもたちは泥水を飲んでいる。食べるものがない。
 大干ばつがあった。戦争があった。砂漠化が進んだ。水を!食料を!住民を守る闘いは医療から農業支援へと広がった。
 ペシャワール会は二百数十箇所に井戸を掘り、三十以上のカレーズ(地下水路)を回復させた。しかし、干ばつは進み、地下水が涸れ始めた。2002年、「緑の大地計画」を開始。川の水を誘導する用水路工事を始めた。それは3500ヘクタールの乾いた大地を潤す事業だった。少しずつ大地に緑が戻り、難民が戻り始めた。しかし、気象の変化は川の水不足をもたらした。2005年、農地はことごとく荒廃した。欧米軍によるアフガン戦争は拡大していた。治安は悪化した。それでもペシャワール会の十数人の日本人スタッフと現地のアフガン人による用水路工事は、一時も休まなかった。2008年、用水路は17.5キロメートルに及んだ。農場がひろがり、村が生まれた。
 そのとき悲劇が起こった。伊藤和也さんが拉致され殺害されたのだった。計画は中断し、日本人スタッフは中村哲を残して日本に引き上げた。山口君も帰国した。現地アフガン人に託された志、その後はどうなっているのだろう。