一つの方向へ

 1944年、昭和19年、ぼくは国民学校1年生だった。
 図画工作の時間、ぼくの隣に座っている男の子は、飛行機の絵を描いていた。担任の小西先生は、机の間を回って、みんなの描いている絵を見ていたが、隣の男の子のところに来て足を止め、その絵を見た。
 「加藤はやぶさ戦闘隊かあ。上手にかけたなあ」
 画用紙には飛行機が二機、クレヨンで色を塗ってある。先生は感心して絵をほめた。そのときの光景は深く印象に残り、クラスのなかで男の子はちょっと「英雄的」に見られるようになった。それは記憶の中にはっきりと残っている。
 「加藤はやぶさ戦闘隊」は、1年生でも知っていた。「加藤隼戦闘隊」は、太平洋戦争初期に加藤建夫陸軍中佐のひきいる飛行戦隊で、戦果をあげた。「加藤隼戦闘隊」は軍歌にもなった。小学1年生も、その歌を歌った。歌の1 番は今も歌うことができる。

   エンジンの音 ごうごうと
   はやぶさは行く 雲の上
   翼にかがやく 日の丸と
   胸に描きし 赤鷲の
   印はわれらが 戦闘機
   ‥‥

 軍歌はいくつも覚えた。学校で軍歌を覚えたというよりも、ラジオで覚えたのではないかと思う。世間には軍歌が浸透していた。
 社会が軍国主義一色になると、幼児も小学生も、それに染まっていった。戦果をあげ、武勲をあげた「英雄」が称えられ、ラジオの放送も新聞報道も、戦争遂行一色になっていく。子どもたちは簡単に「英雄礼賛」の気分になって高揚した。
 我が家の隣組は川に隣接していたが、その川沿いに植民地朝鮮からやってきた人びとが住んでいた。暮らしは貧しかった。女の人は民族衣装をきていて、靴も民族靴だった。言葉も違った。ぼくは、この人たちは日本人ではない、異なる人々だと、いささか低いものを見るような気持ちを持った。誰かから教えられた覚えはない。世間と生活の実態を見て起こってきた感情だった。
 ある冬の朝、薪で沸かす風呂の焚口にネコが死んでいた。前夜、焚口に燃え残りの暖かい熱があったから、夜中に、焚口へ入って中毒して死んでしまったようだった。母は、
 「キンさんを呼んで来て」
と言った。ぼくはキンさんという少年を呼んでくると、母は、
 「ネコ、捨ててきて」
と頼んだ。キンさんはネコをもってどこかへ行った。
 この出来事が、ぼくの意識の中に残った。戦争の「英雄」を称える一方で、差別意識の芽が生まれていた。
 やがてぼくの家族は2年のとき田舎の祖父母の家に移住し、日本は敗戦を迎えた。戦地へ行った叔父は戦死した。韓国、朝鮮は分裂して独立した。
 田舎の小学校に転校していたぼくは、小学校4年生のとき、担任の先生から大きな影響を受けた。師範学校を出てきた若い教師、松村先生だった。そしてもう一人ぼくの意識に変化をもたらした子がいた。韓国人の徐君だった。学芸会のとき、学年劇で野口英世の少年時代を演じたその主役が徐君だった。囲炉裏で火傷を負い、手に障害を受けた英世は「てんぼう、てんぼう」と村の子どもらからいじめられる。徐君はその役を演じながら本当に泣いていた。泣きながら悔しさを訴えた。腕力もあり運動能力も高かったが、快活で活動的な徐君は、子どもたちの世界で、「英雄」になった。松村先生の果たした力だと子どもらは思った。
 ぼくらの学年からは、在日コリアンへの差別意識が消滅していった。


   命捨てて国に報ゆる者誰ぞと
   言ひ終へざるに皆立てり児等は
               佐久原直樹

 この短歌は、戦争中の学校の先生がつくった。「命を捨てて国に報いようと思う者は誰かいるか」と生徒に聞こうとしたら、言葉を言い終わっていないのに、子ども等は全員が起立した。全員が国のために命を捨てるという。そういう子どもらが生まれていた。
 戦争遂行という一つの方向に、世間も学校も突き進んで行く、集団の思想統制と操作がもたらす結果であった。