日本の景観美を想う


 最近見た映像だが、木曽路馬篭から妻籠まで歩いて旅籠(はたご)に泊った外国人たちが、その美を「こここそが歴史的日本の美であり、日本一だ」とほめ讃えていた。ぼくが初めて妻籠を訪れたのは、人の気の絶えた1970年一月末だった。志賀高原に行き、帰りの道中、スキー道具を駅に預けてぶらりと寄って、飛び込んだ宿が「藤乙」という屋号だった。他に客のない宿の夜、老いた女将は、囲炉裏の傍で、新婚のぼくらを温かく迎え、宿近くに墓地のある島崎藤村の詩「初恋」に詠われたおゆうさまの話や、小説「夜明け前」の話をしてくれた。翌日、峠を越えて馬篭宿で泊った。宿は、藤村の四男、楠雄さんの経営する「四方木屋」だった。
 それから子どもが生まれ、毎年家族で妻籠を訪れるようになった。民宿「大高取」は妻籠の集落から離れていたが、あららぎ川のほとりにある歴史的な古民家で、そこが30年に及ぶぼくらの妻籠の郷になった。一家は、牛を飼っていた。御主人は妻籠宿を伝統的建造物群、歴史的遺産として保存する運動の担い手でもあった。復元活動は、街道筋の電柱を撤去し、看板類を全部とり払い、建物をできるかぎり江戸時代の様式に復元して、すっきりとした屋並みの、江戸時代を彷彿させる景観に戻した。中山道の宿場妻籠は、山間の谷間にあり、わずかな農地しかなかった。この宿場を維持して未来を描くにも困難な経済状況だったが、完璧な復元という村おこしは、人を呼んだ。時代祭や盆踊りが行われ、時代祭の日には、村人たちは刀を差し、江戸時代の人びとに扮装した。宿のおばあちゃんは、囲炉裏で五平餅を焼いてくれた。幼い子どもらは、長火ばしをもって、ほだ木を燃やした。

 妻籠に続いて次々と木曽路中山道宿場の伝統的建造物群が、復元されるようになった。薮原宿、奈良井宿、観光客が木曽路にやってきた。しかし、江戸時代、大名行列も盛んだった街道はほとんど昔の姿を消していた。木曽路の宿場は点でしかない。地域を面として、江戸時代の中山道として復元されていない。宿場と宿場をつなぐ、歩く人のための街道が復元されていない。
 写真家の石川文洋氏が木曽路を歩いて痛感した。「歩く道がない」。それは、実際にぼくも体験したことであった。薮原と奈良井の間だったか、ひとりの外国の若者が、ザックを背にしてテクテク歩いていた。車が疾駆する国道19号線だった。19号線には歩道はない。排気ガスを吸いながら、身の危険を感じて歩いている彼に、「こっちの脇道を歩いてくださいよ」、と声をかけたかったが、こっちの脇道も次の宿場に通じているのかどうかも分からない。結局声をかけられずじまいだった。
 「歩く人のための街道」をつくる、美濃路から出発して、宿場をつなぎ、馬篭妻籠、須原、上松、福島、宮ノ越、薮原、奈良井、贄川、本山、洗馬、そして松本平を通過し、安曇野、大町、白馬、小谷、さらに糸魚川へと、「中山道」を「塩の道」につなぐ長大な歩く人のための街道。そのような壮大な街道計画がなぜ生まれてこないのか。日本人は歩く文化を喪失したのか。つくづくそう思った。経済発展至上主義にとらえられて、やせ細った発想しか浮かばないのだろう。


 日本はいまだ人間復興として自然と文化の調和した環境文化が面として生み出されていない。日本では街並みが「醜い」といわれる。「醜い」と感じられるのは、街並みだけではなく人工の建設物群全体に言えるのだが、それが多くの人たちに「醜い」とは感じられていない。人間の感覚の問題だろうか。だから面的な調和の整った環境が生まれない。
 妻籠という小さな宿場づくりで取り組まれたことは、電柱をどうする、看板・のぼりはどうする、自動販売機はどうする、郵便局の店構えやポストはどうする、休憩所・オアシスはどうする、建造物と自然との調和はどうする、これらを具体的に解決するように、宿場全体を「面的」にとらえ、実践に移されたのだった。


 ドイツの景観は、面として保護されている。全国に多種多様な街道を通し、街、樹木、森・草地を保護・復元し、たくさんの種類の生物が住める環境を生みだしている。
 1986年に改正されたドイツ連邦自然保護法はこう規定する。
 第1章・第1条。
 「自然と景観は、その固有の価値に基づいて、人の生活基盤として、また将来の世代に対する責任において、人の住んでいない地域と同様に人の住んでいる地域においても、自然と景観の多様さ、特色、美しさと観光的価値が長く保証されるように、保護され、保存され、開発され、必要のある場合は復元されなければならない。」
 第1章・第4条。
 「各人は自然保護及び景観保存の目的と原則を実現するために自らの可能性に基づいて寄与しなければならず、自然と景観が不可避的な状況によって損われる以上には損なわれないように行動しなければならない。」

 ドイツの環境政策の三原則。
 1、「予防原則環境負荷は基本的に減少させなければならない。国は、自然に対するリスクを認識した場合は介入する義務を負う。国の指示と禁令は環境負荷を最小限に制限するものでなければならない。
 2、「自己責任原則:産業は自己のもたらす環境負荷の費用を負担しなければならない。産業はできるだけエコロジー的に、またそれによって長期に渡って低コストで生産することを推進しなければならない。
 3、「協力原則:国は、法律と罰則によってではなく自発的な基盤に基づいて産業と協力し合わなければならない。」

 ドイツ連邦建設法典は、建築物と周辺との調和を規定した。ビオトープの概念は、1986年の自然保護法において、初めて使用されている。
ドイツ連邦自然保護法の2009年改正法では、さらに生物多様性が重視され、種及びビオトープの保護に関する規定が拡充された。景観計画では、自然・景観保護の目的を具体化し、それを実現する手段としての景観計画の策定を決めている。

 かくしてドイツでは、「Land」 をより美しくするという考えが全的に実践されている。川があれば、川が美の要素になる。村があれば、村のたたずまいが美の要素となる。教会の塔があれば、塔は景観を引き立てる。道はなつかしい心の風景をかきたてる。

 ぼくは空想する。日本の江戸時代の景観はどんなだったろうと。すべて徒歩で旅した江戸時代。桜の季節、新緑の季節、紅葉の錦の季節、木枯らし吹く季節、雪の季節、街道をゆく人たちの見た風景を想像する。そしてまた西行等が旅した平安時代はどうだったろうと。どちらの時代も長い年月にわたって戦争がなく、平和がつづいた。ニホンオオカミエゾオオカミも日本の生態系に役立っていた。
 貧富の差、身分の差はあったけれども、それでもそのなかで、美はどのように人の心に根ざして、人間を育んでいただろうかと想像する。日本の芸術文化はその風土の中から生まれた。