一冊の書



 随筆家、故串田孫一は、カロッサの詩集を携えて旅に出たことを書いている。詩集は旅の悦びを深めてくれる。関東大震災で家は丸焼け、それから22年後、東京大空襲でまた焼け出され、蔵書も焼けた。
 戦後、戦災で失った本を、再びぽつぽつと手に入れ、真の悦びに出会いたい、魂が燃えるようなものに巡り合いたい、とドイツの作家カロッサを読み始めた。

 星々は、永久にわれわれの
 歓びをも嘆きをも聴き取りはしないが、
 しかし星々の光は
 われらがそれを耐えうる程の和やかな調子を保っている。

 こういう詩句に出会い、独りになって、旅に出た。

 ぼくが初めて北アルプスに登ったのは高校三年生の時だった。担任の野村先生は関西登高会のメンバーで、冬の前穂高の岩壁に挑むようなクライマーだった。野村先生は三年の夏休み前に、「吉田、勉強なんかするな、山に来い」と言って、登山部の南口と、もう一人の生徒に声をかけ、剣岳に連れて行った。地獄谷で嵐に遭遇し、テントが吹き飛ばされるかと思えるような中で、みんなで支柱を手で支えながら野村先生の話を聞いた。哲学と文学談だった。
 それからぼくの山登りが始まった。大学に入って山岳部に入った。山へ行くときは、必ず一冊の詩集を雨に濡れないように包んでキスリングザックの中に入れた。
 戦没学徒の「きけ、わたつみの声」や、大岡昇平野間宏などの戦争文学を読むと、戦場へ出ていく兵士のなかにも一冊の本を携えていく者がいた。詩集や歌集、哲学書万葉集をもっていった若い学徒たちがいた。彼らは生きて帰らなかった。
 ベトナム戦争の戦場をつぶさに記録した本多勝一の報道のなかに、北ベトナム兵士の中にも背嚢のなかに詩集を入れて戦死していた者がいたことを伝えていた。
 大岡昇平「俘虜記」に、次のような文章がある。

 「私はすでに日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦に引きづり込んだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼らを阻止すべく何事も賭さなかった以上、彼らによって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に置くこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無意味な死に駆りだされていく自己の愚劣をわらわないためにも、そう考える必要があったのである。しかし、奴隷のように死に向かって積み出されていく自分のみじめさが腹にこたえた。」