手塚治虫「アドルフに告ぐ」

 

 手塚治虫に、「アドルフに告ぐ」という、四巻に及ぶ大作がある。漫画による小説である。戦後40年の、1985年の出版だった。「アドルフ」と聞けばアドルフ・ヒトラーを思うが、この作品では、ヒトラーを含め3人のアドルフが登場する。

 作品の第四巻、ナチス・ドイツは敗北し、ヒトラーは自殺。ドイツからユダヤ人難民は自分たちの祖国をパレスチナに建設しようと海を渡り、1948年5月14日、イスラエルを建国した。だがパレスチナにはアラブ人が住んでいた。アラブ人はイスラエル建国を認めることができない。アラブの軍隊は、侵略者イスラエルを攻撃した。こうして長い長い戦いの火ぶたが切って落とされた。

 第二次世界大戦後、亡国の民ユダヤ人は、やっと祖国をパレスチナにつくった。しかしアラブ人は侵略者ユダヤ人を追い出すために。それぞれ正義を振りかざした。

 ヒトラーの忠実な兵士だったアドルフ・カウフマンは、敗戦ドイツを去って、パレスチナにやってきて、パレスチナ解放戦線の組織に入った。そこでカウフマンに投げかけられたアラブ兵の言葉。

 「皮肉なもんだなあ、ナチの残虐に追われたユダヤ人が、今じゃナチス以上に残虐を繰り返し、君のようにナチスの一員だったものがパレスチナ解放のために、我々とともに戦ってくれるなんて。」

 カウフマンが、ドイツでのユダヤ人殺害を回想するシーンがある。

 ヒトラーユーゲントの幹部学校の生徒は森へ連れていかれた。そこにはユダヤ人がずらりと並ばされていた。生徒一人一人に銃が渡され、ユダヤ人を射殺するように命じられた。アドルフ・カウフマンは、イザークカミルというユダヤ人を殺した。

 アドルフ・カウフマンは、パレスチナの軍の兵士となったが、ドイツでの体験の記憶から解放されることがなかった。

 「オレは何千人のユダヤ人を殺したかなあ。あの恐ろしさは忘れられん。アラブ人が何をしようと、ユダヤ人がどうしようと、オレには関係のないことだが、子どもに殺しを教えることだけはごめんだ。世界中の子どもが、正義だと言って、殺しを教えられたら、いつか世界中の人間は全滅するだろうな。」

 アラブとイスラエルの戦闘シーンが描かれる。ユダヤ兵は笑いながら、一人一人女を撃ち殺していった。

 互いの復讐戦が繰り返される。そしてアドルフ・カウフマンの妻も子もイスラエル兵に殺される。アドルフ・カウフマンは恨みをはらすために、単独でイスラエル軍に立ち向かい、それを引き留めようとしたアラブ軍に反抗してアラブ兵を殺害してしまう。

 彼はつぶやく。

「オレの人生はいったい何だったのか。あちこちの国で正義というやつに付き合って、何もかも失ってしまった。肉親も、友情も、おれ自身も。おれは愚かな人間だ。愚かな人間がゴマンといる。だから国は、正義を振りかざせるんだろうな。」

 その時、一人のユダヤ兵が荒野に現れ、アドルフに叫んだ。

 「アドルフ・カウフマン! 答えろ。30年前、お前は、オレの父を殺したのか!」

 二人は対決して撃ちあう。殺されたのはカウフマンだった。

 

  1983年、手塚治虫は、日本軍国主義侵略戦争、国民への弾圧も作品におりこみ、るいるいと広がる人類の墓場を描いて、この物語を閉じた。やがて人類はこうなると。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続「それでもパレスチナに木を植える」

 

 

    16年前から、高橋美香さんは現地の人々と暮らしながら、パレスチナの現実、人々の怒り、悲しみ、絶望を目の当たりにし、必死に生きる彼らの様子を詳しくつづって日本に伝えてきた。

    今のイスラエルによるガザ攻撃、高橋さんは今どんな思いで、どこで何をしておられるのだろう。第二次世界大戦が終わって、イスラエルが建国されてから70数年、この地に平和はまったく訪れることがない。

    高橋さんは、「それでもパレスチナに木を植える」で、当時のパレスチナの庶民とともに生活して、実態を日本に伝えた。そのなかから一部抜粋してここに載せる。

 

 

    「私はパレスチナに関わり続け、パレスチナの人々の姿を伝え続けたい。

 ガザでは多くの人が殺され、当たり前の日常を送ることさえできない。『イスラエルに忠誠を誓わないアラブ系住民は斬首の刑に処す』と発言する政治家が、イスラエルの大臣をつとめている。ハマスの戦闘員とみなされた者の家は家族ごと焼き払われた。この地で暮らさなければ絶対に分からないこと、それは、テロリストとされ、射殺されていく武装組織の戦闘員たちも、誰かの大切な息子であり夫であり、お兄ちゃんなのだ。

    

 友人、ガザのホサームは生きているだろうか。封鎖されたガザ。このまま奪われ続けるなら戦って死んだほうがましだと、ジュジュが言った。葛藤しながら、我慢に我慢をして生きている人、そうして戦って死んでいく人。苦しみ、もがき、闘って死ぬ。

 希望とは何だろう。

 

 『がれきを片付けて、オリーブの木を植えよう』

と私が言うと、カマール兄弟はあきれかえりながら私を見つめた。私は、気乗りしない彼らを車に乗せて苗屋に行き、『オリーブの木を買うよ』と言うと、カマールは大きなため息をついて、『ミカにはかなわない』と笑って、『じゃあ、レモンの木も欲しいよ』と言った。私は心のなかで、かっさいをあげた。

 みんなでがれきを片付けていると、近所の人たちが駆けつけてきた。

 『鶏小屋をつくりたい』

 『ウサギも鶏も飼おうよ』

 次々と希望が出てきて、私は日本の皆さんから託されて持ってきていたお金の話をした。

 『日本の多くの人たちが、パレスチナの人たちの希望につながる何かのためにお金を託してくれているの。そのお金をここで使わせてもらおう。』

 そう言うと、カマール兄弟の眼に涙が浮かんだ。

 たくさんの人が駆けつけてくれて、力を出してくれた。わずかでも先のことに目が向けられますように、絶望にとらわれるより、先のことを見つめようとする時間が増えますように、願いをこめて、瓦礫をとりのぞいた。満面の笑顔を返ってきた。

 デモに参加し続けるのは村人だけではない。イスラエルからも、自国の占領政策に異を唱えるため、毎週欠かさずにデモにやってくる人たちがいる。そんな人と、『今度ゆっくりどこかでお茶でもしよう』と約束する。ムスタファはオリーブ畑で収穫作業を手伝っている。

 この日、催涙弾、実弾が撃ち込まれた。

 

 パレスチナに通い、人々の声に耳を傾け、記録し続けることが何になるかは、私には分からない。それでもいつか、封鎖や占領がなくなり、パレスチナの人々が誰からも権利を阻害されることなく自由に生きられること、難民となった人々に、しかるべき補償がなされること、その上で和平が実現することを信じて、自分が受け継いだバトンを次の世代につないでいきたい。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでもパレスチナに木を植える

 

   「それでもパレスチナに木を植える」というタイトルの本を読んだ。筆者、高橋美香さんは写真家。

    彼女は2009年からたびたび単身、パレスチナを訪れ、住民とともに暮らした。彼女は、イスラエル侵攻によるパレスチナ市民の苦難を日々目撃した。エルサレムも、パレスチナとの間に巨大な分離壁イスラエルによって造られていた。

    この巨大な分離壁、私も見て知っている。

    それは1965年夏、私は、山仲間とシルクロード探検隊をつくり、ヨーロッパからインドまでの熱砂の旅をした。その途中でエルサレムを訪れた。

    イエスが十字架にかけられる前日、エルサレムの東、ゲッセマネの園でイエスは血の汗をたらしながら神に祈ったという。そこから西にケデロンの谷を隔ててエルサレムの街がある。イエスは、重い十字架を背負って、何度も倒れながら嘆きの坂を登り、ゴルゴダの丘で磔(はりつけ)にされた。

    エルサレムは石づくりの町、暑い太陽に照らされて、石の家々は静まり返っている。私は単独行動をとった。嘆きの坂からそれて、街中のゆるい坂道を登っていくと、突如、ヨルダンとイスラエルとの間に築かれた分離壁にぶつかった。壁は街を分断するように長々と続いている。周囲には人っ子一人いない静寂の世界。コンクリート製の分離壁は、数メートルの高さがあり、左右に延々と続いている。この分離壁の向こうはイスラエルの占領地域で、毎日、時々銃弾が飛んでくるから気をつけるようにと聞いていた。私は分離壁の向こうはどうなっているのか見たかったが、よじのぼれそうにない。分離壁沿いに南へ歩いて行った。すると一箇所、壁に梯子が立てかけてあるのが目に付いた。梯子は私を誘惑した。この分離壁の向こう、どうなっているのか、銃の音は聞こえないし、人はいないし、よし、こっそりとのぞいてみよう。

    私は梯子を上った。壁の上から頭を出すとき、恐る恐るほんの少しずつ頭を上に上げて、眼が壁を越したところでストップした。見ると、おう、なんと壁のむこうは、無人の石の家々がひしめき、陽の光の下に静まり返っているではないか。人間も家畜も、生き物の姿は何もない無人地帯、壁が築かれる前、イスラエルが占領地域を広げる前までは、そこには多くの人々が住んでいたのだ。死の街を見るかのようだった。エルサレムは傾斜地だから、私の眼は坂の上の方まで見渡すことができた。分離壁エルサレムの街を分断し、壁の上部は死の街、壁の下だけが人の住む地帯になっていたのだ。

その時、下から声がした。壁の上から見下ろすと、一人のヨルダン軍兵士が立っていて、「降りろ」と手で指示をした。梯子を下りると、彼は付いてくるように指示し、私は彼に従って、兵士の詰め所に行った。数人のヨルダン軍兵士がいた。やばいことになった、私はパスポートを見せ、旅の説明をたよりない英語で話した。日本人だと分かると、彼らは注意らしきことを言って、笑顔で釈放してくれた。

    その体験から二年後、第三次中東戦争が勃発した。 

 

 その後、イスラエルは領土を広げ、分離壁は次々と拡張移動している。

 私の体験から44年後に高橋美香さんはパレスチナを訪れるようになった。それは延々と続いている悲劇の体験だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

イスラエルという国と軍隊

 

 

    今朝の朝日新聞に、次のような記事が出ていた。記事には、「イスラエル軍とは」のタイトルがついていた。

    今、ガザでの死者が、三万三千人以上に上るなか、攻撃を続けるイスラエル軍は、自らを「倫理的」だと強調している。この論理がイスラエル社会で受け入れられるのはなぜなのか。元イスラエル兵士、カーメルさんの説。

    2015年、ヨルダン川西岸での任務に就いていた。パレスチナの子どもたちが、こちらを見つめていた。こわがっているのだなと思ったカーメルさんは、子どもたちを安心させようと、ほほえみかけた。だが子どもたちの瞳の奥には、恐怖と敵意があった。カーメルさんは思う。

    「イスラエル軍パレスチナ人に日々行っていることは、互いへの敵意を増幅させることにしかならない。敵意は復讐を呼び、その連鎖は終わらない。」

    カーメルさんは軍を退役すると、「沈黙を破る」という市民団体に加わり、退役した兵士たちの証言を記録する活動を行った。そこで見えてきたのは、イスラエルが安全であるために、常に威嚇するという行為だった。それが今の苛烈なガザへの攻撃となっている。それでもイスラエル軍は、民間人被害を最小限に抑え、倫理を重んじていると強調する。しかし、今のガザ攻撃での民間人の死者数は、住民の6割に及ぶ。

    イスラエルでは、学校の授業でホロコーストユダヤ人大虐殺)の史跡を見学し、その後で徴兵される。そうして再びこのようなことが起きないように、自分たちを守るのは自分たちが強い存在になることだという意識を強く持たせる。

    今回の発端となったハマスによるイスラエルへの攻撃は、ホロコーストと重ねられた。再びホロコーストが繰り返されるという衝撃が、イスラエルの軍事行動の激化を招いた。

    イスラエル大学のレビー教授の言が書かれている。

    「パレスチナを占領するイスラエル軍は、常に非道徳的だと批判されるリスクと隣り合わせだ。だからこそ、自分たちには高い倫理があると言い続けなければならない。」

 

 この記事、もうひとつ踏み込みえていない。

   「自分たちには偉大な聖書的。旧約的由来がある」として、シオニズムを信奉するユダヤ人は、1948年、パレスチナイスラエル国家を樹立した。その地を無人の地であったかのように。

 それによって、そこに居住していたアラブ人(パレスチナ人)は、移住か、イスラエルの二級市民としての生存か、どちらかを選ばなければならなかった。イスラエル国家は、パレスチナ人の特性や特殊な関係性を事実上葬ってしまった。それがシオニズムユダヤ人の民族国家をパレスチナに創ることを目指した運動)の結末だった。

    かつてテレビで見た心に残る映像がある。

 ドイツの敗戦後、建国したイスラエルを目指すたくさんのユダヤ人たちがいた。彼らは祖国の建設に夢を抱いていた。ところがパレスチナに入って、しばらく暮らすうちに、イスラエルの国づくりの現実に疑問を抱くようになった人々もいた。婦人たちは、アラブの中への国づくりが、先住民を追い出し、差別し、迫害を伴うものであることを知ったのだった。悩み葛藤した彼女たちは、イスラエルを去ることを決意し、再びドイツへ帰っていた。そういう映像だった。その映像を観たとき、なぜまた、自分たちを迫害したドイツに戻るのか、その時は疑問だったが、今はその婦人たちの気持ちが分かる。

    建国のときから、どのような国づくりをするのか、倫理性も含めて、問われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦争を終わらせる人

 

 

    今朝の朝日新聞に、「イスラエルパレスチナ 市民の声  ガザ戦闘半年」という記事が載っていた。その記事は、パレスチナイスラエルの二人の女性の声だった。

    記事を要約する。

 

 

◆スヘイル・フレイテフさん、47歳。パレスチナ自治区ヨルダン川西岸に住む女性。

 

   「昨年10月、イスラム組織ハマスイスラエルを攻撃した直後、イスラエル入植者から車に投げ込まれたビラには、

    『ヨルダンに出て行け、さもないと力で追い返す』

とありました。その後、イスラエルが軍事侵攻してきて、多大な苦痛をもたらしています。民主主義と自由主義の社会の中に潜んでいた何かが、怪物になっていく姿を見ています。

    パレスチナ人はそんなイスラエルにもろさを見て取り、永遠の存在ではないと思い始めています。イスラエルは『張り子の虎』で、私たちはイスラエルに、自分たちが長年受け続けてきた痛みを味わわせることができるのではないかと感じています。若い人はより過激な考えをもつようになっています。20歳になる娘は、抵抗こそがパレスチナを解放する道だと主張し、イスラエルの存在さえ否定します。ハマスが攻撃に踏み切ったのも、イスラエルによるガザ包囲と、そこで生きる人々の厳しい生活があったからです。たまった圧力が爆発してしまったのです。

    我々が問われるのは、殺戮を支持するか、対話による和平いたる妥協点を探るか、どちらをとるかです。私はハマスのやり方を支持しません。私には何百人ものイスラエルの平和活動家の友人がいます。和平について対話できるイスラエル人はいますし、こんな状況でも解決に向けた共通の基盤を見つけようと努力を続けています。」

 

    ◆ロビ・ダメリンさん、80歳。イスラエル・テルアビブに住む女性。

 

    「イスラエル軍の将校だった息子が、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸の検問所で、パレスチナ人の狙撃手に殺されたのは2002年のことです。軍が息子の死を伝えに来た時、私はとっさに、『私の子どもの名のもとに、誰も殺さないで』と言ったそうです。子どもを失ったときの感情を説明するのは難しいです。

    その後、イスラエルパレスチナの紛争で肉親を失った人たちでつくる団体の会合に招かれました。そこで私は、パレスチナの母親の眼を見て、わかったのです。涙の色は同じです。私たちは痛みを共有しているのです。

    そして、和解と非暴力という考え方を共有するパレスチナ人と、同じ舞台に立つことで、ひとつのモデルを示せるのではないか思いました。

    親の集いに参加するパレスチナ人の母親のなかには、イスラエル人を怒鳴りつけ、子どもがいかにひどい状況で死んだかを伝える人もいます。亡くなった息子の写真を首から下げたパレスチナ人の女性がいました。彼女は私がイスラエル人だと気づいて、すぐに立ち去ろうとしました。私は追いかけて、

    『何があったのか、話してください』

と頼みました。彼女は私に背を向けたまま、亡くなった息子の名前や年齢、学校のことなどを話してくれました。そこで私は亡くなった私の息子の写真を見せると、彼女はつぶやいたのです。

    『かわいそうに』

 同じ痛みを抱えている者同士なんだと、認識したのです。

 今、イスラエルパレスチナの双方に、恐ろしいほどの怒りと復讐心が生まれています。

 暴力の連鎖を止めるのは、お互いを知ることだと思います。」

 

 

    この記事に引き付けられた。そして思う。国の半分は女性が担っている。終わりなき戦争を終わらせるのは、母親かもしれないと。

 ふと連想したのは、かつての国連難民高等弁務官だった緒方貞子さんだった。

 難民の群れの中に入り込んで、救援に身を投じた。「この人には敵がいない。彼女の中にあるのは、鋼のような意志だ。確信だ。避難民を救うために、国連本部の言いなりにならずに、自分の意志で指揮を執った。」

 身長は150センチ、小柄な体に防弾チョッキを身に付けて、カンボジアミャンマー、イラン、サラエボボスニアソマリアルワンダ、ユーゴ―スラビア、チモール、アフガニスタンなどの紛争地帯に入り込んで、難民救済の指揮をとった。緒方貞子さんは、ユネスコ平和賞を受賞した。

 彼女の果たした功績は大きい。男が主体になって戦争を引き起こし、その犠牲になる女性が、貴重な役割を果たしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春よ、春

 

 

  「庭で、聴きなれない鳥の声がする」と洋子 が言う。ガラス戸を開けて出て見ると、もう聞こえなかった。耳を澄ますとOさんの庭で、それらしい鳴き声が小さく聴こえた。

  「クロウタドリや」

   半分冗談でそう言ったが、ひょっとしたらそうかも、と思いながら、掃き出し窓を閉めた。

    クロウタドリの声を初めて聴いたのは十数年前、チロルの山村だった。村の教会の尖塔に止まって、村中に響き渡る声で歌っていた。地面に降りて歩いている姿を見たのは、ウイーンの公園だった。ヨーロッパの初夏はあちこちでクロウタドリの声を聴く。遠くまで聞こえる長いさえずりは歌うようだからクロウタドリ

    クロウタドリは中国にもやってきて啼くし、日本でまれに冬鳥としてやってきて啼くこともあるそうだ。ツグミの仲間だ。

    今朝、庭で聴いていた声はクロウタドリかもしれないと想像しただけで、なんとなく心が弾むような気がした。

 

    雪が解けたとたんに、春が噴き出てきた。まさにスプリング。バネのように勢いよく、泉のようにコンコンと湧き出る。

    野の草を踏んで歩く。テントウムシが這っていた。アリが数匹。顔の前を群れて飛ぶメマトイ。イヌフグリの小花、タンポポの花。

    庭のスイセンは種類ごとにぎっしり身を寄せ合って花茎を伸ばし、咲きだした。小さなニオイスミレが群落をつくっている。梅花が満開。今年はたくさん梅干しが作れそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

石牟礼道子 「無常の使い」

 

 

    市の図書館で石牟礼道子の本を見かけた。本のタイトルは、「無常の使い」。彼女の想いの香り立つ文章をまた読みたいと思って借りて帰った。

 「五十年くらい前まで、私の村では、人が死ぬと『無常の使い』というものに立ってもらった。必ず二人組で衣服を改め、死者の縁者の家へ歩いて行ったものである。

   『水俣から無常のお使いにあがりました。お宅のご親戚の誰それさんが、お果てにな

りました』

    死者を出した村では、男も女も仕事を休み、男は墓穴を掘り、棺桶を作った。

    村の共同体すべてが、故人の思い出を持っていた時代がそこにあった。死者たちは生者たちに、おのが生命の終わりを、はなむけに残して、逝くのである。

    その無常の使いはもうすっかり死語になってしまった。」

 

    漁村、水俣に、チッソのもたらした惨劇は、人を、村を、海を、暮らしを、歴史を、ことごとく破壊した。石牟礼道子が文章に著わした「無常の使い」は、荒畑寒村、細川一、仲宗根政善白川静鶴見和子橋川文三、上野栄信、谷川雁、井上光春、土本典昭宇井純ら23人 。

 

    鶴見俊輔の姉、社会学者の鶴見和子さんは、不知火海総合学術調査団に参加し、水俣に来た。石牟礼道子はその時のことを書く。

    「水俣にこの方をお迎えできたことは、天の配剤だったと思います。なりそこないの日本近代はどうあればよかったのか考えておりましたので、和子さんのおっしゃる内発的発展論を知った時、これぞ日本人の自立を促すカギだと思ったことです。和子さんが水俣にいらした時、訪問予定の反対側の家に入ってしまわれました。そこにその家の主人が風呂上りの一糸まとわぬ姿で立っていた。家をまちがえたと気づかない和子さんは、これが漁村の日常風景だと思われたらしく、ノートを取り出して、どんどん質問をなさった。男性は仰天した表情だったけれど、興に乗って実り豊かな話が聞けた。裸のご主人は、『来年また来てくだはりまっせ』とあいさつなさった。」

 

    鶴見和子さんは、2006年に亡くなられた。和子さんは遺言で、自分の遺骨は紀伊の海に散骨してほしいと言っていた。弟の鶴見俊輔さんは「葬送の自由をすすめる会」の協力を得てそれを実行した。

    鶴見和子鶴見俊輔姉弟が幼かったころの思い出を、石牟礼道子さんは和子さんから聴いた。

    「雪の降る日はね、庭の中を二人がね、チーンチーンと鉦をたたいて回るのよ、巡礼ごっこ。雪が降るとどうしてあれがやりたかったのかしら。弟と二人で、内緒の遊びなの。楽しかったわあ。」

    この遊びをすると親からひどく叱られたらしい。

 

 「苦しんで苦しんで、考えたっばい。チッソを許そうと。一時は呪い殺すぞち思わんでもなかったが、人は恨めばもう苦しか。チッソが助からんことには、私たちも助からんと。」

    痛苦を日夜与えられた人たちの、極限を超えた苦悶に加え、加害者の罪をも引き受けたとおっしゃる。これほどの壮絶な『ゆるす』は聞いたことがない。