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2016-06-19 新著が出ました『SQL 第2版 ゼロからはじめるデータベース操作』 このエントリーを含むブックマーク

先週、新著『SQL 第2版』が刊行となりました。新著といっても、2011年に発売された書籍の改訂版で、DBSMの最新バージョンに合わせて構文の変更を見直したのと、アプリケーションJava)からデータベースに接続してSQLを実行する方法について解説する新章を追加したのが主な変更です。初版で勉強した方が今から買いなおす必要はありませんが、これから買う方は2版の方をお求めいただければと思います。読者対象者のレベルとしては、初版と変わらず、データベースやSQLについてまったく知識がないという初心者の方を対象にしています。

以下に前書きを掲載するので、購入する際の参考にしていただければと思います(「★ ★ ★」以降が2版の追加部分)。

 本書は、プログラミングシステム開発の経験がまったくない初心者の方々を対象に、リレーショナルデータベースおよびそれを扱うための「SQL」という言語の使い方を解説する書籍です。各章では具体的なサンプルコードを中心に解説を行ない、章末には理解度を確認するための練習問題も用意しています。第1章から順に自分の手でサンプルコードを試しながら読み進めることで、自然とSQLの基礎とコツをマスターできる構成になっています。また、特に重要なポイントは「鉄則」としてまとめているため、本書の内容を一通り理解した後はリファレンスとしても活用できるでしょう。

 近年、データベースという分野は、ほかのシステムの分野もそうであるように、急速な進展を見せています。新しい機能を持つデータベースが登場し、扱われるデータ量も飛躍的に増大するなど、その応用範囲を大きく広げています。

 本書が扱うリレーショナルデータベースは、現在最も主流のデータベースであり、それゆえほかのデータベースを理解するうえでの基礎ともなります。その重要性は、通常、システムの分野で「データベース」と言えばリレーショナルデータベースを指す、という事実からもわかります。

 皆さんの中には、これからさまざまな分野、規模のシステム開発を経験することになる方が多いでしょう(あるいはすでに開発に従事している方もいるかもしれません)。その際、データベースが使われていないシステムというのは、まず考えられません。そして、そのシステムで使われているデータベースは、きっとリレーショナルデータベース、あるいはそれを基礎とするデータベースです。これが意味することは、リレーショナルデータベースと(そのデータを操作する)SQLをマスターすれば、どんなシステム開発でも応用が利く“データベースのスペシャリスト”になれる、ということなのです。


                       ★ ★ ★


 本書の初版が刊行されてから6年が経過しましたが、その間、データベースの社会的な重要性は高まる一方でした。以前から、データベースを用いた統計的な分析は専門家の間では行なわれていましたが、それをきわめて大規模なデータに適用してビジネス全般の改革に応用しようという大きな潮流が起こりました。その動きを象徴する「ビッグデータ」や「データサイエンス」という言葉も、システムの世界にとどまらず、社会全体に広まりました。統計解析は、人工知能と並んで今後の社会のあり方を決定する要因だという意見すらあります。

 一方で、データベースの世界でも技術的な革新が行なわれてきました。KVSに代表される非リレーショナル型のデータベースの利用は、もはや珍しいことではなくなりました。また、大規模データを処理するためのパフォーマンスを追求するために、インメモリデータベースやカラム指向データベースの技術も大きな進展を見せており、実用化が進んでいます。

 その一方、変わらなかったこともあります。それは、データベースの主流が、やはりリレーショナルデータベースであることです。その意味で、リレーショナルデータベースと、それを操作する言語であるSQLの習得が、データベースの世界を究めていく最初のステップであることも、いまでも変わらぬ事実と言えます。しかしそれは、リレーショナルデータベースとSQLが進歩していないわけではありません。多くのDBMSがウィンドウ関数やGROUPING演算子(いずれも第8章で解説)をサポートし、大規模データを効率的に処理するための機能を充実させてきました。SQLをマスターすることで、自由自在にデータを扱い、効率的なシステムを構築することができるようになるでしょう。

 本書もまた、そうした動向にあわせてバージョンアップを行ないました。代表的なDBMSの新しいバージョンでのSQL構文のサポート状況にあわせて記述をアップデートするとともに、アプリケーションからデータベースを利用する方法をテーマとした第9章を新たに追加しています。

 本書が、皆さんのステップアップの糸口として役立つこと、そしてデータベースという分野の面白さを伝える一端となることを、心から願っています。

 なお、現在もう一冊書籍の準備をしており、おそらく今年中にお目見えすることになると思います。こちらはうってかわって上級者(というかマニアック)向けです。こちらも楽しみにお待ちいただければと思います。

2016-01-17 蟻と象の闘い『芸能人はなぜ干されるのか?』 このエントリーを含むブックマーク

芸能人が芸能事務所から独立や移籍を図ろうとするニュースが流されるとき、必ず枕詞のようについて回る言葉がある。芸能関係者による「事務所からの独立や移動はこの業界のタブー」というやつです。このルールは、普通に勤め人をしている人間が聞くと「業界の慣習」と呼んで片づけるにはあまりに奇異なものです。普通の会社員であれば会社を辞める自由転職の自由もある。もちろん芸能人は個人事業主として事務所と契約しているだけですが、個人事業主こそ自分の意志で取引先を変える自由は法的に保証されている。

実際、法的に何の問題もないからこそ、ことあるごとに芸能人は独立や事務所の移籍を試みようとするのです。しかし、事務所は決してこれを許そうとしない。当該の事務所だけでなく、業界全体として芸能人にそのような自由を認めないよう連動して動きます(そのための音事協という組織がある)。その結果、芸能人は独立を諦めるか、仮に成功しても、「干される」という苛烈な制裁を受けることになります。田原俊彦、鈴木あみセイン・カミュ水野美紀松方弘樹沢尻エリカ・・・所属する事務所から自由になろうとしたことによって「干され」、その後のキャリアを妨害された芸能人は枚挙にいとまない。時には松方や眞鍋かをりのように裁判沙汰にまでなるケースもあります。最終的に勝訴するにせよ、長い法廷闘争のあいだ仕事の中断を余儀なくされ、世間から忘れ去られてしまうことも多い。事務所ともめているというニュースが流れただけでも、人気商売の芸能人にとってはダメージが大きく、事務所もそれが分かっているから強気に出てプレッシャーをかけてきます。

なぜ芸能界はこれほどまでに芸能人にとって不利な労働形態がまかりとおっているのか? もちろん、芸能事務所にとって、唯一の商品である芸能人がいなくなれば、廃業する以外にないのだから、事務所が芸能人の独立を阻もうとするのは当然のことです。芸能人に投資してきたのだから、回収する前に逃げられてたまるか、という思いもある。中には、芸能界の労働慣行を擁護するため「プロ野球だって似たようなものじゃないか」という話を持ち出す関係者もいるという。確かにプロ野球ではドラフトによって所属球団が決められ、選手の意志によって球団を移籍することができない。これは、興業である以上戦力均衡が求められるという理屈によっています。

しかしそのプロ野球ですら、FA制度の導入やストライキなど、選手の抵抗を組織化する選手会という労働組合を持っています。芸能界の問題の根幹は、このような芸能人が連帯して事務所に抵抗する手段が存在せず、個人で戦わざるをえない状況にあることです。個人と業界全体では、力の差がありすぎて最初から結果は見えている。おそらく法に問えば独占禁止法に抵触するような状態がまかりとおっている。

実際、芸能界の歴史は、自由を求める芸能人が各個撃破されてきた歴史といってもいい。芸能人の選択肢は、干されるリスクを承知で正面突破を図るか、独立をにおわせてそれを交渉材料に事務所に待遇改善を図るか、の二択です。後者をうまく利用した芸能人として、本書は木村拓哉を挙げています。今回は木村だけが残留を選択したと報道されていますが、かつては木村はSMAPの中で最も積極的に独立を画策し、身内に事務所を立ち上げさせたりしてジャニーズ事務所からの搾取を牽制してきました。

もしかすると、SMAPの他の面々も、木村のそういう駆け引きを参考にして、交渉カードに使う意図があるのかもしれません。本気で独立すれば、たとえ国民的な人気を誇る彼らであっても、苛烈な報復が待っていることは芸歴の長い彼らが知らないはずがない。芸能事務所は、一度甘い顔をすれば堤防が決壊するように他の芸能人に独立や移籍の波が波及することを知っており、全力で彼らを見せしめにするはずです。

こうした散発的な抵抗は、力関係から見ても芸能人に不利で、よほどの大物芸能人でないと対等には戦えません。泉ピン子のように完勝してしまうケースもあるとはいえ、これは泉がすでに芸能界に地歩を築いており、事務所が中小だったゆえの例外です。芸能人がまともな労働環境を手に入れるには、労働組合のような組織的抵抗を可能にする仕組みを構築するしかない。同じ芸能界でも、俳優のように歴史が古い業態は力のある労組を持っていますが、タレントや芸人の横の連帯は皆無に等しい状況です。「世界最強の芸能人労組」と呼ばれるハリウッドの労働組合は望めないにせよ、組織的抵抗を可能にする組織が作られないと、この問題は前に進まないでしょう。

実は、日本の芸能界においても、労働組合を立ち上げようとという動きは過去にあったのです。漫才ブームさなかの1982年、過酷なスケジュールの仕事を強いられて次々に体調を崩していく仲間の芸人を見かねた島田紳助が、自ら委員長となって労働組合を結成し、吉本興業と戦おうとしました。賛成に回った芸人には明石家さんま間寛平オール阪神・巨人の阪神などがいました。紳助らは3月1日に吉本興業と団体交渉を行い、「週1回の休日をよこせ」、「賃上げ、ギャラ査定の明確化」、「健保制度確立」などの条件を掲げました。現代の水準から見ればどれも当然の権利と思われるような内容ですが、吉本側は「そんなに休みたければ一生休んでろ」とまったく取り合わず、交渉は決裂します。

こうして「紳助労組」は失敗に終わったものの、その後芸人たちが自分の労働条件について吉本と交渉するという下地ができた点で、この運動は芸人の間では評価されているようです。紳助というと、一般には暴力団関係者との交際が発覚して引退したダーティなイメージがつきまとっていますが、意外な一面を発見できたのも本書の収穫でした。

2015-09-03 10/17にJPOUGで講演します

[]10/17にJPOUGで講演します 23:32 10/17にJPOUGで講演しますを含むブックマーク

10/17(土)にJPOUG主催の勉強会@青山で講演します。

JPOUG> SET EVENTS 20151017 | Japan Oracle User Group (JPOUG)

私のセッションは14:00-14:45で、OracleベースでのSQLパフォーマンスを出すための設計やチューニングについてお話しします。Oracleを使っての性能実測とチューニングによる改善効果の実演も行いたいと思っています。私以外にも多くの講師陣の方々が講演されるので、休日ですが興味ある方は足をお運びいただければと思います。

2015/10/19 追記

講演資料をアップしました(PDF)。

ハイパフォーマンスを実現する設計方法とSQLチューニング実践講座

セッション内容についてはこちらのサイトに丁寧にまとめていただいています。

2015-08-29 アフリカンパワーは存在するのか

[]アフリカンパワーは存在するのか 23:07 アフリカンパワーは存在するのかを含むブックマーク

先週閉幕した夏の甲子園で活躍した関東第一のオコエ瑠偉について、フジテレビなどがそのアフリカ系の出自をクローズアップしたことが、人種差別的だとして一部から批判を浴びました。

オコエ瑠偉をフジテレビが「アフリカン・パワー」と紹介 非難の声も - ライブドアニュース

私もたまたま中京と関東第一の試合をリアルタイムで見ており、1回の中京先制のチャンスをオコエが見事な守備で防いだシーンには思わず感嘆しました。

こうした身体能力における遺伝的な違いというのは、どの程度スポーツにおいてものを言うのでしょうか。現在行われている世界陸上を見ていても、アジア系というのは一部の長距離などを除いて苦戦しており、やはり他の黒人や欧米のアスリートよりは骨格や筋肉において不利なように見えます。また、欧州や米国にわたった野球やサッカーの選手は、口々に日本人との体格差について語ります。一方の黒人アスリートたちの中にも「自分たちは身体的に他の人種と違う」と遺伝的優位性について言及する人々がいます(往年の金メダリスト、カール・ルイスや殺人事件の被告となったことで有名になったO.J.シンプソンなど)。

エンタイン『黒人アスリートはなぜ強いのか?』は、この問題について行われた科学的調査を調べて、「遺伝か環境か」の問題を論じるとともに、生理的・身体的特徴を遺伝に帰す議論について回る人種差別の問題の歴史についても考察しています。

科学的には、西アフリカ系の人々が持つ遺伝的特徴は皮下脂肪が少なく、腕のリーチが長く、速筋の割合が高いといった単距離やアメフトに有利な傾向を持っており、反対に水泳やマラソンには不利に働きます。我々が一般的に抱く黒人アスリートのイメージは、こうした遺伝的特徴によって形造られています。一方で、東アフリカ系は肺活量が多いなど、有酸素運動に強い特徴を持っており、ケニアなどはマラソン選手を輩出しています。

もっとも、スポーツは単純な力比べではなく、複雑な技術と戦術が組み合わさって成立する活動であるため、遺伝だけで勝負がつくわけではありません。そこには長い修練による技術の習得と、知的な戦略的駆け引きが関係する。野茂が米国にわたる前は、日本人選手がメジャーリーグで活躍できると考える人間は皆無でした。本書の著者ですら、日本人選手が野球で米国で成功するのは難しいだろうと予想しています。しかし、今の私たちは松井秀喜、ダルビッシュ有、田中将大、上原浩二、岩隈久志といった少なからぬ選手が、圧倒的な体格差をはねのけて活躍したことを知っています(一方、陸上は戦術の入る余地が少ないので、やはり東アジアの選手は不利になる)。

こうした身体的特徴に対する遺伝の役割を認める議論の持つ難しさは、本書も指摘するように政治的なものです。すなわち、冒頭でも紹介したような人種差別的なイデオロギーに利用される危険です。身体的特徴に人種間の遺伝的な差があるのならば、悩の構造や知性のレベルにも同じことが言えるのではないか? これは人をたじろがせる問いです。一歩踏み外すと優生学的な差別思想につながるため、特に米国ではこうした言説や研究がタブー視されてきました。かつて米国では、黒人アスリートの身体能力が高いことは、彼らが人間よりも動物に近い――すなわち下等な生物だ――ことの表れだというすさまじい言説までまかり通っていた過去があり、その反動というわけです。

しかし、仮に人種間で知性に差があることが「科学的に」証明されたとしても、それが人種差別を正当化する理由になるわけではない。それは、身体障害者の人権が、心身の機能不全を理由に制限されるべきではないのと同じです。事実と価値の領域には厳然たる境界線があり、それを混同するのは、愚か者だけがやることです。しかしそれでも、身体的特徴の遺伝差というテーマに触れたとき、多くの人が警戒を強めるのは、このきわどい境界線へ接近することを感じるからでしょう。でもそれはそれで、今度は科学的事実から目をそらせる宗教的圧力になることもある。事実と価値の峻別は、今でも私たちがケリをつけられていない問題なのです。

アメリカ体制が、黒人と白人をめぐっての発言にきわめて神経質なのはわかっています。しかし、科学を否定するわけにはいきません。昼を夜だと言ったり、夜を昼だとは言えないのです。これは事実なのです。

――ギデオン・エーリエル

2015-08-23

[][]あなたの知らない東京裁判:日暮吉延『東京裁判』 15:25 あなたの知らない東京裁判:日暮吉延『東京裁判』を含むブックマーク

今月は終戦記念日に加えて首相の戦後70年談話も発表されたり、玉音放送の原版が公開されたりと、太平洋戦争を回顧する取り組みが例年より多く行われました。70年という節目の年でもあるし、安保関連法案の国会審議が紛糾しているという背景もあって、右も左も議論が盛り上がっています(9月に入ると潮が引くように落ち着くのがまたなんとも、というのはあるにせよ)。

このブログでも、先日のエントリでは太平洋戦争の開戦へ傾いていく政府首脳の心理と動向を追った書籍を紹介しました。

消極的リーダーの戦争責任:勝田龍夫『重臣たちの昭和史』 - ミックのブログ

今日は、戦後の出来事に焦点を当てた本を紹介したいと思います。

東京裁判 (講談社現代新書)

東京裁判 (講談社現代新書)

東京裁判は、太平洋戦争に関わったすべての国が立場は違えど参加し、判決を下したことでこの戦争の歴史的位置づけをかなりの程度決定づけたイベントでした。もっとも、勝者が敗者を裁いてどこからも批判が出ない結論なんか出るわけがなく、今でも裁判のプロセスや結果に対して日本国内から批判的な意見が折につけ噴出します。自民党など、安保法案改正で米国との関係を強化しつつ、裏では東京裁判を「検証」する取り組みを開始するなど、わかりやすい面従腹背ぶりを発揮しています。

実際、東京裁判はプロセスとして公平とはいいがたいうえ、ステークホルダーが多く情報も錯綜する中で実施されたため、その全貌を把握するのは骨が折れます。そこで、本書に沿って東京裁判の気になるポイントを見ていきたいと思います。本書は思想的に偏ることなく実証的に東京裁判の内幕を整理した労作(サントリー学芸賞受賞も納得)です。

何でそもそも裁判をやることになったのか

私たちはすでに、東京裁判が行われたことを知っているので違和感を持ちませんが、戦争について裁判を行うというのは、当時としては異例でした。戦闘における残虐行為など国際法違反があった場合は別ですが、当時の国際法や条約において「戦争を開始した」ということを犯罪に問える根拠はなかったのです。実際、第一次世界大戦では戦勝国敗戦国を裁く法廷は開かれていません。パリで講和会議をやっただけです。まあ、そこでドイツに懲罰的な賠償金をふっかけたのだけど、でもやっぱり会議であって裁判ではない。もちろん、日清戦争でも日露戦争でもやってない。この根拠のなさは、後に裁判全体を通じて論争の種となる「事後法」問題につながっていきます。

この無理スジを強引に通そうとしたのが、米国のスティムソン国務長官やトルーマン大統領などの一派です。彼らの考えは、ナチスや日本の軍国主義者を「邪悪な犯罪者」として裁くことで、今後の世界の安全保障に寄与するというもので、前代未聞の裁判を積極的に推進しました。

しかし、連合国がみんな裁判に賛成だったわけではありません。

たとえばマッカーサーは、「戦争を犯罪とする根拠に乏しい」として、国際裁判などという大舞台で日本を裁くのに反対でした。彼が反対したのはまた、南北戦争の例から、そのような勝者の裁きを行えば、絶対に心理的禍根を残して日本統治に影響を及ぼすという懸念があったようです(実際、いまでも米国南部では北部への反感が消えていない)。占領軍司令官という現場の責任者らしい、現実的な意見です。

またイギリスは、東京裁判に先行して行われたニュルンベルク裁判のときから裁判という形式に反対で、長期間を要する裁判でナチに宣伝の機会を与えるぐらいなら即決処刑すればいい、という荒っぽい主張をしています。さすがに東京裁判のときには即決処刑論はひっこめていましたが、米国の強引さにいやいや付き合うという姿勢でした。

天皇の訴追をすべきか

しかし、同じ英連邦内でありながら、本国と違って裁判に積極的だったのがオーストラリアです。本書によれば「日本の懲罰に最も熱心」(p.65)な国だったそうです。現在の日豪関係の良好さから見ると、ちょっと意外じゃありません? 先日共同で潜水艦開発を行うというニュースが流れたほどのマブダチです。

エラーページ - 産経ニュース

オーストラリアがなぜそんなに日本憎しとなっていたかといえば、それは戦争中、南半球に燎原の火のごとく進駐してくる日本軍に震え上がっていたからです。大日本帝国の最大領土は、パプアニューギニアまで広がっており、オーストラリア本土は目と鼻の先でしたし、航空機による本土爆撃は行われていました。南半球でイギリスからもアメリカからも遠いオーストラリアは、迫りくる日本の脅威に怯えて過ごすしかなかったのです。日露戦争前夜、ロシアの南進圧力に怯えていた日本の心情に近いものがあるかもしれません。

そのオーストラリアが、日本が二度と軍国化して自分たちの脅威とならないようにしようと考えた方策、それが天皇訴追でした。

一方、同じ英連邦でもニュージーランドはもう少し冷静で、天皇を占領政策に利用している以上、温存した方がやりやすいという判断で、オーストラリア案に反対しています。米国内では議論があったものの、マッカーサーらも同意見で、天皇個人がリベラルな平和指向を持つ人物であることを確認して、むしろ温存して統治に利用する方針でした。また、もし天皇を法廷に呼んでしまうと「全責任は朕にある」という爆弾発言をして他の全被告を救おうとする選択をしてしまうかもしれない、という懸念も持っていたようです。高潔な人格ゆえに行動が計算できないことが恐れられていた、ということです。

「平和に対する罪」は事後法か?

上でも書いたように、当時は戦争の開始および遂行を罪に問える法律的根拠がありませんでした。普通はこの時点で裁判は無理という判断になるものですが、米国は主犯格の政治家や軍人を有罪にするためにアクロバティックな手段に訴えます。これが名高い「平和に対する罪」という犯罪概念の創出です。侵略戦争を企図し、推進した者に適用される罪で、いわゆるA級戦犯は、この罪状で起訴された被告たちです。

通常、法実証主義に基づく近代法では、このように後から作った法律や犯罪概念をもって過去の行為を裁くことは認められていません。それをやったらどんな行為でも時の為政者の都合のよいように有罪に出来るからです。

この事後法に驚いたのは、被告だけではありません。イギリス代表検事として参加したアーサー・コミンズ・カーも「これは事後法ではないか」という疑念を持ち、「とんでもない仕事になる」と漏らしています。またオランダ代表判事レーリンクなど、判事団の中にも「平和に対する罪」だけで死刑に持っていくのは厳しいという見方をする者がありました(事実、この「平和に対する罪」では結局、誰も死刑になりませんでした)。

弁護側もこの矛盾を見逃すわけがなく、開廷直後に早くも「平和に対する罪」は事後法ゆえ無効だという動議を提出しています(速攻で危棄却)。高柳賢三弁護人も、最終弁論で「事後法を排除しなければ、むしろ被告たちはアジア解放の殉教者として名を残すだろう」と批判しました。

また、「平和に対する罪」は諸刃の剣となって連合国側も苦しめました。東郷元外相などの弁護人をつとめたブレイクニは「もし日本の真珠湾攻撃が戦争犯罪なら、日ソ不可侵条約を破って対日侵略を開始したソ連だって裁かれるべきだ」というぐうの音も出ない正論を主張して判事を困らせます。事実彼の言う通り、帝国主義支配する国際政治のプレーヤーであれば、脛に傷を持っているのはお互い様です。日本の満州事変を「謀略によって他国を侵略した」と非難するならば、米国のハワイ併合(ハワイ事変)だって訴追されなければならない(米国がハワイ併合を違法な謀略によるものだったとして謝罪声明を出したのは、ずっと下って1993年クリントン政権のとき)。従来、戦争が犯罪化されていなかったのは、この「どっちもどっち」という事情もあるに違いありません(ブレイクにはまた、「真珠湾が犯罪ならば、原爆投下はどうなのだ」と発言して法廷をざわつかせたことでも知られています)。

しかし、パワーが支配する国際政治の場で、このような「お互い様論理」は通用しませんでした。論理が力で捻じ曲げられる様をあからさまに見せつけられたこともまた、東京裁判が不当なものだという印象を強くしています。

インドのパル判事はなぜ日本を無罪にしたのか?

四面楚歌の東京裁判で、唯一判事団の中で日本の味方をしてくれた(ように見える)ことで、日本で絶大な人気を博すパル判事。「よく言ってくれた!」「わかる人には大東亜戦争の正しさがわかるんだ!」と感涙にむせぶ日本人がいる一方で、このパル判事がどういう理由で「全員無罪」の判決を下したのかは正確に理解されていません。

本書はこれについても、パルとインド政府の立場の違いや、パル自身の信条といったところまで踏み込んでかなり詳しく解説してくれています。実は、パル判決の根拠は、ある意味でものすごく簡単で、かつドライです。それは、さっきから取り上げている「平和に対する罪」が事後法だから、以上。というものです。ここで重要なのは、パルは「日本は悪いことをやったのではない」と言っているのではないことです。日本がやったことは道義的にはよくないことなんだけど、その行為を裁く法律がない。だから無罪。これを示すパル自身の言葉が引用されていたのでっ紹介します。

満州における日本のとった行動は、世界はこれを是認しないであろうということはたしかである。同時にその行動を犯罪として非難することは困難であろう。

時々ニュースでも見ますよね。明らかに悪いことやってんだけど、それを裁く刑法が未整備だから罪に問えないという・・・パルは日本の戦争もそれと同じだ、という冷たいリアリストなのです(ただ、そこにパル自身の反西洋主義も加わっているだろう、という洞察も本書が行っていることは付け加えておきます)。

なお、インド政府はこのパル判決を見て「連合国にたてつくなんていらんことしやがって」と憤慨したそうですが、「あれはウチの総意じゃなくて、空気読めないはぐれ者の一意見でして・・・」とうまく連合国のご機嫌とりつつ日本には恩を売るという、なかなかの外交巧者ぶりを見せたそうです。現在でもまだ乗っかろうとするのだから大したもの。

さて、いかがでしょう。これだけでもなかなか東京裁判というのが奥の深い複雑なイベントだったことがお分かりいただけたのではないでしょうか。本書ではさらに、「なぜ板垣征四郎が有罪になったのに、石原莞爾は起訴もされていないのか」、「なぜ一番罪がないように見える広田弘毅が死刑になったのか」といった興味深いポイントについて、裁判の流れをわかりやすく再構成しながら解説してくれています。新書としては少し厚いですが、思想中立で実証的な分析のスタンスは信頼感が持てることもおすすめです。