古代史「学」の新局面

     今週日曜日、神奈川新聞には『1000キロの海を渡った「大王の棺」』、読売新聞には『東アジアの巨大古墳』が取り上げられていた。前者は2005年に行われた筏による石棺の蓋を想定した3トンの巨石の熊本県宇土から瀬戸内海をとおっての大阪南部までの曳航の再現事件の記録である。後者は日中韓の研究者による本の題名をのためのシンポジウムの記録である。
    前者の実験の前提は畿内の古墳のうち15基がピンク色系と呼ばれる石材を使用しているのだが、従来、これは二上山系産とされてきた。だが、宇土の考古学者が、これを阿蘇山溶融結晶性凝灰岩の中でも宇土の産であることを実証したことにある。このことは継体天皇の墓と推定されている今城墓古墳(高槻市)と推古天皇・竹田皇子合葬墓と推定される植山古墳(橿原市)への九州豪族の関与を示唆する。時間的には5世紀中葉から6世紀初にあたる。
     それにしても1976年から始まったタヒチとハワイを結んだ古代船ホクレア号プロジェクトのことはなんとなくニュースでも知っていたのに古代日本の帆船技術の再現実験船である「海王」のことはとんと知らなかった。
    さて、後者の目玉は奈良にある箸墓が卑弥呼のもの、すなわち西暦247年という年号に関連付けられるという事実が見つかったということである。10年前に箸墓の大木が台風でなぎ倒され、その下から数千点の土器が出土し、中に3世紀のものがあったということである。さらに日本独特とされてきた前方後円墳が韓国の全羅堂南部で10基以上確認されているという。
     勉強になったのは、この時期に九州から吉備、大倭まで広く巨大古墳が分布する理由を朝鮮半島からの鉄原料の入手に関連付けている点である。つまり、日本列島には中央集権国家(帝国)の成立以前に通商国家(王国)群が現在、裏日本として貶められている、日本海側の筑紫、伯耆、高志に分布していたということになる。つまり瀬戸内が大倭の中海になる以前には玄界灘が倭の中海だった、可能性が濃厚になる。
       そうであれば朝鮮半島南部と日本海海岸の中心は鉄加工技術の伝統を誇る現在の島根県にあった可能性が高くなる。その時期は巨大古墳以前ということになる。それは中国に朝貢する以前、つまり卑弥呼以前となる。そしてそのような文明のルーツは非中国、すなわち、南方海上にあると推論するのが普通の日本人の感覚である。だが、シンポジウムが日中韓の研究者によるものだったとすれば、そのような普通感覚、つまり良識が排除されてしまうのも、これまた当然であろう。
     そのことが結局は京都中心史観の延命を助長するのである。そしてそういう人たちが、必死になって「箸墓=卑弥呼の墓」仮説を担いでいる。そのことが日本史を2000年史に矮小化することにつながっている。だが、『日本書記』だって、日本史は2600年だと主張しているのである。この正統な伝統を墨守するためには文字信仰、すなわち柳田の言う「何の字病」を捨てることが必要となる。その勇気のある日本人は何人いるだろう。
    というようようなことを考えていくと朝日新聞に掲載された『古代インド文明の謎』についての書評も興味ふかい。歴史書の紹介なのに出てくる時間の指定は1786年の一点。まだミカドが京都にあられて、ともかくも京都中心史観がいくばくかの根拠を持っていた年である。だが、この書が扱っているのはBC2800年からBC1800年の出来事である。氷河期が終わって150mほどの水面上昇が起きて、現在の海岸線が確定したのはBC5000年ごろとされているからそれより2000年後、といっても長い人類全史からみれば、ほんの少し後の事跡である。
     その時期についての『情報の歴史:1990』のページを眺めていくと、エジプト古王朝、メソポタミア初期王朝、インダス文明、世界初の帝国であるアッカド王朝、中国ウの洪水神話、ギルガメッシュモヘンジョダロ、イギリスのストーンヘッジ、セム人、アーリア人の大移動、そしてインド=ヨーロッパ語族の活動と移動などの項目が並んでいる。
     念のため日本についての記述を探すと翡翠の大流行と縄文土器の目的多様化、漆器の制作が出ていた。
     ここから浮かび上がるのはフランツ・ボアズらが想定していたユーラシア大陸全土に横たわる共通の古層という考えである。書評の紹介によれば、インドに向かったその源流は北シリアにあったことになる。だが、そのインドに残る記録の中からインド植民地支配者であったイギリス人が本国と共通性の高い、つまり閉音節中心のサンスクリット語のみを取り上げて「インド=アーリア語族」を定立したのがほぼ東インド会社設立からおよそ200年後の18世紀末である。
     そのほぼ200年後の、1980年代から、日本ではインドのドラヴィダ語族との比較研究が行われ、開音節、助詞助動詞という基本文法、基礎語彙の類似性がきちんと取りだされている。それだけの経済力を日本が獲得したからである。
植民地だから情報が手にはいった。植民地支配を強化するために都合のよい共通祖語というような実利で世上にもてはやされことはなったかもしれない。だが、自国の言語の100%が中国、とりわけ漢字文化からだけ来ているわけではないという素朴な直観によって見出されたのである。だが、それは京都中心史観からは決して容認され得ない考え方である。京都史の中核にあるのは日本書記という漢文と女流によるかな文字の伝承だったのだから。
     そして結果符丁してしまうのであるが、このようなアイデアはインド=アーリア語祖語という観念によって自分たちの帝国主義支配を200年ほども合理化してきた人たちにとっても危険な思想に映ったはずである。アボリジニをふくむポリネシア言語は言うに及ばずヨーロッパのバスク語、インドのタミル語など民族紛争地域にもたらす被抑圧者への精神的支援は計り知れないものがあるからである。彼らの言語と文化の方がとは言わなくても、同様に古層にあるとなったら、古層にあるものが伝統であり正統であり、尊いと考えてきたアーリア人にとっては耐えられない事態である。
   さらに開音節・閉音節という対立を言語分類の中核に据えることになれば、地中海性のイタリア語・スペイン語なと北部ゲルマン語をヨーロッパ語族としているくくり方(カテゴリ)が崩壊してしまう。それではEU連合の必然性が崩壊してしまうようにかの地の守旧派が危惧しても、それはそれで極めて当然のことでもある。そのような危惧から自由であるような能天気なエリートばかりでも困るのである。
     だが、普通の日本人にとってはそのようなことはあまり関係ない。だから普通ならば次に考えるのは、西に行った閉音節言語、英語と、東に来た開音節言語日本語の違いをもたらした因子は何かということではないだろうか。だって学校で習っていて強迫的に存在しているのは英語なのだから。
     そこに朝鮮半島の言語との類似性など入り込む余地はないはずだ。任意の2者を取り上げれば必ず似ている点と似ていない点が見つかるのである。その程度を測定する計量国語学なるものが流行ったらしいが、これも技術的には有用であっても、科学的には信頼できないことが渡辺慧の「みにくいアヒルの子の定理」によって証明されている。渡辺慧は手書き郵便番号の認識システム開発の中心人物であるから技術としての多変量解析の日本における第一人者であった。
     ただし、1786年より少し以前、人類史全史から見れば誤差のような瞬間だけ早く、スウィフトによって定立され、ボアズらが戦い、そして十全には確立することができなかった「普遍概念=相対主義」を否定する流派に身をおくならば別である。それはすなわち、ヒットラーに代表される「自分の国だけは特別」という流派である。
     もちろん我々は基本的には自分は特別である。それが生物個体としての本性だからである。だが、生物細胞には自他の概念はあり得ても「自分だけ」という概念はないはずである。あるのは「自分の内と外」という現象であって、「自分だけ」という存在概念ではない。
    これを小松英雄氏風にいえば、すべての人にとって自分の母語は特別であり、なつかしく、美しいということである。それを日本語できちんと言うならば、

日本語も美しい。そして優れている。

間違っても、以下のように言わないようにしたいものである。

日本語は美しい。そして優れている。

      もっとも以下のような〈は〉の使い方であれば、それは〈現象文〉であるから、それはそれで由緒正しい使い方である。このことは夏目漱石の『吾輩は猫である』や川端康成の『雪国』冒頭の文によって担保される。あの二文を論理学でいう〈copula〉であるかのような扱いが蔓延していて私自身もそのようなイメージで過ごしてきてしまったが、明らかに間違いである。主語だけでなく、 time line を指定する〈もう/まだ〉をも隠してある〈現象文〉として位置付けなければならない。論理学でいう〈copula〉であるならば〈いつも〉が入るのが適当ということになる。

日本語はもう十分に美しい。だが、まだ十分に明晰とは言えない。