『孕むことば』 育児と文学


 鴻巣友希子さんが、妊娠から幼稚園に通う娘さんの成長までを書いたエッセイ集。

 個人的な発見は、幼児が大人には見えない友達をもつ話について。

かぶさんとは子どもたちの守護神のようなものかもしれないし、子どもの分身のようなものかもしれない。幼子の時代というのは、なにか神秘的な繭でそっと護られているいる気がする。その繭のヴェールに包まれている間を「幼子のころ」と呼ぶのだろう。

 わたしの育児では、こういうことがなかった。息子の様子を振り返っても、もし神様が息子の近くに来てくれていたとしても、身体を動かしたり、目の前にある現実を観察するのに忙しすぎて、気づいていなかったのではないかと思う。我が家は夫婦そろって、こういった現象を否定するタイプだし、環境や遺伝的に我が家ではあり得ないことだと思う。

 だから、ママ友からこういう話を聞かされてもどう反応していいのかわからず、適当に受け流していたけれど、鴻巣さんの文章を読んで、子どもの成長過程では、そういう心の段階があるんだな、ということがわかった。

 あまり文学に馴染んでこなかったわたしだけれど、育児とからめたエッセイを読んで、文学っていろいろな心を感じ取ることなんだということに気づいた。

ことばは聞かれれば育つ。相互のやりとりがあれば、さらに育つ。結局、子どもの言語能力というのは、かなりの部分、親の理解力のことなんじゃないだろうか。

 自分がどれだけ子どもの言葉を聞いて、子どもの心を感じ取ろうと努力してきたのか、かなり後悔の多い育児だったような気がする。

 育児からいろいろな文学や文化の話に発展していくエッセイは、それぞれおおもしろかった。

 もうひとつ印象的だったのは、「夢を抱く」ことについて。あのアンパンマンは「みんなの夢を守る」ヒーローで、人はみな自分の好きなものを見つけて夢を持たなくてははならないという脅迫的なメッセージに、鴻巣さんは違和感を感じるという。これにはまったく同感。先日読んだ『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』で書かれていた若者の悩みも、夢を持たなくちゃならないという風潮の副作用のひとつだと思う。「好きにしなさいとだけ言われて放っておかれる状態」だから。

 鴻巣さんは、翻訳を職業にすると選択したとき、親御さんから「そんなに言うなら、その翻訳とやらをやればよろしい。ただし、自分の面倒は自分でみること。会社に就職した人たちと同程度のお金は稼ぎなさい」と言われたそうだ。才能だけでなく、努力もきっとたくさんしてこられた方なのだろう。

 こういった覚悟を持って、地に足のついた生き方をしなくちゃだめなんだな。そして、そういうふうに子どもを導いていかないとならないんだな、ということを忘れずにいたいと思った。