憧れのゲルマント公爵夫人
そして語り手がタピスリや幻燈やステンドグラスなどから想像するゲルマント公爵夫人は、貴婦人中の貴婦人だったが、実際に見るゲルマント公爵夫人は決して想像の世界を超えるものではなかったことに語り手は複雑な思いを抱くのだった。
語り手の想像の世界では貴婦人中の貴婦人、そのシラブルがオレンジ色の光沢を放つゲルマント公爵夫人を、現実の世界で目の当たりにし、その想像と現実のあまりの落差に、自分には文筆の才がないこと、いずれ有名な作家になることなどをあきらめなくてはいけない、などと語り手は思うのだったが、ある夏の夕刻、コンブレーに帰る馬車から眺めた、マルタンヴィル教会の二つの鐘塔とヴィュヴィック教会の鐘塔が遠方で重なり合って、まるで三羽の鳥のように重なって見えるのに感動し、心の底から歓喜があふれてくるのだった。この夕暮れ時の三つの鐘塔を語り手は馬車に同乗していた医師に筆記用具を借りて文章に残すのだった。
マルタンヴィルの鐘塔
「頭を野原から高く出し、たんなる平野に迷い込んだように、空に向かってマルタンヴィルの二つの鐘塔がそびえていた。やがてそれが三つになるのをわたしたちは見た。というのはマルタンヴィルの二つの鐘塔の正面に、大胆に身をひるがえしつつ、おくれてきた鐘塔、すなわちヴィユヴィックの鐘塔が飛び入りして、これに合流したからだ。時間が流れ、私たちは馬車をいそがせた。にもかかわらず三つの鐘塔は、さながら野原に下りてじっと身動きもせず、陽に照らされてはじめてそれと分かる三羽の鳥のように、相変わらず遠く前方にあるのだった。ついでヴィユベックの鐘塔が身を引き離し、遠く離れ、マルタンヴィルの二本の鐘塔だけが残り、それを赤々と照らす夕陽が塔の斜面にたわむれたりほほえんだりするさまは、これほど遠く離れていても私の目に見えた。私たちはとてもゆっくりと鐘塔に近づいていったので、そこに着くにはまだどのくらい時間がかかるだろうかと考えていた矢先に、突然馬車は道を曲がって私たちを鐘塔の足許に下ろした。鐘塔は荒々しく馬車に向かってとびかかってきたので、あやうく塔の入り口に衝突しそうになって、辛くも馬車を停めることができたほどだった。」