読書と視聴と仕事の記録 このページをアンテナに追加

2017-03-30

最近の仕事

最近の仕事のことを。このところ、『逃げるは恥だが役に立つ』や『東京タラレバ娘』関連の記事が多かったので、それをまとめておこうと。

ユリイカ東村アキコ特集で、「東京タラレバ娘」について書いてます。

「何が女の子をタラレバ娘たらしめたのか」


あとは、『タラレバ』『逃げ恥』の編集者のおふたりの対談のライティングしました。

逃げ恥」×「タラレバ」担当編集者が教える「ヒットの秘密」

いま、女性漫画に求めれられていること

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51249



逃げ恥』の作者・海野つなみ先生と、ドラマ脚本の野木亜紀子さん対談でもライティングしました。

【対談】逃げ恥の「萌えポイント」を読み解いてみたら2017年3月28日

逃げ恥コンビ」対談 〜 漫画原作者海野つなみさん、ドラマ脚本家野木亜紀子さん 前編

http://wol.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/192326/032400025/



毎日新聞での「タラレバ」記事でコメントしています。

特集ワイド「東京タラレバ娘」が…アラサー女性に刺さる理由

http://mainichi.jp/articles/20170208/dde/012/040/003000c

2017-03-19

最近のこと

私の発言について北条さんのブログでも指摘された件について、気づいてすぐにツイッターで言及したのですがその後に思ったことが整理できるようになったので書こうと思います。

この件についての発端は、北条さんの「存在自体がムカつかれる女」という言葉を見て、そこから考えたことをツイートしたことにあります。

そこで考えたことは、「存在自体が」ムカつくということは、行動やツイートなどで今まで自分が表したことやコミュニケーションが原因ではないということにとれるけれど、そんなことは一般的にあり得るのだろうかということでした。

存在自体が問題だとすると、自分の意思では変えようがないことになってしまい、疑問も晴れることはありません。でも私はほかに理由があるかもしれないと考えました。それは、別に具体的なことではなく、誰にだって、なんの理由もなくむかつくということは、言葉の上ではあっても、実際にはあまりないのではないかということです。

また、なぜ、名前を書いてないかというと、そうは見えなかったかもしれませんが、北条さんのことだけを書いたつもりではなかったからです。

名前を書いていないからこそ、その次の部分には、私が実際にあった、同じように、「存在自体」で嫌われているという知り合いの話に変わります。ここで、たぶんごっちゃになって誤解させたところがあると思います。

そして最後に「なぜ嫌われたがる」と書いたのですが、これは補足すると、「なぜ嫌われているという自分の状態をあえて人に知らせようとしてしまうのだろう」というのが正しい意味になるかと思います。

この部分については、実際の知人から、「私もそういうことを言ってしまいがちなので、ちょっと気になった」と言われたので、私の中に、そういうことに対する偏見があるのかなとも思いました。

また、「嫌われているという自分の状態をあえて人に知らせようとしてしまう」ような人について、そこからフォロワーの方との雑談もしていますので、そういう私のツイートが、ごっちゃになって、結果北条さんだけのことを言っているようにとられて不快にさせたのではないかとも、これも素直に思います。

そして、今日このブログを書いたのは、北条さんのことだけを考えて書いたのではありません。この後、文章を書いていく上で、「女性でなんで嫌われているアピールをするんだろう?」という種類の疑問が、自分の単なるミソジニーであったら、自分が文章を書きにくくなるだろうなと思ったためです。そのことについては、一度、自分の偏見であったのではないかと振り返っておきたかったのです。

またそれは、北条さんに対してだけではなく、「自分もそういうことがある」と思われた人がいたら、そのすべての人に対しても伝えておきたいという意味があります。だから、ツイッターにも「フェミニストの風上にもおけないのではないか」と書いたのです。これも、正直な気持ちです。

ただ、この件に関しては、単なる一方的なミソジニーと片付けられるものでもないと思います。私は、その知り合いの女性の話を思い出し、「私、嫌われる」のと(実際には彼女は「私、魔性って言われて嫌われるの」と言っていましが)言っている彼女は、派遣のみんなの間でさほど嫌われてもおらず、けっこうコミュニケーションもしていたので、そこまで「嫌われてる」って言わなくてもいいのになんでだろうという趣旨のツイートをしています。ここでは、もう完全に北条さんの話からは離れてます

この一連の流れをリツイートした上で、パプリカさんが<「女同士って怖いよねー」って女で和気あいあいしてる時いつも心の中で『え?ここは?この集まりは?ここも女同士だけどあんたすごく楽しそうにしてんじゃん今』と心の中で思う>とツイートしていたことを読んで、私も同じ気持ちだと理解しました。つまり、女同士のコミュニケーションをなれ合いとみなし拒絶することにもミソジニーを感じることはあるし、それを聞かされると、それを聞いたこちらも悲しい気持ちにはなるということです。女子会という言葉自体に拒否感を持っているような発言にも同じようなことを感じます。

ただここの部分は、さっきも言ったように、本当に北条さんがどうこうということからは離れた一般的な話になっていますので、本当に誤解しないでくださいね。

どこから見るか、どういう状況かでも、単に判断することができないことは、フェミニズムに限らずあると思いますので、これが答えというわけではなく、またおおいおい考えたいと思います。

私は、文章では意図を説明できるほうですが、しゃべるとなると、思っていることを理路整然とまとめられないところがありますし、そういう指摘も実際にうけます。また、心理状態によっても、うまくしゃべれなくなることがあります。そのことによって、余計に誤解させてしまうことがあるかと思いますし、このような議論は特に誤解を生みやすいものかと思いますので、このブログを持って私の気持ちに変えさせていただきます。

正直なことを書くと、能町さんの真摯な行動に対しては、まったく取り合わず、また数あるツイートの中から私だけがブログで取り上げられる対象になっているのはなぜなのかという疑問はありますが、それは私が言うべきことではないのかもしれません。

また、スクリーンショットを利用されていますが、私のツイートがきっかけで、もしも第三者からの心無い意見が寄せられるのであれば、このことをことさらに取り上げないほうが、効果的ではないかとも思っていますが、それも判断は人によって違うのかもしれません。

もしかしたら、ツイートを残しておくことで、さらに広まることは迷惑になるのではないかとも考えて、ツイートを削除したほうがいいのかなと思ったのですが、かやさんがスクリーンショットで私の発言を使っているので、私は削除を依頼されない限り、ツイートを消すつもりはありません。それは、北条さんのことを書いた(半分ではありますが)ツイート拡散されればいいということではなく、証拠を消して、それで終わりとは考えていないからです。

この文章が読まれるかもわかりませんし、この文章を読まれても、納得できるということはないかもしれませんが、ずっと黙っているのも、フェアではないかもしれないと思いましたので、ここに書かせていただきます。また、能町さんのブログにあった「反論できない人を悪く言う」という言葉を見て、それは能町さんは雨宮さんに対して書かれていることだとは思いますが、ちゃんと言葉を発することができる私がそうなってはいけないと思ったことも関係しています。

また、ツイッターなとでは、今までどおりのツイートを続けると思いますし、私もすぐに次の日記を早く書きたいと思っています。

2016-10-23

プレミアムドラマ「奇跡の人」と「永い言い訳」

ツイッターの文章まとめたら?と言われたのと、原田眞人監督の散文的、日記的なブログが懐かしくてよかったので、自分もひさしぶりに。

必要があってBSプレミアムで4月に放送のあった「奇跡の人」を見た。「奇跡の人」というと、ヘレン・ケラーを思い浮かべる人が多いだろうけど、この作品も、光と音を奪われた少女が出てくる。見ていると、光と音がないということは、言葉とか概念を認識することがこんなに難しいことなのかと、ヘレン・ケラーが「ウオーター」のシーンを知っていても改めて実感する。

しかし、この作品を見ていて思い浮かべたのは、映画『永い言い訳』だった。二作とも、主人公が子供という第三者に出会うことで変わっていき、子供を含む新たな人間関係を手に入れる。しかし違っているのは、第三者に出会って変わっていくのは、『永い言い訳』では、心が凝り固まってしまった男・衣笠で、衣笠が出会うのが、正反対の男・陽一くんだった。

ところが、『奇跡の人』では、第三者に出会うのは、むしろ陽一くんの側に近い純粋なキャラクターである亀持一択であるし、その無垢な熱さは、逆に少女とその母や周囲の人達を変えていく。

それにしても、以前は『ボーイズ・オン・ザ・ラン』などで、自意識側の人間を演じていた峯田和伸が、純粋無垢側を自然に演じていて、それを見ている自分も、当たり前のようにそれを受け止めていることに驚く。『永い言い訳』は、そういった考えすぎなほうの人の自徹底的に問うという意味で、こちら側に生きてきた人が自分を見つめなおす時期なのかもしれないなと思わされたが、峯田和伸は、すっかり向こう岸に行っていて、そのことを疑うことすらさせなかった。

この『奇跡の人』の脚本は、岡田惠和が書いている。岡田惠和といえば、いつも、現世と、どこかわからない別の世界を媒介する人物が登場する。今回はその人が見当たらないと思っていたら、最後の最後になって、今回もやはりそういう存在がいることがわかった。

2016-02-23

おそ松の“寂しさ”への指摘に、反応がデカかったのはなぜなのか…

24日発売のTV Bros.で「おそ松公論」という考察を書いています。

実は、前の号でも、6人兄弟のキャラクター解説を担当したのですが、反響が大きかったのが、おそ松の「もしかしたら兄弟の中で一番の寂しがり屋なのかもしれない」という部分でした。私は、2話で兄弟の行動に関心をもって見守っているのに、みんなの知らない一面を見てショックを受けているところ、14話でトッティが隠しごとをしているときに、「寂しくて心臓がギュってなるんだよ」と言っていたことから、なにげなく抜き出しました。

アニメ―ジュによる人気投票では、一松、カラ松、十四松、チョロ松、トド松、おそ松という順で人気があり、おそ松はその時点では最下位であるというのに、ブロスでは、ひとりだけ反響が大きかったのは以外でした。

それはなぜかと考えてみたのですが、一松などは、本人の闇や特徴やダメなところがわかりやすく、またそれをフィーチャーした回も早めにあった。そのほかのキャラクターも、それぞれ自分がこういうキャラだと自覚している部分と、ほかの兄弟によって暴かれる本当の自分というものが描かれることで人気につながったのではないかと思います。

一松は孤高のキャラをきどっているけれど本当は人や猫のぬくもりに人一倍敏感で、トッティコミュ力高めに見えてちょうどいいラインがわからない、十四松が元気はつらつなキャラに見えて実は哲学的なまでに自己の存在を問うている……。それぞれの深いところまで追求されると、より関心を持つことにつながります。

ただ、おそ松がこれらの兄弟と違うところは、寂しがり屋という説明は、物語の中で言及はされているけれど、おそ松をフィーチャーして、その根っこにある寂しさを兄弟が暴くまででの回がなかったため、おそ松をえぐった言説を欲していたのではないかと思うのです。

2月24日発売の特集号では、前号に引き続き、『「おそ松さん」における“素”、そして“背負う”』という考察を書いておりますので、どうぞよろしくお願いします。

2016-02-04

清原の「見たいものを、見せてあげる」精神の行方は……(2015.3.3「ふくほん」からの転載)

以前書いていた「ふくほん」というサイトの記事が、サイトの移行により、一部掲載が終わっているので、ブログのほうにアップします。この記事は、2015年3月3日に掲載されたものです。


完本 清原和博

清原の「見たいものを、見せてあげる」精神の行方は……

初めて清原という存在を知ったとき、彼はアイドルでした。プロ野球専門のグラビア誌で表紙を飾り、今よりも線が細く、あの吉永小百合が彼目当てに西武球場に足を運んでいるというニュースが報じられるほどでした。ところが現在では、真逆のイメージになっています。そこには、いろいろなコンプレックスを跳ね返したい気持ちがあったのかもしれません。

この『完本 清原和博』を読んでとにかく目につくのは清原の不安感や神経の細さです。

例えば、清原甲子園の試合に出る前はとにかく緊張でお腹を壊していて、バスを降りたらまずトイレに駆け込んでいたとのこと。また、デビュー当時からマスコミに注目され、それに対して、どっしり構えることができなかったこと。調子が悪いときにカメラを向けられると、怒りをあらわにすることもあったと言います。

もうひとつ気になるのは、とにかく清原の口から桑田の話題がよく出てくることです。「PLの中でもボクはそんな食べん方ですワ。それよりももっと食べないのは桑田ですわ。あいつで心配があるとすれば、そのあたりやな」「あいつは投手でしょ。(中略)何か事を起こすときに“まず、大丈夫かな”って思っちゃう。慎重になるんですわワ。だけど、ボクはちがうんだ。これを逸したら、もうあとはないって思ってしまう。手を出しちゃって、“ああ失敗した”ってことになっちゃうんです」などと。

清原の見ている桑田というのは、自分より身体が小さく、勉強熱心で、そして何にも動じないというものでした。桑田というのは自分が人からどう見られているかよりも、自分がぶれないことが大事なタイプ。気は荒いけれど本当は純朴な男と思われていた清原とは違って、桑田は老獪な男と思われていても、それに動じないところがあり、本来は繊細な清原はそこが謎でもありうらやましくもあったのではないかと思うのです。

この本でも「桑田は警戒する事をおぼえ、清原は人に従うことでそのうまみを知ったのではないか」とも書かれています。こういう対比を見ていると、サービス精神旺盛で空気を読んでしまう(ときには空気を読みすぎて空気が読めないふりをしたりする)タイプは、人々の期待に応えすぎて、ときに自分が何だったかわからなくなることも多いように思うのです。

そして、そんな人のエピソードを見聞きすると、必ず映画『ヘルタースケルター』の「見たいものを、見せてあげる」というセリフを思い出します。

今の黒くてデカくて豪快な男という清原のイメージというのは、そんな人々のいい意味でも悪い意味でも「見たい」という期待がその中に詰まっているのではないか、それがはじける寸前なのではないかと思えてくるのです(良いはじけ方をすることをせつに願います……)。

完本 清原和博 (文春文庫)

完本 清原和博 (文春文庫)