日常と旅を繋ぐもの

かつて時折訪れていた小屋があった。駅から遠く離れて坂道をゆるゆると下り、ようやっと辿り着くその小さな広い空間で、木の器に入った苦い珈琲を飲むとイガイガした心が落ち着いて、フラットになった。店主は俗世から離れたような佇まいで、ただ静かに淡々と、極僅かな緊張感漂うここは私にとって、教会のような場所だった。しかし突如遠い地へ移転されることになり、4年後の今回の旅でそちらに伺うことが出来た。着いたばかりの土地で地図を辿り、緊張しながら扉を開け中に入り、ぎこちない動きで椅子に座って店内を見渡す。……ああ私はこの空間を知っている。白い壁に浮かぶモビールの影も、ベンチも、棚も、花器も、絵も、カウンターで店主が立つ位置も、聞こえてくるJAZZも、前の店と同じだった。広くなったけれど漂う空気もそのままだった。そう気づいたら胸の奥がくいっとして、涙が滲んできた。10年以上前の、心細くてなんにもないあの頃の私を思い出した。
「お久しぶりですね」と店主は言った。「え?覚えていらっしゃったんですか!」特別に話をしていたわけでもない、単なる客だったのに!「わかりますよ。突然なんの前置きもなくいらっしゃるから、驚きましたよ」まさかそんな言葉をかけていただけるとは思ってもいなかった。
「店内が以前と変わっていないですね」「カウンターからの眺めが同じだから、自分でも移り住んだことを忘れてしまうんですよ」
ああ、この空間はこの人そのものなのだな、何処であってもこの人がつくり上げるからこそ生まれるものなのだ。調度品も掲示物も食器もメニューも味も、この人の審美眼に依って此処に在り、この人に依り育まれる。店=店主なのだ。そのごくシンプルで当たり前のことが欠けている店が如何に多いことか。久しぶりに淹れていただいた珈琲は変わらずに苦く甘く、器は一段といい色になっていた。思えばこんなふうにじっくりと店主さんと会話をしたこと初めてだなあ。4年という歳月で変わったこと変わらなかったことを想った。最後に「よい旅を!お元気で」と手を振ってくださった姿が、今の私を認めて送り出してくれたように思えて、嬉しかった。



以前訪れたことのある、素晴らしき珈琲屋さんで働いていたと知り向かった店。旅でやってきたことを告げ、店主さんはにこやかにたくさんお話してくださった。お勧めですよと教えていただいた別の街の珈琲店に行くと、東京で馴染みにしていた店でかつて働いていた方がカウンターにいたのだ! お互いに声を上げて驚き、思いがけない再会を喜んだ。辞めてからの1年ほどの日々をお話くださり、真摯な姿勢に心を打たれた。やわらかな視線の話し方に、かつていらした店の(しかしもういない)主を思い出した。また彼の淹れた珈琲を飲みながらお話ししたいな。



川沿いの半地下の、まだ出来たばかりの店は気持ちのよい空気が流れていた。20代半ばの店員さんもまた気持ちのよい受け答えの方で、繁華街から離れたこの界隈のお勧めを教えてくれ、その店もまた面白い空間だった。マンションの一角にあるレコ屋では興奮するほどに楽しい品揃えで、その店主が教えてくれたよく行くというごはん屋さんに行くと、持っていたレコ袋から音楽話が広がった。旅行者であっても、彼らの日常に交わったことが嬉しい。


こんなふうに行く先々で、ぱちんぱちんと回路が繋がっていく旅だった。
自分の何気ない日々が離れた土地で思いがけず開いていくことが嬉しい。だからこれからも、歩いて見つけて、ちいさな自分のひとりだけの居場所を大切にしていきたい。