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お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2017-10-16

First(ファースト) First(ファースト)を含むブックマーク First(ファースト)のブックマークコメント

 昨年の9月、東京都に「都民ファーストの会」という地域政党が設立されました。ここに使われている「ファースト」という言葉は、「〜が最初にある」「〜をまず第一に考える」「〜を最優先する」という意味合いで使われ、現在人気のある言葉になっています。そして「国民ファースト」「アスリートファースト」「アメリカファースト」「お客様ファースト」などの造語も生まれています。                             


 ところで、この造語を仏教的観点から見たらどうでしょうか。何事も自分中心にしか考えられない人間に当てはめるなら、さぞかし「自分ファースト」でしょうね。他の生き物に当てはめても然り。もし犬だったら「犬ファースト」、猫だったら「猫ファースト」など、いずれの生き物も、当然それぞれが「自分ファースト」だと思っているでしょう。     


 でもここで、阿弥陀仏が登場されたらどうでしょう。事態は一変し、「阿弥陀仏ファースト」に転じるでしょう。阿弥陀仏は私たちがこの地球上に登場する、そのずっと前から、衆生を必ず助けるという本願を建てられ、その本願が既に成就されているからです。即ち私たち衆生の一歩前には必ず阿弥陀仏がおられることが明らかだからです。         


 私がこのことを強く意識する箇所が、蓮如上人の「御文章(五帖)」の中にあります。「何のようもなく、一筋にこの阿弥陀ほとけの御袖(おんそで)に、ひしとすがりまいらする思いをなして『後生を助けたまへ』とたのみもうせば……. 」の件です。         


 教えを聞き始めてより長年にわたって、ただただ一心にこちらから、「どうぞ助けてください」と、私の「助けて下さい」が最初にあるもの、と思っていました。        


 ところが実際は、悠久の過去から阿弥陀仏の「必ず助ける」という言葉が、私の「助けたまへ」の言葉の前にあったのです。つまり、「必ず助ける」と約束されているのですから、「それでは助けてください」と、お任せすることだったのです。            


 「阿弥陀仏ファースト」、世に広く流布してほしい言葉です。            

( The phrase “Amida Buddha First” is what I want to be widely spread all over

the world. )

2017-10-10

Life(いのち) Life(いのち)を含むブックマーク Life(いのち)のブックマークコメント

 今、いのちがあなたを生きている                         

           真宗大谷派東本願寺                     

 2011年に催された親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマ。私が自らのいのちを生きるのではなく、いのちが私を生きていると考えるよう呼びかけた。これにふれて思い出したのが、臨床心理学を専攻する友人の、「身体こそ魂なのであって、魂という容(い)れ物の中を<私>が出入りする」という謎めいた言葉。共通するのは、身体を「私の所有物」とする考えを斥(しりぞ)けていること。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一 より)    


 「いのちが私を生きている」の「いのち」とは、「阿弥陀仏のいのち」だと考えられます。                                             

 でも、仏願を受け入れるまでは、なかなかそのように考えることはできませんでした。ところが、仏願を疑いなく受け入れて(聞いて)、ふと気がつけば、胸の中は南無阿弥陀仏でいっぱいになっているのです。よくよく考えてみればとても不思議なことです。私の胸の中に宿っているといった感じです。今は、私の身体は「私の所有物」ではないと考えることができます。阿弥陀仏から頂いた命、生かされている命だと知らされたからです。                              

 間違いなく、今、いのちがわたしを生きているのです。                

( Without doubt, the life is now living my life. )

2017-10-04

The Experience of Religion in S Society(S会における)信仰体験 The Experience of Religion in S Society(S会における)信仰体験を含むブックマーク The Experience of Religion in S Society(S会における)信仰体験のブックマークコメント

 「法戦」というS会発行の本があります。S会が結成されてから15年後の昭和48年(1973年)に、親鸞聖人御生誕八百年記念として発刊されたものです。最近、この本を新たに読み返してみました。その中で特に印象的だったのは、当時私がS会で聞いていた信仰体験が書かれていた箇所です。S会で言う信心決定という最も重要な部分です。ここに記録しておくことにしました。     

                       

             自己の信仰体験                        

 さて次に貴方々にはどんな信仰体験があるのか判りませんが、しきりに編集長の信仰体験を追及しておられますが、仏法求めるきっかけは違っても、真実久遠の弥陀に救われた魂の道程は同じですから、私の体験を述べさせて頂きましょう。             

 阿弥陀さまから賜った信心なれば、みんな一味の信心であります。他力金剛の信心は人から認可されるものでもなければ、金で売買出来るものでもありません。親鸞聖人が「たとえ、大千世界が火の海原になってもそこをかきわけてでも仏の教えを聞け」といわれ、蓮如上人が「火の中をわけても法は聞くべきに雨風雪はものの数かわ」と仰っておられる様に、自力一杯命懸けで求めたものでなければ、自力無効と切り堕とされて久遠の親と対面するという体験は出来ません。                               

 それは土蔵秘事の人々の言うような善知識の言葉ではありません。不思議というよりいいようがない明らかな仏の呼び声でした。尚こびりついて離れない自力の執心に悲泣悶絶、誰あって声のかけ手のない苦しいドン底に突き落とされた時に、私は久遠の御親の声をハッキリ聞かせて頂いたのです。「なげ倒された覚えがありますか」と横山さんは仰っていられますが、三定死(さんじょうし)の境地はそんな生やさしい、苦しみではありませんでした。                                       

 親鸞聖人ならば、「地獄は一定(いちじょう)住みかぞかし」といわれた境地、善導大師ならば「自身は現に是(これ)、罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より己来(このかた)常に没し、常に流転して出離(しゅつり)の縁あること無し」と悲泣された時、始めて衆生苦悩我苦悩(しゅじょうくのうがくのう)、衆生安楽我安楽と共に泣き、共に喜んで下さる阿弥陀如来の大慈悲が知らされたのです。地獄一定が極楽一定と転じた時の私の喜びは心も言葉もたえはてて泣くばかりでございました。十方微塵世界の功徳をまる貰(もら)いさせられ、不可称不可説不可思議の功徳を全領さされた時の喜びは、至心信楽己を忘れ、真に手の舞足の踏むところを知らなかったのであります。この大慶喜と同時に身をひきさかれる様な懺悔をせずにおれませんでした。                       

 これを聖人は、「弥陀五劫の思惟の願をよくよく案ずれば偏に親鸞一人が為なり」又「ああ…..弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく真実の浄信は億劫にも獲がたし。偶(たまたま)、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」とおどり上がって喜んで居られますが、貴方々にこの様な体験の喜びがおありなのですか、秘密でなかったら詳しく聞かせて下さい。そして共に不思議な御縁を慶ばせて頂きましょう。                      

 絶対助かる縁のない私が、絶対助かったのですもの不思議というより外はありません。弥陀の本願まことであった、若不生者(にゃくふしょうじゃ)の誓まことであったとおどり上って喜ばずにはおれませんでした。貴方々は命懸けで求められた事がおありなのですか。求めないものにはこの様な喜びは絶対に味わえません。つもりの信心は臨終の嵐の前には吹きとんでしまいますよ。如来大悲の恩徳は身を粉にしても足りません。師主知識の恩徳は骨を砕いても謝すべしと、ますます迷うている人達を破邪顕正せずにはおれません。どうか一刻も早く真実の信心を獲得して下さることを念ずるばかりです。(『法戦 親鸞聖人御生誕八百年記念』親鸞会より)                             


 以上、S会でいう信心決定の仕方です。私が当時聞いていた通りです。        

 それにしましても、前回書きました浄土真宗でいわれている信心決定の仕方と、S会における信心決定の仕方には、雲泥の差があります。果たしてどこで正誤の判断をすべきなのでしょう。回答は親鸞聖人が 『聞』といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを『聞』といふなり( The word hear means that sentient beings, having heard how the Buddha’s Vow arose_____ its origin and fulfillment____ are altogether free of doubt. This is to hear. ) と明解に教えておられます。信心決定とは、この言葉通り仏願を疑いなく受け入れる(聞く)ことだと知らされます。             


   ※参照 http://d.hatena.ne.jp/miko415/20120914 (凡夫の正体)           

2017-09-29

Shinjin of Amida’s Directing Merit(他力回向の信心) Shinjin of Amida’s Directing Merit(他力回向の信心)を含むブックマーク Shinjin of Amida’s Directing Merit(他力回向の信心)のブックマークコメント

 浄土真宗の「信心」とは、私が信じる心ではなく、「阿弥陀仏の救いのはたらきを、疑い無く受け容れた心」のことを言います。                       

 例えば、赤ちゃんは、お母さんを信じて抱かれているのでしょうか。信じるとかいうことを越えて、まかせきっているのです。「お母さんですよ」という声を通して、「お母さんは、ここにいますよ。大丈夫だから安心してまかせなさいよ」という、母親の心を受け容れた姿なのです。同じように、南無阿弥陀仏という言葉(喚び声)を通して、「我をたのめ、必ず救う」という阿弥陀仏の心(本願)を受け容れた心が「信心」なのです。        

 このように、浄土真宗の「信心」は、私が信じる心ではなく、「阿弥陀仏のはたらきを疑いなく受け容れた心、つまり、阿弥陀仏からいただいた心であるということで、「他力回向の信(阿弥陀仏からいただいた信)」と言われています。「他力」とは、阿弥陀仏の本願力、「回向(えこう)」とは私の方へ回(めぐ)らし振り向けるということで、「他力」も「回向」も阿弥陀仏のはたらきを表しています。                       

 阿弥陀仏のはたらきを疑いなく受け容れるということは、私に限りないひかりといのち(智慧と慈悲)が与えられるということであり、それは自らの愚かさに気づかされると同時に、そのはたらきに包まれ、真実に導かれていく(お育てに遇う)ということなのです。 

【『高校生からの  [仏教入門]  釈尊から親鸞聖人へ』小池秀章 本願寺出版社】    

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 他力回向の信心とはどういうものか、ということについて、私と阿弥陀仏の関係を赤ちゃんとお母さんとの関係に例えて説明されていて、実にわかりやすいと思います。     

 浄土真宗の「信心」は、「私が信じる心ではなく、『私をたのめ、必ず救う』という阿弥陀仏の心(本願)を疑いなく受け容れた心」、つまり、「阿弥陀仏からいただいた心(信心)」であるといわれます。この疑いなく受け入れたことを信心決定と言いますが、仏教を聞く上での要(かなめ)です。                              


 蓮如上人は『御文章』に「信心をよくよくとらるべし」「他力の信心ということを一つ心得べし」「いよいよ信心決定して」「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」等々、信心決定することの大切さを至る所で述べておられます。 


 特に御文章五帖第十六通(白骨の章)には、次のように書かれ、人生のはかなさが実感させられます。「されば、人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」。 


 人世は無常です。誰の人も、はやく阿弥陀仏の心(本願=仏願)を疑いなく受け容れて、他力回向の信心を獲ることが求められています。                   

( Nothing is certain in this world. Everybody is asked to soon accept Amida’s

mind or Amida’s Primal Vow without a doubt and rearise the shinjin of Amida’s

directing merit. )

2017-09-21

Does the Spirit Exist?(霊は存在するのか) Does the Spirit Exist?(霊は存在するのか)を含むブックマーク Does the Spirit Exist?(霊は存在するのか)のブックマークコメント

 私は、昭和五十五年(一九八〇年)から平成三年(一九九一年)にいたる十一年余の間に、実に二千四十六名にわたる葬儀を執り行わせていただきました。            

 その多くは葬儀社からの依頼によるものでしたが、ほとんど毎日が、通夜に葬儀という日々でした。                                   

 このことを通して、私は実に特異な体験をすることができました。    

      

 それは、亡くなった方、すなわち「死者の霊」についての体験です。   

      

 死後、人は無に帰すのでしょうか。あるいは、霊魂として存在し続けるのでしょうか。そもそも霊魂があるのかということは、「信じる」か「信じない」かの問題だと一般的に思われています。けれども私にとって、霊魂は、「たしかに実在するもの」なのです。これは、宗教的な確信や信仰の問題ではなくて、私にはたしかに「在る」あるいは「いる」という実感としてわかるからです。                             

 一般的に言われている「霊」はたしかに実在するのです。私は、これを「本人」とよんでおります。(仏教的には「仏性」と言うのでしょうが……)。その「本人」をわかる方もいますし、わからない方もいます。                           

 そして私には「わかる」し、「実感できる」のです。二千件を超す葬儀の体験によって、私は霊の実在を確信するようになったのです。                    

 私にとっては、霊が「在る」のは、もう前提であり、「わかるか、わからないか」「実感できるか、実感できないか」なのです。                        

【『死んだらおしまい、ではなかった』浄土宗大念寺住職:大島通澄PHP研究所】    

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 私がこの話題を取りあげましたのは、ずっと以前に、ある人が言った「人間は死んだら消滅してしまうものだ」という言葉が強く残っていたからです。              

 因みに、死後の世界観に関して、ある機関の調査によりますと、消滅してしまうと思っている人の割合が、20%弱あるといいます。一方、別の機関の調査では、輪廻転生を肯定する人が40%強あるとのことです(浄土真宗では、輪廻転生すると教えられています)。    

 ところで、上記著書の著者である大島師は、浄土宗大念寺の住職です。大島師は「まえがき」の中で、「私の実感した故人の魂を客観的なデータとして、残しておきたいと思いました。私の主観的な思いこみではなくて、客観的なデータとして信憑性をもたせるには、二千件のデータが必要だとのこと」と言われ、このことを念頭に置いて葬儀に取り組んでこられたことが書かれています。                             


 大島師からすれば「霊が‘在る’のは、もう前提である」のです。このことは、仏教を聞く上では極めて大事で、「後生の一大事を心にかけて」と、蓮如上人が『御文章』の中で繰り返し言っておられるように、死後(の世界)が無ければ、仏教は成り立ちません。   

 特に、死んだら消滅してしまうと思っている人には、「死んだら、おしまいではなかった」と知って、浄土真宗の教えを聞いてほしいものと思います。               

( I especially want those who think they disappear when they die to know that

they do not finish their lives even if they die and hear Shin Buddhism. )

手品師手品師 2017/09/24 13:31 「人間は死んだら消滅してしまうものだ」という人には、説得力のある書籍かもしれないですね。
また、浄土真宗と浄土宗の教えの違いも明確になりました。かなりのギャップがありますね(笑)。

miko415miko415 2017/09/24 14:30 コメントありがとうございます。
おっしゃる通りです。著者の大島師は浄土宗、大念寺の住職さんですから、書物の内容は、浄土真宗の教えと、かなりギャップがありますね。

2017-09-13

A Fresh Morning(さわやかな朝) A Fresh Morning(さわやかな朝)を含むブックマーク A Fresh Morning(さわやかな朝)のブックマークコメント

 今年の夏を振り返ってみますと、私の住む地方では、梅雨明けが平年より10日ほど遅れました。その上、梅雨明け宣言が出された後も、台風などの到来で曇り空の日が続き、ほとんど毎日雨が降り、蒸し暑くて、まるで再び梅雨空に戻ったような日々でした。カラッと晴れて、夏らしい太陽が照る日があっただろうか、と思い出せないくらいです。      


 ところがどうでしょう。数日前の早朝の空には、まるい月がくっきりと浮かんでいたのです。本当に久々に見る月でした。空は真っ青で、空気も優しくひんやりとして、ウォーキングには心も弾む爽やかな朝だったのです。それに、草むらの虫時雨が一層気分を高揚させてくれるようでした。                                


 どこまでもついてきてくれる月を見ながら、不思議と、すっと思い浮かんだのは法然上人の詠まれたという歌です。                             

 月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ             

( There is no place where the moonlight never reaches. However, it shines only

in the heart of a person who looks up at the moon. )


 この歌の意味を梯實円師が『聖典セミナー歎異抄』( p.35 ll. 7~13 )に書かれています。 

「さわやかな秋の月は、その光をすべての人のうえにわけへだてなくそそいでいますが、光を背にしてわが影だけを見つめるものは光の中にありながら光にあうことができません。ただわが身の黒い影におびえるばかりです。影は引きずりながらも闇を背にして月を仰ぐ人だけがさわやかな月の光を全身にあびて、心の底まで、澄みわたっていきます。まさにそのように、大悲の光明は、万人を平等に照らしたまうが、その教説を疑いなく聞きうけて、われもまた光明のなかにあり、とみ教えをあおいで念仏するもののみがさわやかな光のうちに人生を全うすることができるといわれるのです」


 今もなお、あの爽やかな朝に見たきれいな月が思い浮かび、梯師の書かれていることをそのまま受け入れることができる幸せを感じます。                   

2017-09-08

Even If an Age Changes(時代が変わっても) Even If an Age Changes(時代が変わっても)を含むブックマーク Even If an Age Changes(時代が変わっても)のブックマークコメント

 御文章二帖目第十二通に、蓮如上人は、「それ、人間の五十年をかんがへみるに…… 」から始めて、人々が一巻の聖教を読むこともなく、怠惰に日々を過ごす様子を嘆かれ、「このゆえに今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心を決定して真実報土の往生をとげんとおもはんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし」と書かれています。        

                               

 蓮如上人が在世中の、約600年前の室町時代には、人々の平均寿命はおよそ50歳だったことが窺われます。しかし現在の日本人の平均寿命は約84歳です。100歳を超える人も多く、当時から見ればずいぶん長寿になったものです。その上、世の中の変化や進歩が著しく、当時と比較すると隔世の感があります。 

                      

 でも、仏法の観点から見ますと、人々の仏法に対する熱意は当時とそれほど変わっていませんし、むしろ衰退しているようで、憂慮されるところです。時代が変わって文明の世になっても、人の幸福度はそれに比例して増しているわけではありません。         


 仏法の教えがだんだん勢いをなくしている現在こそ、真の幸せを得るためには、聞法が一層求められると思います。( It is at the present when the Buddhist teaching

has gradually lost its impetus that we are more requested to hear that teaching

in order to get true happiness.)