Hatena::ブログ(Diary)

お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2018-09-17

The True Teaching(真実の教え) The True Teaching(真実の教え)を含むブックマーク The True Teaching(真実の教え)のブックマークコメント

 あらゆる者を救いとる教えこそ真実の教え、究極の教えである。           

 親鸞聖人は仰せになる。                             

  それ真実の教(きょう)を顕(あらわ)さば                   

  すなわち『大無量寿経』これなり                        

 『大無量寿経』には、あらゆる人を念仏一つで救おうと誓われた、阿弥陀如来の本願が説かれている。                                   

 釈尊はその生涯をとおしてさまざまな教えを説き広められた。            

 この経が説かれるとき、釈尊のお顔は、いまだかつてないほどに悦(よろこ)びにあふれ、気高く光り輝いておられた。                            

 あらゆるものを救いとる阿弥陀如来の本願を説くことこそ、この世に出られた目的だったからである。                                  

    【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】       

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 親鸞聖人は『大無量寿経』が真実の教えであると断定されました。お釈迦様がこの世に出現され、阿弥陀仏があらゆるものを救うという本願を『大無量寿経』の中に説かれていることを明らかに示しておられるからです。                       

 お釈迦様が『大無量寿経』をまさに説法される段になった時の様子が上記には「釈尊のお顔は、いまだかつてないほどに悦びにあふれ、気高く光り輝いておられた」とあります。お経の中には「光顔巍々(こうげんぎぎ)」という言葉で表されていますが、とてもインパクトのある言葉に感じます。いよいよ出世の目的を果たす時であるというお釈迦さまのこの上ない喜びの気持ちが伝わってきます。                       

 私たち衆生にとっても、お釈迦さまが仏教を開いて下さったからこそ、真実の教えに出あうことができたのですから、この上ない喜びであります。加えて、お釈迦さまは世界の三大聖人といっても筆頭にあげられるほど信頼される方であり、とても頼もしくもあります。(もっとも、釈迦牟尼と呼ばれる方ですから当然といえば当然ですが)。        


To reveal the true teaching : It is the Large Sutra of the Buddha of Immeasurable Life.

    (それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり)         

rr 2018/09/18 10:46 mikoさま
ごぶさたしております。お元気ですか?
 
お釈迦様と親鸞様の素晴らしさは、お念佛のおいわれを聞けば聞くほど、お聖教を読めば読むほど、驚かされるばかりです。
 
何よりも私を仏にする阿弥陀様に出会うことは、お釈迦様と親鸞様がおられなければ実現しなかった・・・、お二人は阿弥陀様と重なる、と味わっております。
 
すばらしい記事を読ませていただけて嬉しいです。
御体ご自愛くださいませ。
南無阿弥陀仏

miko415miko415 2018/09/18 15:17 rさま
コメントありがとうございます。                          

「何よりも私を仏にする阿弥陀様に出会うことは、お釈迦様と親鸞様がおられなかったら実現しなかった」。全くその通りですね。また、「お二人は阿弥陀様と重なる」、すばらしいお味わいだと感心しています。                           
コメントを読ませていただき、元気をもらいました。                 
ありがとうございました。

2018-09-12

Child Abuse and Karmic Cause(児童虐待と業縁) Child Abuse and Karmic Cause(児童虐待と業縁)を含むブックマーク Child Abuse and Karmic Cause(児童虐待と業縁)のブックマークコメント

 親による児童虐待事件はよく聞く話です。ついこの前も3、4歳の頃、母親から虐待を受けたある女性(44)の話が朝日新聞に出ていました。内容は次のようです。       

 「女性は、当時いろいろの決まり事を母から課せられ、それが出来なかった時は、たたかれたり、蹴られたりしていました。父親は仕事でほとんど家にいませんでした。泣き叫ぶと母は馬乗りになって、女性の口に粘着テープをはったり、ある時は、のどに指を突っ込まれ爪でひっかかれて出血したこともありました。病院に連れていかれたけれど、母が怖くて医師に怪我の理由を言えませんでした。                        

 大人になって、「児童虐待」という言葉を知り、自分の身に起きていたことは虐待だったと気づいたのです。母に問い詰めても、「覚えていない」と言われた時、女性の中で長年の感情がプッツンと切れてしまったのです。「許せない」。女性は2年前、父母の戸籍から抜ける「分籍」の手続きを取ったといいます」。                     


 我が子ののどに指を突っ込んで爪で引っかくとは想像を絶するような異常な行為です。また、「分籍」という制度があることを初めて知りました。ただ、分籍しても親子の縁が切れるわけではないそうで、どのようなメリットがあるのか分かりませんが、そうせずにはおれない女性の気持ちがあったのだと思われます。                   


 幼い頃の我が子といえば、どの親にとっても目に入れても痛くないと言われるほど可愛いものです。でも、このような非情な虐待がどうして起こるのか、類する話を聞きますと、私は親鸞聖人の言われた「さるべき業縁の催(もよお)せば、如何なる振舞(ふるまい)もすべし」(『歎異抄』第十三条)の言葉を思い出します。例えば、殺人は悪い事だと身に染みるほどわかっていても、もし自分が殺されるとなった場合はどうでしょう。逆に相手を殺してしまうかもしれないのです。決して許されないことを犯してしまうことはあるでしょう。さるべき業縁がそのようにさせてしまうのだと教えられています。人間の業の深さを思い知らされます。                                  


If the karmic cause so prompts us, we will commit any kind of act.

 (さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし)                 

2018-09-08

Sentient Beings(凡夫) Sentient Beings(凡夫)を含むブックマーク Sentient Beings(凡夫)のブックマークコメント

 親鸞聖人は仰せになる。                             

 凡夫というは 無明煩悩われらが身にみちみちて 欲もおおく いかり はらだち そねみ ねたむこころおおくひまなくして 臨終の一念にいたるまで とどまらず きえず たえず                                      

 凡夫は、命終るその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言う。すべてのことを私中心にみて争いをおこし、欲望、怒り、妬みに、心と身体を悩ませ苦しみ続ける。      

 仏法に出あうとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。念仏申すひぐらしの中に、ありのままの私の姿を見せていただく。   

   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】         

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 凡夫というもの、すなわち他ならぬ私の真の姿が明らかにされています。       

 煩悩に満ち満ちた私に違いないと、「念仏申す日ぐらしの中に、ありのままの私の姿を見せていただく( I am shown what I really am in a daily life in which I say the nem-butsu. ) 」のです。仏法との出あいがあればこそ、知らされることです。             

2018-09-03

The Field(畑) The Field(畑)を含むブックマーク The Field(畑)のブックマークコメント

 こころを育てる畑を荒らさないように  (東井義雄)               

 (ほのぼのカレンダー ういず仏教文化研究会編集)<9月の言葉>より       


 心を育てる畑、すなわち心を豊かにし、人間らしい人に成長させるものと考えますと、芸術や学問、活動、興味などといった様々な分野、領域にあるものがあげられますが、私は仏教こそ最適の畑ではないか、と考えます。                      

 そうしますと、仏教という「畑を荒らさないように」とは、仏の教えを誹謗したり、粗末にしたりしないことです。当然のことながら教えが心に浸潤すれば、そのような荒らす行為は自ずと消滅するとともに、心も自ずと育てられていくのです。            


Don't damage the field which brings up mind.

(こころを育てる畑を荒らさないように)                 

2018-08-30

The World of a Child of Two(2歳の世界) The World of a Child of Two(2歳の世界)を含むブックマーク The World of a Child of Two(2歳の世界)のブックマークコメント

 過日、山口県の山中で2歳0カ月の男児が行方不明になり、3日後に曾祖父宅近くから約560メートル離れた山中の沢で無事保護されるというできごとがありました。      

 連日の猛暑の中で起きたことです。幼児であるだけに、なぜ熱中症になることもなく、また、なぜ体力が持ったのか、心理面はどうだったのか、新聞(朝日)に報じられていたことに関心を引かれ、まとめてみました。                        


 まず熱中症については、子供の事故に詳しいある医師の話では、「沢の近くで比較的涼しく、木陰で休憩できていた可能性が高かったことが功を奏したのではないか」ということです。また、体力面については、「水分は沢の水などを飲んで取った可能性があり、体脂肪を消費することで体力を維持した」ことがあげられています。              


 では、たった一人で2晩過ごしていたとしたら、心理状態はどんなものだったのか。2歳児などの心理を研究するある心理学者の話は次のようです。「大人が思う以上に冷静で、夜の暗闇も怖くなかった可能性はある。実際に2歳頃までの子供は部屋を真っ暗にしても怖がらず眠れることが多い。ところが、4〜5歳になると見えないものを想像する力が育ち、暗闇で葉が揺れる音におびえたりしてパニックになる可能性が高い」。          


 このようなことから考えますと、2歳児だからかえって良かったのではないかと思われます。ただ、この夜の暗闇については、その場所を実際に夜、訪れて取材したあるテレビ局のレポーターによりますと、一寸先も見えない漆黒の闇といった状態だったそうです。  


 次に、男児が一人で山に入って行った心理について、同心理学者の話は、「2歳児は、下半身が安定してきて、歩いたり、跳ねたりすることが楽しくてしょうがない時期であり、また、好奇心が強くなる時期だからではないか」ということでした。それに、「実際に、2歳児がチョウやトンボ、木洩れ日、風の音など数メートルずつ夢中になるうち何百メートルも移動していた」というのもよくあることだといいます。                


 私自身は2歳の頃のことは何も覚えていません。当の男児は、ほとんど誰もが体験したことのないような強烈な体験をしたと思われますから、大人になっても覚えているものでしょうか。                                    


 ともあれ、無事に保護されたことは非常に喜ばしいことです。生まれ難い人間に生まれた大切な、大切な命です。仏教信者の一人として、男児には是が非でも仏教を聞く人に成長してほしいと願わずにおれません。( Anyway, it is really delightful news

that the child was protected safe and sound. He was born in this world although being born a human being is very difficult. That’s why his life is extremely precious. I, as one of the believers of Shin Buddhism, cannot but hope that he will hear the Buddhist

teaching at all costs in the future. )

2018-08-25

Question toward Life Itself(人生そのものの問い) Question toward Life Itself(人生そのものの問い)を含むブックマーク Question toward Life Itself(人生そのものの問い)のブックマークコメント

 日々の暮らしのなかで、人間関係に疲れた時、自分や家族が大きな病気になった時、身近な方がなくなった時、「人生そのものの問い」が起こる。「いったい何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」。                           

 この問いには、人間の知識は答えを示せず、積み上げてきた経験も役に立たない。   

 目の前に人生の深い闇が口を開け、不安のなかでたじろぐ時、阿弥陀如来の願いが聞こえてくる。                                     

 親鸞聖人は仰せになる。                              


 弥陀の誓願は無明長夜のおおきなるともしびなり                  


 「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火(ともしび)となる。この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか、「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。                   

   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】        

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 私にとっても、「何のために生きているのか」「死んだらどうなるのか」が大きな問題でした。浄土真宗の教えを聞き、この二つの答えがはっきり知らされたことは、何物にも代えがたい喜びです。                                  

 もし仏法に出遇えなかったら、と思いますと、一寸先は闇で、かつ線香花火のようなはかない世にあって、どんな人生になっただろと不安でいっぱいになります。        


 これからも如来の本願の灯火(ともしび)に導かれながら、「南無阿弥陀仏」とともに日々を重ねていきたいと思います。( Led by the light of Amida Buddha’s Primal

Vow, I’ll continue to live my life together with “Namu-amida-butsu”. )

2018-08-20

Unexpectedly( ふいっと ) Unexpectedly( ふいっと )を含むブックマーク Unexpectedly( ふいっと )のブックマークコメント

 ここで確認したいことは、教育が人知における同質的な変化、つまり人知の延長で何かがわかること(知識の吸収や創出)であるのに対し、仏の教化に浴することは、人智とまったく異質な仏智にふれることですから、実際の体験としてかならず人知からの飛躍がともなうということです。                                

 深く聞法して、自らの人生を真剣に生き抜かれた人を、真宗仏教は「妙好人」と呼んで讃えていますが、その一人に“因幡の源左さん”という人のことが伝えられております。その源左さんの言葉に、                                

   ふいっと わからして もらったいな                     

というのがあります。悶々(もんもん)とした求法の歩みの中で、ある日、あるとき、思いもよらず、「あっ、そうか」と心眼がひらけた一念を言い表した言葉でしょう。      

 「ふいっと」というところに飛躍があります。私たちは、仏法なんて徐々にわかることだろうと思っているわけですが、実は「ふいっと」という飛躍が最も肝要です。「さとり」とか「獲信(ぎゃくしん)」は、決して私たちの理知の延長上で何かがわかるというということではないのです。それなら、わかった自分とわかったこととは同質ですから、救いになるはずがありません。「自覚」や「覚醒」は異質なものとの出遇いですから、かならず飛躍があるのです。意外性とも言えるゆえんでしょう。                   

     【 『浄土真宗入門 親鸞の教え』 池田勇諦 東本願寺出版 】          

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 浄土真宗の要とされる「信心決定」や、「獲信」ということについて、とても分かりやすく書かれています。                                

 注意すべきことは、「私たちは仏法なんて徐々にわかることだろうと思っているわけですが」「“さとり”とか“獲信”は、決して私たちの理知の延長上(人知の延長)で何かがわかることではないのです」。きちんと押さえておきたい所です。              

 源左さんの言った「ふいっと わからせて もらったいな」は、「“あっ、そうか”と心眼がひらけた一念を言い表した言葉」であり、「“ふいっと”というところに(人知とまったく異質な仏智にふれた)飛躍がある」と池田師は言われます。              

 まさに、「ふいっと」は一念を言い表すみごとな表現になっています。         


I was unexpectedly enlightened.

    (ふいっと わからして もらったいな)