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お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2018-05-19

How to Live ‘Now’(「今」をどう生きる) How to Live ‘Now’(「今」をどう生きる)を含むブックマーク How to Live ‘Now’(「今」をどう生きる)のブックマークコメント

 釈尊は次のように説いている。過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。未来はまだやってこない。だから現在のことがらを、現在においてよく観察し、揺らぐことなく、よく見極めて実践すべし。ただ今日なすべきことを熱心になせ」と。       

 私たちが、過去を思い、将来のことを考えるのは「今」である。大事なのは「今」をどう生きるかである。いたずらに「過去はこうであった」「未来はこうなる」という言葉に依存してはならない。「今」をどう生きるか、「今」をどうするのか、そこに努力を専注すべきである。                                      

   【『五濁の時代に 念仏の導き(上)』 木村宣彰 北日本新聞社新書】      

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 古歌に「世の中は今よりほかはなかりけり 昨日は過ぎつ明日は知られず( There

is no time but ‘now’ in this world. Yesterday has passed and there is no knowing

whether or not we will live tomorrow . ) 」という歌がありますが、「今」の大切さを改めて感じさせられます。                               

 「『今』をどう生きるか、『今』をどうするのか」を念頭に置き、お釈迦様が教えられるように「ただ今日なすべきことを熱心になす」ことが大切だと思います。          

2018-05-15

Couse and Effect(因果) Couse and Effect(因果)△魎泙爛屮奪マーク Couse and Effect(因果)△離屮奪マークコメント

 前回の「因果」に引き続き、因果に関する世界の諺を少し集めてみました。[  ] 内は日本における表現です。                                


*蒔いた種は刈り取らなければならない。[蒔かぬ種は生えぬ] (西洋)        

As you sow, so shall you reap.

*収穫は種を蒔いたあとに来る。[蒔かぬ種は生えぬ] (西洋)            

Harvest follows seedtime.

*卵を割らずにオムレツを作ることはできない。[蒔かぬ種は生えぬ] (西洋)     

You cannot make an omelet without breaking eggs.

 以上3つの意味;                                  

「原因がなければ結果はないこと」                         


*捕まえに行った者が自分自身捕まえられる。[ミイラとりがミイラになる](西洋)    

We who went to catch are ourselves caught.

 意味;                                        

「人を連れ戻しに出かけた者がそのまま帰ってこなくなる。転じて、相手を説得するはずが、逆に相手に説得されてしまう」                            


*犬を可愛がって洋服をよごされる。[飼い犬に手をかまれる] (イギリス)       

Caress your dog and he will spoil your clothes.

 意味;                                        

「恩顧を与えた者から、思いがけず害を受ける」                    


*ダイヤモンドを切るのはダイヤモンドだ。[毒をもって毒を制す] (イギリス)     

Diamond cuts diamond.

 意味;                                        

「Poison quells poison.(毒をもって毒を制す)ということで、悪事をおさえるのに悪事をもってすること。すなわち、悪いものを良くするのに、同じく悪いものを利用して好転させようとすること」                                  


*呪いはひな鳥のようにねぐらに帰る。[人を呪わば穴二つ] (イギリス)        

Curses like chickens, come home to roost.

 意味;「呪いはひよこがねぐらに帰るように、わが身に返るものだ」           


*人のために穴を掘る者は自分が落ちる。[人を呪わば穴二つ] (ドイツ)       

He who digs a pit for others fall into it himself.

 意味;                                       

「‘穴’は墓穴のこと。他人を呪い殺せば自分も相手の恨みの報いを受けて呪い殺される。だから、相手を埋めるためと、自分を埋めるための二つの墓穴が必要になる」      


*策略には策略。[目には目 歯には歯] (フランス)                 

Cunning against conning.

 意味;                                        

「An eye for an eye, and a tooth for a tooth.(目には目 歯には歯)ということで、害を加えられたら、やられたのと同等の報復をすること」                


*泥棒をして泥棒を捕まえさせよ。[蛇(じゃ)の道は蛇(へび)] (ラテン)      

Let a thief catch a thief.

 意味;                                        

「蛇が通る道は仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類の者にとって、同じ仲間のことなら何でもすぐにわかるということ」                           


※上記の諺はほんの数例ですが、表現は違いますが日本にもあるものです。政治も文化も環境も異なる国々で、表現の仕方が違うだけで内容は同じ諺が使われていることに、ちょっと驚きます。でも世界広しといえど、同じ人間、思いや考え方に変わりはないのは当然かもしれません。                                    

2018-05-11

Cause and Effect(因果) Cause and Effect(因果),魎泙爛屮奪マーク Cause and Effect(因果),離屮奪マークコメント

 仏教が説く因果は、自分の言葉や行動が巡り巡って再び自分を悩ますという形で現実化してくることを教えている。ことわざに「因果は巡る車の輪」とあるように、自分の蒔いた種が他人を通って再び自分に還ってくる。                      

 この世の人間関係はすべてそういう形をとるが、現代人はそのことに気付く自覚力や反省力が乏しくなっている。                             

 自分自身を反省する力が希薄になると、他人が自分を悩ませて痛めつけるという面だけが意識に上ってくる。自分を悩ませる原因は常に外部にあるという意識が強くなると、自分が他人を悩ませているという自覚がなくなる。いつも他人が悪いと考えて他人を責める。そして他人から冷淡にされたり批判されたりして自分自身が悩み苦しむことになる。自分が悩むのはもとは自分の無反省によるのだから、そのことを反省すべきであるが、もともと無反省だからそれができない。                            

 五濁の世では人間がとめどなく自己中心的になり、そのためにお互いに反省力が希薄になっている。人間関係には自分から相手を見るだけでなく、常に相手の立場から自分自身を見ることが是非とも必要である。                          

 古来、広く仏教徒に読誦されてきた『法句経(ほっくぎょう)』(ダンマパダ)は、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う」という仏陀の言葉で始まる。この意味深い言葉は、現代のわれわれに深い反省を促し、生きる上の指針を示している。      

   【『五濁の時代に 念仏の導き(上)』 木村宣彰 北日本新聞社新書】      

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 ここに書かれています「因果は巡る車の輪」という諺が、因果関係を如実に示していると思います。類句に「因果の小車(おぐるま)」という諺がありますが、「悪い原因があれば悪い結果が小さな車輪がくるくる回るようにすぐにめぐりめぐってくる[故事ことわざ辞典]」ものだと言われます。                               

 とかく自分中心にしか考えられない私たちは、悪い結果がくると、すぐに他人のせいにしてしまいがちです( We can’t but think things centered on ourselves, so we

would be apt to accuse others when anything bad happens to us.)。現今の五濁の世では、特にこの傾向が強くなっていると言われます。「相手の立場から自分自身を見ること」また、『法句経』に説かれている「ものごとは心にもとづき、心を主として…………………. 苦しみはその人に従う」の仏陀の言葉等からは、まず自分自身を反省することの大切さを思います。

2018-05-06

A Dense Fog and Earthly Desires(濃霧と煩悩) A Dense Fog and Earthly Desires(濃霧と煩悩)を含むブックマーク A Dense Fog and Earthly Desires(濃霧と煩悩)のブックマークコメント

 先日の朝5時、家の辺りは濃い霧が一面に立ち込めていました。視界不良の中をいつもの公園にウォーキングに出かけたのですが、そこでも、同様の状態でした。以前も、このような濃霧の中を歩いたことを思い出したのですが、あの時感じたファンタスティックな気分とは程遠く、何だか、身体をすっぽりと覆う濃霧が、私の心を覆う煩悩のむら雲を具現して見せてくれているような感じがしたのです。                    


 これ程までに具体化されて見せられると、すごい状態だなぁと思うと同時に、心の様子というものがよく分かったようにも思いました。そして、このような心の状態では、自分自身を客観的に、正しく見る、などという事は到底不可能だと納得したのでした。それもそのはずです.....      


 すべてを正見(しょうけん)される阿弥陀さまに教えていただかなければ、本当の自己というものは分かるはずがないのです。( We cannot appreciate our true selves if

we are not taught by Amida Buddha who sees everything right. )


 ※ http://d.hatena.ne.jp/miko415/20170703 (濃霧の中で)            

2018-05-02

In Myself, Too(私の体の中にも) In Myself, Too(私の体の中にも)を含むブックマーク In Myself, Too(私の体の中にも)のブックマークコメント

私の体の中にも「ありがとう」と お念仏の灯がともってくださる     

                           (東井義雄)                                       

 (ほのぼのカレンダー ういず仏教文化研究会編集)<5月の言葉>より       


 心の中で「南無阿弥陀仏」(「ありがとうございます」)と念仏がこぼれます。無意識のうちにも、ポッと「ともってくださる」灯です。阿弥陀さまはいつも私とご一緒です。   


The light of the Nembutsu ‘Namu-amida-butsu’ lights thankfully in myself, too.

(私の体の中にも「ありがとう」と お念仏の灯がともってくださる)         

2018-04-27

A Journey(旅) A Journey(旅)を含むブックマーク A Journey(旅)のブックマークコメント

悲しい自分が見る風景は悲しい                           

             関川夏央                        

 旅情には「失意と悲哀」がつきものだ。車窓をよぎる風景の中に、「悲嘆にくれる自分」が含まれて旅情は成り立つと作家は言う。かつて人は流行歌の中で「北帰行」や、「海峡」にそのような思いを込めた。駅では別れを惜しみ、沿線では人々が汽車に向かって手を振った。「汚れた過去」からの避難場所として旅はあった。では、昨今の旅の「情」とは?『豪雨の前兆』から。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一 より)          


 「悲しい自分が見る風景は悲しい」の「悲しい」の部分を、例えば「楽しい」に置きかえれば「楽しい自分が見る風景は楽しい」になります。この部分には、喜怒哀楽のいろいろな感情が当てはまり、その時々の自分の気持ちの違いによって風景も違って見えるものです。ですから、私は「昨今の旅の“情”」も、昔とさほど変わらないのではないかと思います。                                   


 ところで、人生はよく旅に譬えられますが、私たちはどのような旅をしているのでしょう。このことを仏教の観点から考えるとき、「正信偈」の中の次の一節が思い浮かびます。「無明の闇は晴れても煩悩の雲は消えずに、たえず真実信心の天を覆っている。しかし、たとえ日光が暗い雲一面に覆われても、その雲の下は明るくて闇がないようなものである」。つまりここで言われていることは、「煩悩の雲で覆われた私たちの人生の旅は、絶えず苦しみや悩みに晒され続けますが、仏法を聞いて無明の闇が晴れた人の心の底は、常に明るくて闇が無い」ということです。                               

 以上のようなことから、仏教の観点から見た「旅の“情”」は次のように言えるでしょう。               


「実際に行われるいろいろな旅は、それぞれが長い人生の旅の一コマ一コマですから、真実の信心を得た人の「旅の“情”」は、いつでも、どこでも、心は明るく喜びが多い」ということです。( We take various trips. Each of them is one scene in our life’s

journeys,so an enlightened person’s feelings of each trip are always bright and joyful in the bottom of his heart. )

2018-04-24

A Sense of Incongruity(違和感) A Sense of Incongruity(違和感)を含むブックマーク A Sense of Incongruity(違和感)のブックマークコメント

 山折哲雄(宗教学者)さんが、朝日新聞be紙面の「生老病死」というご自身担当のコラムで書かれていることですが、4月14日付のテーマは「二つの散り際 私の中の違和感」でした。その中で、葉っぱのフレディという物語のあら筋がこのように書かれています。 

 「一枚の葉っぱが四季を通じて姿を変えていき、最後は土に落ちる。けれども翌春には、また若芽を出し、葉を茂らせる、そのための養分になる。そのように筋を追いながら、いのちが自分ひとりで終わるのではなく次の世代また次の世代へと受けつがれていく。われわれもまた同じような運命を生きていくのだ」                     


 この物語についての山折氏の感想は次のようです。                 

 「‘葉っぱのフレディ’の話をきくとき、私はいつも良寛の作と伝えられる有名な俳句を思い出していた。                                 

   裏を見せ表を見せて散る紅葉                         

である。人の最後は紅葉が散るときのように、オモテの明るい面をみせたりウラ側の寂しい暗い影をみせたりしながら、ひらりひらりと、ゆっくり落ちていく……。        

 良寛の紅葉は「散っていく」けれども、葉っぱのフレディは「いのちをつないでいく」。紅葉はおそらく、枯れはてて散り、最後は土に返る。だがフレディは土に落ちるけれども生命をつないでいく。両者の終わり方はたしかに似ているけれども、しかしどこか違っている。良寛の紅葉には死の意識がのせられているけれども、フレディの方はそれがどうも希薄である。あるいは死の影が消えている。その違いの感覚が私のからだのどこかに残っていたのである」                                     


 この葉っぱのフレディの話は、中学三年生の英語の教科書に出ていたのを読んだことがあるのですが、「死」に対するイメージが私の感じるそれと、どこか違うなとモヤモヤ感が残っていました。でも、山折氏は、良寛の紅葉とフレディ両者の終わり方の微妙な違いを、前者には「死の意識がのせられている」、後者には「死の影が消えている」と表現されていて、とても分かり易く、気持ちがスッキリしました。                 


 私のような真宗信者からすれば、フレディの死に対する意識には、どうしても違和感を覚えてしまうものです。( As for believers of Shin Buddhism like me, we will

necessarily feel a sense of incongruity to Freddie’s consciousness to death. )