Hatena::ブログ(Diary)

お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2019-01-18

Impossible(不可能) Impossible(不可能)を含むブックマーク Impossible(不可能)のブックマークコメント

 rさんのブログ “仏教コラム『他力信心の世界』”を拝読していて、次の文  (2018/11/14)に感銘を受けました。                               

 「…… いくら私が『疑蓋(本願疑惑心)を取り戻したい』と思ったとしてもそれは不可能なのである。つまり獲信者が未信に戻ることはできない、ということだ。たとえお釈迦さまご自身が、私の目の前で否定したとしても、だ。」                  


 他力信心の極みといったものが明文化された表現のように感じました。特に、「獲信者が未信に戻ることはできない(An enlightened person can not return to the former

unenlightened one.)。」という言葉がストンと心に落ちた感じです。          

2019-01-14

Gender (性別) Gender (性別)を含むブックマーク Gender (性別)のブックマークコメント

 英訳親鸞聖人著作集の中の一冊、『SHINRAN (Vol.)』には,このように書かれています。                            

It may be noted that in general the Chinese and Japanese languages do not employ

gender-specific references, ………………………………………………………….

Gender-specific reference to Amida has been avoided as far as possible to reflect

Shinran’s texts. (一般に、中国語や日本語では性別を明確に言及することはないようだ。(略) 阿弥陀仏に対して性別を言及することは、親鸞聖人の原典(における考え)をできるだけ反映する意味合いから避けられてきた)。              


 前回書きました英文、The Buddha is always right whenever you consult the Buddha.の最後の部分のthe Buddhaは、最初は himと書きました。(現在 himはthe Buddhaに訂正してあります)。                               

 最初 himと書いて、ハタと、阿弥陀仏を「彼」、つまり男性と断定してもいいのだろうかと思ったからです。上記英文によりますと、阿弥陀仏に対しては性別の明確な言及はしないということですから、himと書くのは間違いだったわけです。この世に人間として生まれられたお釈迦さまは、れっきとした男性です。ですから、(性別などに関心がなかったことも事実ですが)単純に阿弥陀仏も男性だと思っていたわけです。しかし、よくよく考えてみますと、阿弥陀仏は、「仏説感無量寿経」には「阿弥陀仏は神通如意にして、十方の国において変現自在なり」と書かれていますように、私たち凡夫とは境界が違う仏様であり、そのお働きも智慧も、凡夫の智慧では計り知れないものです。ですから性別を言及しないというのは当然のことだと思われます。                              

2019-01-10

In Being Led by Light(光に導かれて) In Being Led by Light(光に導かれて)を含むブックマーク In Being Led by Light(光に導かれて)のブックマークコメント

 真っ暗闇の長いトンネルの中で右往左往している者にとっては、何よりも求められるのは灯火(ともしび)です。灯火は長時間の暗闇であっても一瞬にして破り、自分の居場所を明らかにしてくれます。この暗闇こそ、人間の煩悩から生まれ出た迷いの世界です。そしてこの灯火こそ、阿弥陀如来智慧のはたらきです。                  

            (略)                          

 「われにまかせよ、必ず救う」というよび声(お念仏)のはたらきが、わたくしのいのちを正しい方向に導いてくれるのです。親鸞聖人は苦悩の多いご生涯を、阿弥陀如来の本願(誓願)を依りどころとして生き抜かれました。迷いの大海を、大きな船に乗せて間違いなく安心して真実の世界に渡してくれるのです。                    

 浄土真宗には妙好人といわれる信者像があります。   (略)           

 その中の一人に因幡の国(現在の鳥取県)に源左さん(1842〜1930)という妙好人がおられます。この源左さんに「困ったことがあれば親さんに相談しなさい。いつ相談しても親さんは間違いがないからなあ」ということばが伝えられています。親さんとは無明の闇を破り、わたくしを護りぬいてくださる阿弥陀如来のことなのです。            

 【 『「拝読 浄土真宗のみ教え」の味わい』 藤井邦麿 本願寺出版社 】      

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 煩悩に覆われた暗闇の迷いの世界にいる私たちを、阿弥陀如来は「私にまかせなさい、必ず救う」と誓われています。そして智慧の灯火をもって導いて下さっているのです。   


 源左さんの言葉、是非実践しようと思います。                   

「困ったことがあれば親さんに相談しなさい。いつ相談しても親さんは間違いがないからなあ。( If you are in difficulty, consult Amida Buddha. The Buddha is always right

whenever you consult the Buddha. )」

2019-01-06

To Live One and the Same Life(同じ一つの命を生きる) To Live One and the Same Life(同じ一つの命を生きる)を含むブックマーク To Live One and the Same Life(同じ一つの命を生きる)のブックマークコメント

 以下 銑の意味を調べてみました。                       

 (性(ぶっしょう)(『広辞苑』)                 

  [仏] 一切衆生が本来持っている仏としての本性。涅槃経「一切衆生悉有仏性」。                                     

 ∧種性(ぶっしゅしょう)                           

  一切衆生が本来的に持っている仏性のこと。(『大無量寿経』上)          

 衆生                                     

  一切の生物。一切の人類や動物。六道を輪廻する存在。有情。(『広辞苑』)      


 以上のことから、すべての衆生(生きとし生けるもの)は、本来、生まれながらに仏性(仏になる可能性)を持っていることが分かります。仏性は阿弥陀仏より授かったものです。ですから、すべての衆生は同じ一つの命(阿弥陀仏の命)を生きていることになります。  

 しかし、同じ一つの命を生きていると言いましても、阿弥陀仏の教えに出遭わなければ、六道輪廻の迷いの世界を経巡(へめぐ)ることになり、仏性は生かされません。唯一、仏教を聞ける人間界で仏の教えに出遭い、信心を得た上でのみ、仏性は生かされるのです。仏性を生かすも無駄にするのも私自身です。                       

 人間に生まれてこそ、仏教が聞けることを念頭に置いて、誰もが仏の教えに出遭いたいものです。                                     


 以下は大峯顯師の言葉です。                           

 「どの命もみな同じ一つの命の中で営まれ、その命を生きているのです(Any life of

all living things is being done in one and the same life, and it is living that life. )。鳥の命、私の命、それらはそれぞれ別々の個体の形の中にあるにもかかわらず、命であるというところでは何の変わりもありません。一つに溶けあい、垣根なく通じ合っています。その通じ合っているところを指して親鸞聖人は、『帰命無量寿如来』『南無阿弥陀仏』とおおせられたのでしょう」。(『命ひとつ__ よく生きるヒント』)より                

2019-01-02

Dharma Words Calendar< Jan.―Jun. >(法語カレンダー)<1月〜6月>(1) Dharma Words Calendar< Jan.―Jun. >(法語カレンダー)<1月〜6月>(1)を含むブックマーク Dharma Words Calendar< Jan.―Jun. >(法語カレンダー)<1月〜6月>(1)のブックマークコメント

(表紙)煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり                      

Without severing blind passions, they realize nirvana itself.

(1月)如誓願の薬はよく智慧の毒を滅するなり                 

The medicine of the Tathagata’s Vow destroys the poison of our wisdom and foolish-

ness.

(2月)聞くというは信心をあらわす御(み)のりなり                 

To hear the Primal Vow indicates the heart that entrusts to Amida.

(3月)われらは善人にもあらず賢人にもあらず                    

We are not good persons, nor are we persons of wisdom.

(4月)真実の信心はかならず名号を具す                       

True and real entrusting to Amida is unfailingly accompanied by saying the Name.

(5月)十方の如来は衆生を一子のごとくに憐念(れんねん)す             

The Tathagatas of the ten quarters compassionately regard each sentient being as

their only child.

(6月)無碍の光明信心の人をつねにてらしたもう                   

Unhindered light constantly illumines the person of the entrusting heart.

      【 真宗教団連合・出版広報委員会 】                  

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 2019年の法語カレンダーです。7月以降の法語は、7月に掲載することにしました。   

月毎の言葉を味わっていきたいと思います。                      


   上記法語の解説は真宗教団連合のホームページで見ることができます。

            http://www.shin.gr.jp/hogo/

2018-12-29

Being Sure to See the Deceased Again(かならず再び会う) Being Sure to See the Deceased Again(かならず再び会う)を含むブックマーク Being Sure to See the Deceased Again(かならず再び会う)のブックマークコメント

 先立った方々を思えば、在りし日の面影を懐かしく思うとともに、言いようのない寂しさを覚える。                                    

 親鸞聖人は、お弟子に宛てた手紙の中で仰せになる。                

  浄土にてかならずかならずまちまいらせ候うべし                 

 再び会うことのできる世界がそこにある。今ここで、同じ信心をいただき、ともに阿弥陀如来の救いにあずかっている。だからこそ、かならず浄土に生まれて再び会える確かさを、今喜ぶことができる。                               

 本願の教えに出あえた時、今ここで救われ、再び会うことのできる世界が恵まれる。  

   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】        

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 親鸞聖人のお言葉、「浄土にてかならずかならずまちまいらせ候うべし」を拝読しますと、とても頼もしく、またうれしく感じます。父母を初め、懐かしい人たちに再び会えるとは、「本願の教えに出あえた」からこそです。ここまで導いて下さった阿弥陀さまにただ感謝です。   


 「かならず再び会う」という意味で使われる仏教語に「倶会一処(くえいっしょ)」があります。                                     

 倶会一処(『広辞苑』)                              

  [仏]                                     

   ‖燭の人々がともに一処に集まり会うこと。                 

   阿弥陀の浄土に往生して、浄土の人々とともに一処に会同すること。      


I will surely wait for you in the Pure Land.

 (浄土にてかならずかならずまちまいらせ候うべし)                

2018-12-25

The Day of Today(今日という日) The Day of Today(今日という日)を含むブックマーク The Day of Today(今日という日)のブックマークコメント

 今月20日の午後、ゴーッと異様な音がしたような、また家もちょっと揺れたような気がして、「地震かな」と思ったのですが、それっきりだったので、何だったのだろうと思っていました。ですが、やはり地震だったことが後でテレビを見てわかりました。震度は1〜2程度でたいしたことはなかったのですが、今年は日本のあちこちで災害が多発して多くの人が犠牲になりました。情報を見たり聞いたりするだけでも気疲れしてしまったほどなので、ちょっとしたことでも神経が過敏になっているようです。             

 そのせいか、ふと「奇跡の一日」という言葉を誰かが言っていたのを思い出したのです。その人は「今日という一日を果たして無事に生きられるだろうかと思う」というほどの重い病気と戦っていた人だったように記憶しています。                  

 しかし、思う、思わないにかかわらず、誰にとっても今日という一日は「奇跡の一日」なのです。ある布教使の方は無常の風は時々吹くのではなく、いつも身の回りで吹いていると教えています。どの瞬間に無常の風に誘われるやわかりません。        


「奇跡の一日」は「今日という日の大切さ」を強く思い知らせてくれる言葉です。  

( “A miraculous day” is a phrase which intensely tells us about the importance of the

day of today. )