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お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2018-02-20

Always beside Us(いつも側に) Always beside Us(いつも側に)を含むブックマーク Always beside Us(いつも側に)のブックマークコメント

 誰かがいつも側にいて、黙って、あるいはうなずきながら聞いているのだった。                             小岩勉    

 原発の誘致か反対かで大きく揺れる中、1984年に運転を開始した女川原発。数年後に漁村の暮らしと生業(なりわい)を撮り始めた写真家は、訪れた家々で、地域に走った深い亀裂をめぐる話に耳を傾ける。傍らにはいつも静かにそれを聞く人がいた。 (略) 写真家『女川海(おながわうみ)物語』から。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一より)

 この「ことば」を読むとき、私には、「誰か」とは阿弥陀さまのように思えてなりません。と言いますのは、阿弥陀さまは行住坐臥に常に私たちの側におられるからです。従って、上記のような家族の話し合いの場であれ、多人数の、あるいは二人だけの場であれ、阿弥陀さまが、「いつも静かにそれを聞く人」として、私たちの側にいて下さるのです。     

 それだけで心が安らぎます。(The mere thought of the Buddha’s presence beside

us makes me peaceful.)

2018-02-13

Good and Evil(善と悪) Good and Evil(善と悪)を含むブックマーク Good and Evil(善と悪)のブックマークコメント

 親鸞の言葉15:仏の定めた善と悪                        

 善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。(私は善と悪、二つの事柄について何も知らないのだ。)(『歎異抄』後序)                           

 親鸞ほどの人間がものの善悪がわからない、というのだろうか。しかしここでいう善悪というのは一般的な善悪のことではない。仏の目から見た善悪のことをいっているのだ。われわれの考える善や悪は、「自分の都合」を通して判断しているようなものである。本当の善とは何か、悪とは何か、仏でなければわからないのではないか。「自分の都合」で構築されたこの世のすべては嘘偽りにまみれたものだ。だからこそ親鸞は何が善で悪なのかわからない、といったのだ。                               

       【 『親鸞100の言葉』 釈撤宗監修 宝島社 】           

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 上記の言葉の後に親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とも仰っています。煩悩にまみれた凡夫には、善悪の判断はできないことの証しであり、そこには、「自分の都合」を通してしか判断できない凡夫の姿があります。         

 詮ずるところ、善悪の正しい判断は、仏さまの目を通してしかわからないのではないか、ということから、聖人は、

「善悪のふたつ総じてもつて存知せざるなり。(I know nothing at all of good or evil.)」と言われたのです。                                 

 冷静に自己を内省された聖人なればこそ、の言葉だと思います。           

2018-02-07

Self(自己) Self(自己)を含むブックマーク Self(自己)のブックマークコメント

 各人がそれぞれ自己自身にもっとも遠い者である                  

                     ニーチェ                

「道徳の系譜」のなかで引かれているドイツの格言。最も見えにくいものは自分自身である。(略)  私の看板であるこの顔、それをよりによって自分だけが見られないことの怖さに心が凍りつく。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一 より)        


 いつもさらけ出している自分の顔を自分で見られないとは、恐ろしいことです。でも、まだ鏡がありますから少しは安心ですが…..。しかし、内面の「心の顔」である私という自己の姿はどうでしょう。「灯台下暗し」と言われますように、自己は自己に近すぎるために本当の姿が見えにくいのだといわれます。それに、煩悩で覆われた自己ですから、どうしても自身の本当の姿を正視することは不可能だと考えられます。では、他人の目に映った自己の姿はどうでしょう。この場合も、他人が100人いれば 100通りの自己が映りますから、本当の自己というものは分からないままです。                     


 では、一体どうすれば自己が分かるのでしょう。幸いにも仏教に、その答えが示されています。つまり仏教は真実の自己を映す法鏡でもあるのです。その法鏡に映し出された自己を親鸞聖人はこのように述べておられます。                      

 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して、出離の縁あることなし」(『愚禿鈔』)                             

また、

 「‘凡夫’といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)                             

(Foolish beings are full of ignorance and blind passion. Our desires are countless, and anger, wrath, jealousy, and envy are overwhelming, arising without pause; to the very

last moment of life they do not cease, or disappear, or exhaust themselves.) ( Notes on One-Calling and Many-Calling )


 法鏡(仏教)によらなければ、私たちの本当の自己は毛頭わからないと言えるでしょう。 

2018-02-02

The Important Messenger(大切なお使い) The Important Messenger(大切なお使い)を含むブックマーク The Important Messenger(大切なお使い)のブックマークコメント

 失敗は私の問題点を知らせにきて下さる大切なお使い(東井義雄)          

  (ほのぼのカレンダー ういず仏教文化研究所編集)<二月の言葉>より      


 この言葉から二つのことを考えてみました。                    

 まず、「失敗は成功のもと」と言われますように、失敗をしてもそれを反省し、その問題点を改めていけば、かえって成功するものだということです。反省の大切さといったものを感じます。             


 次に、東井氏は「私が何かで失敗した時、なぜ失敗したのか、私の問題点を知らせて下さるのは阿弥陀さまですよ」と教えておられるようにも思います。            

 と言いますのは、私たちは常に阿弥陀さまの善巧方便によって導かれているからです。( That is because we are always being led by the dexterous means of

Amida Buddha. )


 「失敗は私の問題点を知らせにきて下さる大切なお使い」              

( Failure is an important messenger that comes to tell me about my problem.)


※善巧方便:

巧みな手段。臨機応変にいろいろ巧みな方法によって人を導くこと[広辞苑]  

2018-01-26

Snow-covered Roads(雪道) Snow-covered Roads(雪道)を含むブックマーク Snow-covered Roads(雪道)のブックマークコメント

 ここしばらく極寒の日々が続き、先日は例年にない大雪が降りました。歩道や脇道は除雪されていない所が多く、そんな時、大量に積もった新雪の道を歩くのは大変です。だから、誰か一人でも歩いた長靴の跡があれば「しめた」と思います。多少歩幅が大きかろうが、道が曲がりくねっていようがその靴跡の通りに足を運びます。他の路地でも、一本だけ細くて曲がりくねった道ができているのを見かけることがあります。自ら別の新しい道を作って歩く人はまずありません。誰かの後についていく方が容易だとわかっているからでしょう。                                       


 このようなことから思うことは、新道(しんみち)を切り開くのは大変だろうな、ということです。どの分野でも必ず先駆者といわれる人がいますが、その人たちにすれば、どれほどの苦労があったことか、と思われます。                      

 さらにここから発展して思われるのは、仏教の先駆者である阿弥陀さまのご苦労です。境界の違う阿弥陀さまですから人間の比ではありませんが、一切の衆生の救済のために五劫にわたる思惟があったと説かれていることからだけでも明らかです。          


 法(のり)の道が既に開かれていたことは、何よりも有り難いことです。       

(I am grateful before everything that the Buddha-way has already been achieved.)


 先日の大雪の日に、悪戦苦闘しながら(と言ってもいいほど)歩いた後で、改めて感じたことでした。                                   

2018-01-20

The True Cause of Nirvana(涅槃の真因) The True Cause of Nirvana(涅槃の真因)を含むブックマーク The True Cause of Nirvana(涅槃の真因)のブックマークコメント

 親鸞の言葉04:ただ信じること                         

 涅槃の真因は ただ信心をもってす。(悟りの境地に至るための本当の手立てはただ一つ、信心だけである。)(『顕浄土真実教行証文類』信文類)                

 弥陀の本願に「至心・信楽・欲生」とある。至心は弥陀の真実の心。信楽とは弥陀の救いの働きを疑うことなく信じる心。欲生とは弥陀が浄土へ生まれさせようとする心であり、往生が定まって安心した心。これを三心という。浄土真宗の七高僧である天親菩薩はこれらを合わせて一心としている。                             

 つまり、つき詰めれば、弥陀の本願(人々を救うために起こした誓願)を信じ、すべてを阿弥陀仏におまかせすること、それが往生へと至る道なのだ。             

       【 『親鸞100の言葉』 釈撤宗監修 宝島社 】           

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 「涅槃」とは、「煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地」([広辞苑] )ということですから、上記にありますように、悟りの境地を表しています。その境地に至る方法は、ただ信心だけであるといわれます。                 

 また、聖人は「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」(『歎異抄』)と言われ、ここでも信心一つが、老いも若きも、善人であろうが悪人であろうが、すべての人が救われる手段であると仰っています。            

 このことから、釈師が言われるように、「弥陀の本願をただ信じること」即ち、「すべてを阿弥陀仏におまかせすること」が肝要だと知らされます。               


 「涅槃の真因は ただ信心をもってす」                      

( The true cause of attaining nirvana is shinjin only. )

2018-01-14

Being Too Late(手遅れ) Being Too Late(手遅れ)を含むブックマーク Being Too Late(手遅れ)のブックマークコメント

 人生は、手遅れのくり返しです。                         

              ある僧侶                       

 あの時はわからなかったけど今だったらわかるということが、人生にはよくある。自分のしたことが、他人に思いもよらぬ仕方で受けとめられ戸惑う。他人の人生に意図せぬ屈折や傷を与えてしまい、そのことも後になってようやっと知る。気づいた時はもう取り返しがつかない。経験というのはたいていそんなふうに起こる。母の年忌に、ある僧侶の言葉として住職から伺った。(朝日新聞コラム「折々のことば」 鷲田清一 より)         


 ここに書かれている手遅れの経験というものは、私にもよく当てはまります。本当に「人生は、手遅れのくり返し」だと思われます。                     


 ただ、世間のことはこれで済まされますが、生きているうちに一つだけ済まされないことがあることを、蓮如上人は『御文章』の至る所で述べておられます。たとえば「白骨章」とも称される『御文章』五帖十六通の中には、このように仰っています。         

 「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しっちゅうじゅう)幻の如くなる一期なり。されば未だ万歳(まんざい)の人身を受けたりということを聞かず、一生過ぎやすし。           

  (略)                                    

 されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、誰の人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」       


 つまり、上人が仰っていることは仏法を聞き、信心決定して(後生の一大事を解決して)念仏を申す身になるということです。私たちの周りには絶えず無常の風が吹き荒れています。その風にいつ誘われるやしれません。                      


 その時になって「あゝ、手遅れだった」では済まされないのです。この世でしか聞けない仏法です。手遅れにならないうちに、何より急がなければなりません。         

(At your last moment, even if you regret not having heard the Buddha’s teaching

and moan “Alas!, it is too late,” all is over with you. You can hear the Buddhist

teaching only in this world. You should hurry hearing it more than anything before

it is too late. )