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お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2017-09-21

Does the Spirit Exist?(霊は存在するのか) Does the Spirit Exist?(霊は存在するのか)を含むブックマーク Does the Spirit Exist?(霊は存在するのか)のブックマークコメント

 私は、昭和五十五年(一九八〇年)から平成三年(一九九一年)にいたる十一年余の間に、実に二千四十六名にわたる葬儀を執り行わせていただきました。            

 その多くは葬儀社からの依頼によるものでしたが、ほとんど毎日が、通夜に葬儀という日々でした。                                   

 このことを通して、私は実に特異な体験をすることができました。    

      

 それは、亡くなった方、すなわち「死者の霊」についての体験です。   

      

 死後、人は無に帰すのでしょうか。あるいは、霊魂として存在し続けるのでしょうか。そもそも霊魂があるのかということは、「信じる」か「信じない」かの問題だと一般的に思われています。けれども私にとって、霊魂は、「たしかに実在するもの」なのです。これは、宗教的な確信や信仰の問題ではなくて、私にはたしかに「在る」あるいは「いる」という実感としてわかるからです。                             

 一般的に言われている「霊」はたしかに実在するのです。私は、これを「本人」とよんでおります。(仏教的には「仏性」と言うのでしょうが……)。その「本人」をわかる方もいますし、わからない方もいます。                           

 そして私には「わかる」し、「実感できる」のです。二千件を超す葬儀の体験によって、私は霊の実在を確信するようになったのです。                    

 私にとっては、霊が「在る」のは、もう前提であり、「わかるか、わからないか」「実感できるか、実感できないか」なのです。                        

【『死んだらおしまい、ではなかった』浄土宗大念寺住職:大島通澄PHP研究所】    

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 私がこの話題を取りあげましたのは、ずっと以前に、ある人が言った「人間は死んだら消滅してしまうものだ」という言葉が強く残っていたからです。              

 因みに、死後の世界観に関して、ある機関の調査によりますと、消滅してしまうと思っている人の割合が、20%弱あるといいます。一方、別の機関の調査では、輪廻転生を肯定する人が40%強あるとのことです(浄土真宗では、輪廻転生すると教えられています)。    

 ところで、上記著書の著者である大島師は、浄土宗大念寺の住職です。大島師は「まえがき」の中で、「私の実感した故人の魂を客観的なデータとして、残しておきたいと思いました。私の主観的な思いこみではなくて、客観的なデータとして信憑性をもたせるには、二千件のデータが必要だとのこと」と言われ、このことを念頭に置いて葬儀に取り組んでこられたことが書かれています。                             


 大島師からすれば「霊が‘在る’のは、もう前提である」のです。このことは、仏教を聞く上では極めて大事で、「後生の一大事を心にかけて」と、蓮如上人が『御文章』の中で繰り返し言っておられるように、死後(の世界)が無ければ、仏教は成り立ちません。   

 特に、死んだら消滅してしまうと思っている人には、「死んだら、おしまいではなかった」と知って、浄土真宗の教えを聞いてほしいものと思います。               

( I especially want those who think they disappear when they die to know that

they do not finish their lives even if they die and hear Shin Buddhism. )

手品師手品師 2017/09/24 13:31 「人間は死んだら消滅してしまうものだ」という人には、説得力のある書籍かもしれないですね。
また、浄土真宗と浄土宗の教えの違いも明確になりました。かなりのギャップがありますね(笑)。

miko415miko415 2017/09/24 14:30 コメントありがとうございます。
おっしゃる通りです。著者の大島師は浄土宗、大念寺の住職さんですから、書物の内容は、浄土真宗の教えと、かなりギャップがありますね。

2017-09-13

A Fresh Morning(さわやかな朝) A Fresh Morning(さわやかな朝)を含むブックマーク A Fresh Morning(さわやかな朝)のブックマークコメント

 今年の夏を振り返ってみますと、私の住む地方では、梅雨明けが平年より10日ほど遅れました。その上、梅雨明け宣言が出された後も、台風などの到来で曇り空の日が続き、ほとんど毎日雨が降り、蒸し暑くて、まるで再び梅雨空に戻ったような日々でした。カラッと晴れて、夏らしい太陽が照る日があっただろうか、と思い出せないくらいです。      


 ところがどうでしょう。数日前の早朝の空には、まるい月がくっきりと浮かんでいたのです。本当に久々に見る月でした。空は真っ青で、空気も優しくひんやりとして、ウォーキングには心も弾む爽やかな朝だったのです。それに、草むらの虫時雨が一層気分を高揚させてくれるようでした。                                


 どこまでもついてきてくれる月を見ながら、不思議と、すっと思い浮かんだのは法然上人の詠まれたという歌です。                             

 月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ             

( There is no place where the moonlight never reaches. However, it shines only

in the heart of a person who looks up at the moon. )


 この歌の意味を梯實円師が『聖典セミナー歎異抄』( p.35 ll. 7~13 )に書かれています。 

「さわやかな秋の月は、その光をすべての人のうえにわけへだてなくそそいでいますが、光を背にしてわが影だけを見つめるものは光の中にありながら光にあうことができません。ただわが身の黒い影におびえるばかりです。影は引きずりながらも闇を背にして月を仰ぐ人だけがさわやかな月の光を全身にあびて、心の底まで、澄みわたっていきます。まさにそのように、大悲の光明は、万人を平等に照らしたまうが、その教説を疑いなく聞きうけて、われもまた光明のなかにあり、とみ教えをあおいで念仏するもののみがさわやかな光のうちに人生を全うすることができるといわれるのです」


 今もなお、あの爽やかな朝に見たきれいな月が思い浮かび、梯師の書かれていることをそのまま受け入れることができる幸せを感じます。                   

2017-09-08

Even If an Age Changes(時代が変わっても) Even If an Age Changes(時代が変わっても)を含むブックマーク Even If an Age Changes(時代が変わっても)のブックマークコメント

 御文章二帖目第十二通に、蓮如上人は、「それ、人間の五十年をかんがへみるに…… 」から始めて、人々が一巻の聖教を読むこともなく、怠惰に日々を過ごす様子を嘆かれ、「このゆえに今日今時よりして、不法懈怠にあらんひとびとは、いよいよ信心を決定して真実報土の往生をとげんとおもはんひとこそ、まことにその身の徳ともなるべし」と書かれています。        

                               

 蓮如上人が在世中の、約600年前の室町時代には、人々の平均寿命はおよそ50歳だったことが窺われます。しかし現在の日本人の平均寿命は約84歳です。100歳を超える人も多く、当時から見ればずいぶん長寿になったものです。その上、世の中の変化や進歩が著しく、当時と比較すると隔世の感があります。 

                      

 でも、仏法の観点から見ますと、人々の仏法に対する熱意は当時とそれほど変わっていませんし、むしろ衰退しているようで、憂慮されるところです。時代が変わって文明の世になっても、人の幸福度はそれに比例して増しているわけではありません。         


 仏法の教えがだんだん勢いをなくしている現在こそ、真の幸せを得るためには、聞法が一層求められると思います。( It is at the present when the Buddhist teaching

has gradually lost its impetus that we are more requested to hear that teaching

in order to get true happiness.)

2017-09-02

Writings about Buddhism(仏教の書き物) Writings about Buddhism(仏教の書き物)を含むブックマーク Writings about Buddhism(仏教の書き物)のブックマークコメント

 次は、『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』第125(番目)の文です。        

「ご病床にあった蓮如上人が、慶聞坊(きょうもんぼう)に『何か読んで聞かせてくれ』と仰せになったとき、慶聞坊は、『御文章をお読みいたしましょうか』と申し上げました。上人は、『では読んでくれ』と仰せになり、三通を二度ずつ、あわせて六度読ませられて、『自分の書いたものではあるが、本当にありがたい』と仰せになりました」。         


 ここで私が注目したい所は、「自分で書いたものではあるが、本当にありがたい」という蓮如上人ご自身の言葉です。京都の山科・石山に本願寺を建立し、本願寺を真宗を代表する強大な宗門に成長させた、浄土真宗中興の祖と崇められる方であり、その方が書かれた御文章です。人々を教化する力がある書物であることは、誰もが読めば納得できると思います。このような御文章ですから、筆者自身の上人が読まれた場合でも、「本当にありがたい」と思われるのは、ごく自然なことでしょう。                    

  

 それにもまして、蓮如上人をして「自分の書いたもの……….  」と言わしめたもう一つの訳は、御文章の内容が仏教だからです。つまり、仏さまの教えがあふれているから、といってもいいでしょう。言い換えれば、仏さまのまことの言葉が書かれているから、それが「ありがたい」という言葉になって、口をついて出たのだと思います。         

 このことから推測して思うのですが、世間には多くの仏教に関する書物が出版されています。それぞれの本の著者が自分で書いたものを読み返してみた場合どう思われるでしょう。きっと自分で書いたものとはいえ、感動される人も多いのではないかと思います。何故なら、仏さまを抜きにしては、仏教に関する書き物はできないからです。        

 私はこのコーナーで、主に仏教に関することを書いていますが、自分で書いた拙い文を読み返してでさえ、こんなことを書いていたんだと、思わず「ありがたいこと」と、はっとしたり、教えられたりすることがあります。ひとえに仏さまのお導きだと実感するのです。「手前みそを言う」、などという感覚は抜け落ちています。                 


 また、仏教に関するブログを立ち上げている多くのブロガーがおられます。でも、私もそうですが、自分で書いたものを、あまり読み返すということはしないのではないでしょうか。ぜひ機会を見つけて、自分で書いた文章を再読されてみてはいかがでしょう。新たな発見や、気づかされることがあり、鼓舞されることも多いと思います。             

 きっと、「自分で書いたものではあるが、本当にありがたい」と思われるに違いありません。( I am sure that you must think your writings about Buddhism are very

edifying though you have written them yourself. )

2017-08-26

To Realize Shinjin(信心決定) To Realize Shinjin(信心決定)を含むブックマーク To Realize Shinjin(信心決定)のブックマークコメント

 先日、ある方から、「毎日お念仏申しているのに、ご信心を得たという確信がもてない」「信心決定した瞬間を感じることができるのか?」という率直な思いをぶつけられました。信心決定については、はっきりとその瞬間を認識する人がいるかもしれませんが、長いお育てのなかではっきり認識できない人もいる。人それぞれであると言えるのではないでしょうか。ただ、はっきり言えるのは信前と信後があることが認識できることでしょう。つまり仏法を聞いてもわからず、教えが腹の底に落ちない自分と、私の姿が教えを通して見えるし、その私にかけられた阿弥陀さまの願いに頭が下がる自分です。阿弥陀さまの願いにうなづけない自分か、うなづける自分かという違いです。阿弥陀さまの願いを疑う自分か、疑いのなくなった自分かという違いです。自分で懸命に見つめてもわからなかった自分の心が、教えに私のありのままの心の姿や動きが示されていることを知らされるのです。      

  【 『私のものさし 仏のこころ』 西光義秀 探究社  】           

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 「信心決定」ということは、仏法を聞く人にとっては最大のテーマだと思われます。つまり、仏法を「聞く」ということは、ここに言われていますように、阿弥陀仏の願い(本願)に疑いのなくなったことです。本願に対する疑心がなくなれば、信前と信後の認識ができるという結果がついてくることは言うまでもありません。                

 親鸞聖人は「聞く」ということについて、「教行信証(信巻)」に次のように示されています。                                       

 「『聞』といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを『聞』といふなり」( The word hear means that sentient beings, having heard how the

Buddha’s Vow arose _____ its origin and fulfillment ____ are altogether free of

doubt. This is to hear. )

 非常に明快です。「聞く」(信心決定する)ということ、このお言葉に尽きると思います。 

2017-08-21

Today Only(今日限り) Today Only(今日限り)を含むブックマーク Today Only(今日限り)のブックマークコメント

 覚如上人(本願寺第三代宗主)の詠まれた歌に次のような一首があります。      

「今日ばかりおもうこころを忘るなよ さなきはいとどのぞみおおきに」(今日を限りの命だと思う心を忘れてはならないぞ。そうでないと、この世のことにますます欲が多くなるから)。                                       

 一寸先は闇です。「今日を限りの命」、忘れないようにしたい言葉です。( Nobody

knows what may happen tomorrow. I would like not to forget the words “Life of

today only.” )

2017-08-15

To Meet St. Rennyo’s Feelings(蓮如上人の気持ちに応える) To Meet St. Rennyo’s Feelings(蓮如上人の気持ちに応える)を含むブックマーク To Meet St. Rennyo’s Feelings(蓮如上人の気持ちに応える)のブックマークコメント

 『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』には次のような蓮如上人の言葉があります。  

(20)「今年から、信心のないものには会わないつもりである」            

(44)「信心を得ていないものにはもう会わない。信心を得たものには呼び寄せてでも会いたい、ぜひとも会おう」                              

(111)「人々に信心のないことを思うと、この身が切り裂かれるように悲しい」     

(114)「ただ一人でも、本当に信心を得ることになるのなら、わが身を犠牲にしてでもみ教えを勧めなさい。それは決して無駄にはならないのである」              


 以上からも明らかなように、蓮如上人はまだ信心を得ていない人に対して、「もう会わない」と、とても厳しい態度をとられました。これはひとえに上人の、人々に対する早く信心を得てほしいという強い気持ちの表れです。                     

 無常の世です。誰もが一刻も早く、蓮如上人の気持ちに応えるよう努めたいもの、と思います。( Everything is uncertain in this world. I would like everyone to try to

Meet Saint Rennyo’s feelings right away. )