Hatena::ブログ(Diary)

お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2018-10-15

The Salvation Here and Now(今ここでの救い) The Salvation Here and Now(今ここでの救い)を含むブックマーク The Salvation Here and Now(今ここでの救い)のブックマークコメント

 念仏の教えにあうものは、いのちを終えてはじめて救いにあずかるのではない。いま苦しんでいるこの私に、阿弥陀如来の願いは、はたらきかけられている。          

 親鸞聖人は仰せになる。                             

  信心の定まるとき往生もまた定まるなり                     

 信心いただくそのときに、たしかな救いにあずかる。如来は、悩み苦しんでいる私を、そのまま抱きとめて、決して捨てることがない。本願のはたらきに出あうそのときに、煩悩をかかえた私が、必ず仏になる身に定まる。                      

 苦しみ悩む人生も、如来の慈悲に出あうとき、もはや苦悩のままではない。阿弥陀如来に抱(いだ)かれて人生を歩み、さとりの世界に導かれていくことになる。        

 まさに今、ここに至りとどいている救い、これが浄土真宗の救いである。       

   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】        

 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜   


 浄土真宗の教えのすばらしいところは、「今ここでの救い」であることです。今は苦しいけれど、死んだら仏というような教えではありません。この娑婆の生きづらさは誰もが知っています。この苦しみの多い人生を阿弥陀さまに導かれて進むことができるのですから、心から満足して歩んでいけるのです。このような文章を拝読しますと、いつまでも浸っていたいような安らいだ気持ちになります。でもここで大事なこと、それは、「信心の定まった上で」の事、であるのを忘れてはなりません。                          


When shinjin is settled, the birth in Pure Land is simultaneously settled.

   (信心の定まるとき往生また定まるなり)                   

2018-10-11

To Hear is Shinjin(聞くことは信心なり) To Hear is Shinjin(聞くことは信心なり)を含むブックマーク To Hear is Shinjin(聞くことは信心なり)のブックマークコメント

 母に抱(いだ)かれて笑う幼子(おさなご)は、母の慈(いつく)しみを信じて疑うことがない。慈愛に満ちた声を聞き、ただその胸に身をまかせ、大いなる安心のなかにある。 

 親鸞聖人は仰せになる。                             

 聞其名号というは 本願の名号を聞くとのたまえるなり きくというは 本願をききて疑うこころなきを聞(もん)というなり またきくというは 信心をあらわす御(み)のりなり                                       

 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との慈愛に満ちた如来のよび声。このよび声をそのまま聞いて疑うことがない、それを信心という。              

 自分の見方をより処(どころ)とし、自分勝手な思いで聞くのであれば、如来の慈愛のよび声をそのままに聞くことにはならない。                      

 母の慈愛の思いが、幼子の安心となるように、如来のよび声が、そのまま私たちの信心となる。                                      

   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】        

 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜   


 「聞くとは本願を聞いて疑う心のないこと」であり、「聞くとは信心をあらわす御法(みのり)である」と親鸞聖人は仰っています。これは『一念多念文意』でのお言葉ですが、本願を聞いて信心の身になるための、「本願をそのまま聞く」、「本願に対して疑う心のない」、というような心の姿勢といったものが説かれています。                

 一方、「聞く」ということに関して、「正信偈」には「信楽(しんぎょう=他力の信心)受持すること、はなはだもって難(かた)し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」と書かれています。                                    

 自己の「疑心を交えず、そのまま聞く」ことが如何に難しいかということであり、上記文からは、これを打破するためには、自分が母の慈愛に抱かれた幼子のような気持ちで、如来のよび声にそのまま殉ずることの大切さを感じます。                 


Hear the Name is to hear the Name that embodies the Primal Vow. “Hear” means

to hear the Primal Vow and it is free of doubt. Further, it indicates shinjin.

 (聞其名号というは ……………………. 信心をあらわす御のりなり)    

2018-10-07

The Call of the Tathagata(如来のよび声) The Call of the Tathagata(如来のよび声)を含むブックマーク The Call of the Tathagata(如来のよび声)のブックマークコメント

 阿弥陀如来は、すべての者を救いたいと願われ、南無阿弥陀仏の名号を完成された。名号は、如来の智慧と慈悲を円(まど)かに具えた、救いのはたらきそのものである。    

 親鸞聖人はこの如来の名号を、                          

  本願召喚の勅命なり                              

と仰せになる。                                  

 南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との阿弥陀如来のよび声である。    

 如来は、偽りと真実の見分けもつかない凡夫を哀れみ、名号による救いを選び取られた。如来のみ名は、遍く世界に響きわたり、この真実の救いにまかせよと、よび続けておられる。

 そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている。念仏の声を通して、如来の大悲のよび声を聞かせていただく。              

   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】        

 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜   


 「本願召喚の勅命」とは、「衆生に、帰命せよと命じる如来のよび声」(『浄土真宗聖典』p.170)です。「そのよび声は、私の称える南無阿弥陀仏の念仏となって、今ここに至りとどいている」のです。この証しは、浅原才市さんの言う「名号私に当たって南無阿弥陀仏」」の言葉からも明らかです。                             


The Name of the Tathagata is the command of the Primal Vow calling to and

summoning us.(如来の名号は本願召喚の勅命なり)                 

2018-10-02

Gratitude(おかげさま) Gratitude(おかげさま)を含むブックマーク Gratitude(おかげさま)のブックマークコメント

 こんなに おかげさまを 散らかしている私 すいません(東井義雄)        

  (ほのぼのカレンダー ういず仏教文化研究会編集)<10月の言葉>より     


 阿弥陀さまのお慈悲に包まれているのに、私はそのことに鈍感です。そのため「おかげさまを散らかして(ご恩を粗末にして無頓着で)」いられるのでしょう。『仏恩報謝のためには行住坐臥に(常に)念仏を申すべきばかりなり』と言われた蓮如上人のお言葉が思いうかび、反省の気持ちが起きてきます。                           


I am sorry that I am so careless about gratitude for the Buddha’s benevolence.

  (こんなに おかげさまを 散らかしている私 すいません)           

2018-09-29

The Primal Vow of Other Power(他力本願) The Primal Vow of Other Power(他力本願)を含むブックマーク The Primal Vow of Other Power(他力本願)のブックマークコメント

 親鸞聖人は仰せになる。                             

   他力というは如来の本願力なり                        


 他力とは、阿弥陀如来の本願のはたらきであり、これを他力本願という。他力本願は、如来から私に向けられたはたらきであって、自分の望みを他人にまかせることではない。  

 阿弥陀如来は四十八の願いを発(おこ)して仏となられた。その願いの根本である第十八の願は、「われにまかせよ、わが名を称えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いである。如来は、私たちを救わんとしてつねに寄り添い、南無阿弥陀仏のよび声となって、われにまかせよとはたらき続けておられる。このはたらきを他力といい、本願力というのである。                                    

 阿弥陀如来の本願のはたらきにおまかせして、念仏を申しつつ、如来の慈悲につつまれて、浄土への道を歩ませていただくのである。                      

   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】        

 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜   


 前回も、書きましたが、「他力」とは決して「他人の力」のことではありません。平気で『今の世界は他力本願では生きていけない』、『他力本願から抜けだそう』等と、他力の意味を世間的な事柄に使用する人がいますが、仏教に無知であることを自ら暴露しているようなものではないでしょうか。とても残念なことです。                 

 仏教がだんだん廃れ、その上、一寸先は闇のはかない身です。それだけに、最後の段落「阿弥陀如来の本願のおはたらきに・・・・・・・・ 浄土への道を歩ませていただくのである」の言葉からは、阿弥陀さまのお導きによって生かされる身の幸せを感じ、感謝に堪えません。


Other Power is the Power of Amida Buddha’s Primal Vow.

  (他力というは如来の本願力なり)                       

2018-09-25

The Meaning of the Primal Vow of Other Power(他力本願の意味) The Meaning of the Primal Vow of Other Power(他力本願の意味)を含むブックマーク The Meaning of the Primal Vow of Other Power(他力本願の意味)のブックマークコメント

 「他力本願」の意味を『広辞苑』にはこのように書かれています。          

  阿弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。          

 ◆‥召犬董△發辰僂藺梢佑領呂鬚△討砲垢襪海函                 


 「他力本願」は仏教用語ですから、浄土真宗では△琉嫐でこの語を使うことを誤解だとしています。                                   

 過去には「他力本願」の誤用に対して、浄土真宗各派から抗議が行われたとされる事例があります。                                    


 その事例を『ウイキペディア フリー百科事典』より引きます。           

1968年には、当時農林水産大臣倉石忠雄が、日本の軍備に触れ『今の世界は他力本願では生きていけない』との意味の発言をして、浄土真宗各派から抗議されている。  

 2002年5月、オリンパス光学が全国紙に「他力本願から抜け出そう」というキャッチ コピーで広告を掲載した。それに対し真宗教団連合が『広告の表現は多くの門徒の心を踏みにじる』と抗議している。その後オリンパスは配慮が足りなかった点を謝罪した。」 


 2002年の事例に関しては記憶が薄いのですが、1968年の例は私が若い頃起きた事例で、当時かなり話題になったのを覚えています。真宗各派の抗議は当然だと思いました。   


 「他力本願」とは阿弥陀仏の本願力のみを指すのですから、転用は許されるものではありません。(“ The Primal vow of Other Power” means only the power of Amida

Buddha’s Primal vow. Therefore, that phrase shouldn’t be diverted to other things.)

手品師手品師 2018/09/25 17:38 「他力本願から抜け出そう」
ひぇ〜😱、何の洒落にもなりませんね。
残念ですが、、現状は?の意味で使用されているケースが多いようです。浄土真宗の教えが、廃れていっていることを端的に表しているのかもしれません。

手品師手品師 2018/09/25 17:44 文字化けしていますので補足いたします(笑)。
😱は、驚いている顔デザイン
?は、「まる2」の「転じてもっぱら他人の力をあてにすること。」

miko415miko415 2018/09/26 07:45  言われるように「現状では、(2)の意味で使用されているケースが多いようです」ね。本当に残念です。ただ、『ウイキペディア』の「概説」によりますと、すべての辞書が上記のような意味で書かれているわけではない、とのことですので、その「概説」を引用します。「(1)、(2)の意味とも『大辞林』・『広辞苑』などの辞書に採録される語意である。本来の意味が(1)の意味であることに異論を示す資料は見られないが、(2)の意味については『岩波仏教辞典』では「語の本来の用法からして誤解である」、『大辞泉』では「誤用が定着したものか」と記載される他、『大辞林』のように意味の生じた経緯等について特に触れない辞書もある。また、『新明解四字熟語辞典』のように、(2)の意味のみを語意として記載した後に「本来は〜」として(1)の意味を解説する辞書もある」。                      
 『岩波仏教辞典』は、しっかりしていますね。さすが仏教辞典です。

手品師手品師 2018/09/26 14:04 詳しい解説ありがとうございます。
少し安心しました(笑)

miko415miko415 2018/09/26 17:17  辞書によって、採録される語意が違う場合もあるのですね。勉強になりました。

2018-09-21

The Buddha of the Unlimited Light and Life(限りなき光と寿の仏) The Buddha of the Unlimited Light and Life(限りなき光と寿の仏)を含むブックマーク The Buddha of the Unlimited Light and Life(限りなき光と寿の仏)のブックマークコメント

 阿弥陀如来がさとりを開く前、法蔵菩薩であったとき、すべてのものをすくうため、限りない光と寿(いのち)をそなえた仏になろうと誓われた。そして果てしない修行の末に、その願いを成就して、如来となられた。                        

 阿弥陀とは無量をあらわす。阿弥陀如来は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂(おさ)め取ってくださる。その限りない寿(いのち)をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。                    

 親鸞聖人は仰せになる。                             

   十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の                   

   念仏の衆生をみそなわし                           

   摂取してすてざれば                             

   阿弥陀となづけたてまつる                          

 たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂(おさ)め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。その仏を阿弥陀如来と申し上げるのである。      

   【 『拝読 浄土真宗のみ教え』 編集委員会 本願寺出版社 】        

 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜   


 上記に「阿弥陀とは無量をあらわす」と書かれていますが、改めて「阿弥陀」の意味を調べてみました。『広辞苑』によりますと、「梵語(古代インドの文語であるサンスクリットの称)のAmitayusが無量寿、Amitabhaが無量光と漢訳(されたもの)」とあります。   

 「阿弥陀」の名前にはきちんとした由来(語源)があったのです。無量寿、無量光から生じていたのでした。最初から「阿弥陀」という名前があるべくしてあったと思い込んでいた私ですが、その奥に、このような深い意味があったことに、なるほどと納得した次第です。「限りなき(無量の)光と寿の仏」さまだからこそ、流転をし続ける凡夫を救うことができるのです。                                    


Seeing the sentient beings of the nembutsu

Throughout the worlds, countless as particles, in the ten quarters,

The Buddha grasps and never abandons them,

And therefore is named “Amida.”

(十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる)