Hatena::ブログ(Diary)

お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2017-04-24

Amida’s Ubiquity(阿弥陀仏の遍在) Amida’s Ubiquity(阿弥陀仏の遍在)を含むブックマーク Amida’s Ubiquity(阿弥陀仏の遍在)のブックマークコメント

 ウォーキングに出かける公園の一角に墓地があります。開けて明るく小高い場所に100基ほどの墓が立ち並び、下方は住宅街になっています。その横には梨園もあり、決して寂しい場所ではありません。                              

 子どもの頃は、墓地というと気味悪い場所というイメージが強く、遠ざけたい所でした。とは言っても、現在も好き好んで行きたい場所ではありませんが、イメージは、180度変わっています。                                   

 墓石の多くが「南無阿弥陀仏」と刻まれていますから、思わず引きつけられ念仏がこぼれます。「南無阿弥陀仏」の名号がこれほどたくさん、堂々と見られる場所はあまり多くはありません。                                    


 阿弥陀さまの偏在が具現された姿だと思われます。阿弥陀さまはいつでもどこでも私と一緒にいて下さることの証です。( It seems that Amida’s ubiquity is embodied

by the Name of Amida carved on the each gravestone and that it is the

testimony that Amida Buddha is always with me at every turn. )

2017-04-19

Dinosaurs(恐竜) Dinosaurs(恐竜)を含むブックマーク Dinosaurs(恐竜)のブックマークコメント

 先日久しぶりに福井に行ってきました。福井駅とその周辺が大きく様変わりして驚きました。圧巻は、駅前の広場に登場した実物大の3体の恐竜ロボットです。2体は3メートルくらいですが、1体は10メートルもあります。決まった時間に独特の動きとともに、迫力ある鳴き声を発し、人々を圧倒しています。恐竜王国福井ならではの、お出迎え風景だと思いました。                                    

 ところで、この恐竜は想像上の動物のように思いたくなりますが、実在した動物なのですから、それだけでもビックリです。広辞苑によりますと、大きさはニワトリ大から、体長35メートルを超す巨大なものまであるとのことで、度肝を抜かれます。          

 さて、「つい小さなことが気になるのがボクの悪いクセ」という言葉は、あるTVドラマでよく聞いたせりふですが、つい何でも仏教的視点で考えてしまうのが私の悪い、いや良いクセかもしれません。今回は、「私も過去世には恐竜に生まれていたかもしれない。しかも巨大な恐竜に」とふと思ってしまいました。これまで、いろいろな命を経巡ってきた私ですから、決してあり得ないことではない……と。                    


 でも落ち着くところは、人間に生まれてきて良かった。そしてさらに仏教に出遭えて良かったということです。( However, I finally settle down in the thought that

it was good for me to be born a human and what’s more, be able to meet

Buddhism. )

2017-04-10

The Brilliance of Lives(命の輝き) The Brilliance of Lives(命の輝き)を含むブックマーク The Brilliance of Lives(命の輝き)のブックマークコメント

 今年の春は寒くて、例年なら桜が早く咲くところでも、その開花宣言が待たれたようです。木々のつぼみが十分に膨らんで、今にも開きそうな様子なのに、小寒い中ではなかなか咲きませんでした。そんな中、いち早く春を感じさせてくれたものは、鳥たちのさえずりです。                                       

 現在は、私の住む地方では桜はほぼ満開になりました。今なお冷気の残る早朝、青空に朝日が差し始めるころのウォーキングでは、桜を愛でながら、いろいろな鳥たちの声も聞かれてとても爽快です。何といっても魅了されるのは鶯(うぐいす)ですが、まだ黄土色一面に広がる草むらの中で、群れて鳴き交わす雲雀(ひばり)の声にも心を引かれます。雀(すずめ)や鳩、雉(きじ)の声も聞こえ、池からはカモやカイツブリなど水鳥の楽しげな鳴き声も。また、名前も知らない鳥の方が多いのですが、それらの透き通った声が響いてきます。                              


 今日一日が始まろうとする朝は、いろいろな命の輝きが一層鮮明に感じられ、生きる喜びがわいてきます。( The brilliance of various lives feels more vividly in the early

morning when the day of today starts; therefore, joy of living wells up. )

2017-04-05

Medicine and Poison(薬と毒) Medicine and Poison(薬と毒)を含むブックマーク Medicine and Poison(薬と毒)のブックマークコメント

 親鸞の言葉64:毒を楽しむためではない                     

 薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。(薬があるからといって、好んで毒を飲もうとするなど、あってはならないことだ。)(『親鸞聖人御消息』第二通)                                      


 阿弥陀仏の本願によって、衆生はいっさいの区別なく救われるということは、くり返し出てきた。罪を犯した者も救われるのである。                     

 それを曲解し、「いずれ救われるなら、罪を犯してもいいのではないか?」と考える人も出てくる。親鸞はそれに釘をしっかりと刺している。                 

 そもそもそのような考えを持っている人が、本当の信心を得られるとは思えない。薬は毒を楽しむためにあるものではないのだ。                       

     【 『親鸞100の言葉』 釈徹宗監修 宝島社 】            

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 阿弥陀仏は私たちを悪しかできない者と見抜いて、そんな私たちを救うという本願を立てられました。だからといって、決して悪を犯してもよいということにはなりませんし、それどころか、悪いことは努めてしないようにしなければなりません。そして、善を行おうとしても雑毒の善しかできない我が身を反省し、そんな私を救って下さる阿弥陀仏に報謝の気持ちを持つことが大切です。                           

 釈師の言われるように、「薬は毒を楽しむためにあるものではない、と聖人は釘を刺しておられること」を重く受け取らなければなりません。     


 薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。        

(We can take poison because we have medicine, which should never be allowed.)

2017-03-29

Evil Companions(悪友) Evil Companions(悪友)を含むブックマーク Evil Companions(悪友)のブックマークコメント

 親鸞の言葉63:悪友には気をつけろ                        

 「つねに悪友(あくう)に随(したが)ふ」といふは、「悪友」とは、善友(ぜんぬ)に対す、雑毒虚仮(ぞうどくこけ)の人(にん)なり。(「つねに悪友に従う」というのは、悪友は善友に対する存在。毒まじりの善行を行う偽りだらけの人のことだ)。(『愚禿鈔』)  


 善友とは仏の道理を教えてくれ、導いてくれる人のことをいう。そして悪友とは毒まじりの善行を行う者、つまり自分のことしか考えていない人のことだ。           

 そういう人に出会った経験はないだろうか。口先ではよいことを喋るが、いざとなると自己保身に走るような人間に。世のなかには嘘や偽りが満ち溢れている。そのなかで真の友に出会えることはこのうえない幸せだ。自分の都合ばかり振り回す人には近づかないほうがよさそうである。                                 

     【 『親鸞100の言葉』 釈徹宗監修 宝島社 】              

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 ここに書かれていますように、「世のなかには嘘や偽りが満ち溢れています」。このような中で、親友と呼べる友がいる人は幸せです。たとえその友が真宗の信者でないとしても、そう言えるでしょう。でもその人が真宗の信者なら、もっと幸せだと思います。信者同士なら、たとえ初対面であったとしても、お互いにずっと前から親しい友であったように打ち解けられるから不思議なものです。善友として、ともに仏の道を歩むことができます。   

 ところが世の中には、往々にして悪に身を染める人も多いものです。「朱に交われば赤くなる」という諺もありますように、悪友には気をつけなければなりません。       


「つねに悪友に随ふ」といふは、「悪友」とは、善友に対す、雑毒虚仮の人なり。    

( Concerning the phrase, “One constantly joins with evil companions”:

Evil companions contrasts with “good friend”; it refers to people of various

poisons and falsity. )

2017-03-24

Disowning(義絶) Disowning(義絶)を含むブックマーク Disowning(義絶)のブックマークコメント

 親鸞の言葉66:親子の縁を切る                          

 いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。(今は親と思うこともなく、子と思いも断ちきりました。)(『親鸞聖人御消息』第九通)           


 この手紙は慈心房(善鸞)義絶状ともいわれる。多くの同胞のため、晩年の親鸞はみずからの息子である善鸞を関東へと送り出した。しかし息子は徐々に親鸞の教えと異なるものを広め始め、関東の同朋たちに大混乱を招いた。                    

 その結果、84歳にして親鸞は息子を絶縁せざるを得なかったといわれている。      

 同朋を惑わせてしまったこと、送り出した息子が変わってしまったこと。家族をもった僧・親鸞ならではの苦悩がここにある。                        

       【 『親鸞100の言葉』 釈徹宗監修 宝島社 】            

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 世間的な事柄で我が子を勘当するということは、ままあることでしょう。でも、事は仏教に関することです。聖人の教えられなかったことを、善鸞が「父が夜私一人に教えられたことだ」などと人々に言い触らし、人々を混乱させたといわれます。そのために善鸞を義絶せざるを得なかった聖人の心は、いかばかりであったでしょう。しかし、このことによって、聖人の教えが正に真実であるということが返って鮮明になります。           

 84歳という高齢の聖人に起きた事件です。厳しい人生を弥陀の本願一つを広めるために歩まれた聖人の崇高な姿勢がひしと伝わってきます。                 


いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。          

( From now on there shall no longer exist parental relations with you; I cease

to consider you my son. )

2017-03-21

Diamond-like Mind(金剛心) Diamond-like Mind(金剛心)を含むブックマーク Diamond-like Mind(金剛心)のブックマークコメント

親鸞の言葉 72:自分は自分                           

 この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。(念仏の教えを信じる人もいれば、謗る人もいるだろうと仏はすでに説いている。それゆえ私はすでにこの教えを信じさせていただいている)(『歎異抄』第十二条)                              


 親鸞の生きていた頃、「私の信じている教えのほうが優れている」「お前の信じているものは偽物だ」などと論争になることがあったようだ。だが仏は、そのような人もいるだろうとすでに説いている。                                

 人の世ではつねにこのような場面が生まれる。しかし、仏法を拠りどころとしている者は、揺らぐことはない。このような揺らぎや迷いのない心を仏教では金剛心と呼ぶ。     

     【 『親鸞100の言葉』 釈徹宗監修 宝島社  】            

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 『歎異抄』第十二条の上記の後には「またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候」と続きます。親鸞聖人は法を謗る人を見て、仏さまは、人々の間で論争が起きることは、すでに説いておられることだったと、仏説に絶対の信頼を置かれました。    

 仏法を信ずる人となり、信心を頂いた人は、どのように謗られても揺らぐことのない金剛心を賜るのですから、「自分は自分」と力強く歩んでいけるのです。           


 この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。                         

( By the fact that Sakyamuni taught there would be both people who entrust

themselves to this teaching and those who abuse it, I have already realized

that the Buddha’s words are indeed true. )