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お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2018-07-16

What Does Namu-amida-butsu Mean?(南無阿弥陀仏ってどういうこと?) What Does Namu-amida-butsu Mean?(南無阿弥陀仏ってどういうこと?)を含むブックマーク What Does Namu-amida-butsu Mean?(南無阿弥陀仏ってどういうこと?)のブックマークコメント

 念仏とは、「阿弥陀仏」の御名(みな)を称えることです。             

 「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀仏のであると同時に、仏それ自を表しています。と言うのも、南無阿弥陀仏は言葉の仏であり、言葉以上のはたらき(本願)が言葉となった仏だからです。その点が、「南無阿弥陀仏」は真の信仰や愛を成り立たせる「根元語」だと言われるゆえんでありましょう。                             

【『浄土真宗入門 親鸞の教え』 池田勇諦(いけだゆうたい) 東本願寺出版】     

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 「『南無阿弥陀仏』は、阿弥陀仏のであると同時に、仏それ自を表しています」、とあります。                                 

 つまり、名体不二(みょうたいふに)ということです。( That is to say, it means

that Amida Buddha’s Name and the Buddha-body itself are one. )


 「名体不二」について、『浄土真宗聖典』にはこのように書かれています。「阿弥陀仏の名号とその仏体とが一つであること。名号が正覚(しょうがく;さとり)の全体であり、名号を離れて阿弥陀仏の正覚がないことを示す」。                     

rr 2018/07/16 20:33 みーこさま
記事を読ませていただき、名体不二についてより理解が深まりました。ありがとうございました。
「お名号が火事で焼け、それが六体の仏様となられた」という、蓮如上人『御一代記聞書』のお話を思い出しました。

南無阿弥陀仏

miko415miko415 2018/07/17 07:40 コメントありがとうございます。
rさんが思い出された『御一代記聞書』(七七)を、改めて読んでみました。蓮如上人は、「六字の名号はもともと仏なのだから、(名号が火事で焼かれて六体の)仏になられたからといって不思議なことではない」と言っておられますね。「名体不二」の意味がわかりやすく、私も、より理解が深まりました。ありがとうございました。

2018-07-12

Any Kind of Hearts(どんな心も) Any Kind of Hearts(どんな心も)を含むブックマーク Any Kind of Hearts(どんな心も)のブックマークコメント

 某新聞の「悩みの相談」コラムに、このような相談が寄せられていました。      

 「50代の女性です。私の悩みは、自分の考え方の傾向についてです。うまくいっている人を見ると、「彼(彼女)が失敗して不幸になったところを見たい」と考えてしまうのです。 

 幼いころからそうでした。そして、自分が幸福なときですら、そういう気持ちがわきあがってくるのです。自分で言うのもなんですが、性根が腐っているのだと思います。    

 この3年ほどは、私には普通では考えられないくらい、不幸な出来事が続々と起こり、余計に人の不幸を見てみたいという気持ちが加速したような気がしています。       

 たとえば、将棋の藤井聡太七段や、大リーグに行った大谷翔平選手。彼らの華々しい活躍を見たり聞いたりすると、ただただ気分が悪くなります。               

 彼らだって普通の人以上に努力して、苦しいことだってある。おそらくそうであろうことは、頭では理解できています。                           

 しかし、理屈ではなく本能的に、「落ちぶれてしまえばいいのに!」と思う気持ちを抑えることができません。                               

 こんなふうに思っていたら、自分だって不幸になることはあっても、幸福になることはないわけで、得することはないからやめたいのです。                  

 人の幸せを一緒に喜べる人間になるため、何か出来ることはないものでしょうか?」  


 これほど赤裸々に胸中を吐露する人も珍しいのではないかと思います。        

 人の心は「感情のるつぼ」であると言った人もありますが、私はこの文を読んだとき、亡き母が言った言葉を思い出しました。いつも穏やかで、優しい母という思い出しかない母ですが、ある時、とてもイライラした様子で、何かに憤慨していたことがありました。そして、怒っても当然だと自分自身を納得させるかのように「人にはどんな心もあるもんね」と、念を押すように言ったのです。仏さまのように優しい心もあれば、鬼のように恐ろしい心もあるということだと理解してきました。                        

 仏教では、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴という三毒の煩悩を教えられていますから、上記のような文を読んでも、こういう心もあるだろう、くらいに受け止められますが、心の内を包み隠さずに表現している女性には、むしろフランクで正直な人という感じを持ちます。                                     


 ところで、この相談に対する回答者の文の内容はよく覚えていないのですが、「あなたは(悪い人でもなく、良い人でもない)普通の人です」との言葉が印象的でした。( By the way, I have not well remembered the replier’s answer for this woman’s

consultation, but his words “ You are not a bad person nor a good person but are an

ordinary person,” were impressive. )

rr 2018/07/12 07:27 そのような悩みを持つ人は、煩悩による苦しみを人よりも味わっているという意味で、ぜひ阿弥陀仏の本願に救われてほしいと思います。自己の醜さの全てが、感謝と懺悔に転換されます。南無阿弥陀仏

miko415miko415 2018/07/12 09:16 rさん、コメントありがとうございます。
本当に仰る通りです。阿弥陀仏の本願に救われることが、悩みを解決する最善の方法ですね。

2018-07-07

The World of Shouma(庄松の世界) The World of Shouma(庄松の世界)を含むブックマーク The World of Shouma(庄松の世界)のブックマークコメント

 旅に病んだ庄松は籠に乗せられて、家に帰ってきた。「これで内へ這入ったから安心するがよい、弥陀のお慈悲を喜べ」といったら、庄松答えて曰く、「どこにいても、寝ているところが極楽の次の間だ」と。またある同行が見舞いに来て、「お前が死んだら墓を立ててやる」といった。庄松答える、「わしは石の下におらぬぞ」と。              

 庄松はたしかにわれら一般が生活している知性的分別の世界には住んでいなかったのである。それかといってこの世界以外にも出ていなかったのである。 (略)  庄松の世界では、浄土が娑婆に映り娑婆が浄土に映る世界だといってよかろうと思います。浄土の外にない娑婆、娑婆の外にない浄土、___ これを非一非異の法界といっておきます、彼は実にこの領域をわがものとしていたのです。彼はもとより今申し上げるように知性的分別をもととして、この領域を認覚していたものでもありません。彼はいわゆる饑えて食い渇して飲むという自然的・動物的で、またかねて神性的な生活の中にいたものです。無畏の生活であるから、波が高ければそれと共に高く挙がり、また低くなればそれと共に沈んで行くというだけのことです。「あなた任せの年の暮れ」と申しますが、彼は実にその通りに生きていたものです。人に「後生の一大事は」と問われて、「それはわしの知ったことではない、阿弥陀さまにまかしておけばよい」と答えた。彼はいつも阿弥陀の懐(ふところ)に抱かれていたのである。                                 

       【 『仏教の大意』 鈴木大拙 角川ソフィア文庫 】          

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 浄土真宗の妙好人として誰もが知る庄松(同行)ですが、鈴木氏はまた、「彼の目から見ると、いわゆるこの世なるものは、一般の人間が住んでいるような感性的具体の世界ではなかったのである。われらの具体性は、彼にとっては必ずしもそうではなかったのです」とも評しておられます。                                


 同じ弥陀のお慈悲を喜ばせていただきながらも、世間の荒波に翻弄されがちな私のような者からしますと、そのようなことには無縁に思われる彼の世界は、とても魅力的に映ります。( I deeply appreciate the same and equal compassion Amida Buddha

gives us. However, the like of me who is apt to be trifled with the hardships of life feels his world so attractive which seems to have no relationship with such a thing. )

rr 2018/07/08 01:37 私も庄松同行が好きで、彼の逸話を読んでから浄土真宗に強い興味を持ちました。もう20年近く前になりますが・・・。
今読むと、念仏に生きておられたことがよく伝わってきます。

miko415miko415 2018/07/08 07:20 r さん、コメントありがとうございます。             
 庄松同行を初めとする、妙好人と呼ばれる人たちの篤信ぶりは並外れていますね。感心すると同時に、教えられることも多いです。

2018-07-02

Change(変化) Change(変化)を含むブックマーク Change(変化)のブックマークコメント

「してあげる世界」から「させていただく世界」へ  (東井義雄)          

 (ほのぼのカレンダー ういず仏教文化研究会編集)<7月のことば>より      


 「してあげる」と考えますと、「自分の力でしてあげる」になり、「させていただく」と考えますと、「阿弥陀さまのお計らい(お力)によって、させていただく」となるでしょう。ですから、「してあげる世界」は自力であり、「させていただく世界は」他力だと考えられます。                                       

 阿弥陀如来に帰して信心の定まった人たちの心には変化が生じます。阿弥陀如来のお計らいによって、「してあげる」から「させていただく」へと自ずと導かれているからと言えるでしょう。                                   


 以下の文は、このような「阿弥陀如来の(他力の)お計らい」というものを、わかりやすく教示されている蓮如上人の言葉です。                       

「弥陀におまかせする信心も、また、尊いことだ、ありがたいことだと喜んで念仏する心も、すべて弥陀よりお与えくださるのであるから、私たちがああしようかこうしようかと計らって念仏するのは自力であり、だから退けられるのである」(『蓮如上人御一代記聞書』[三六] より)                                    


“From the world in which we will do things for others” to “the world in which we

would like to ( let ourselves ) do things for others”

 ( 「してあげる世界」から「させていただく世界」へ )             

rr 2018/07/05 10:01 みーこさま
ブログ拝見して、直接お会いしたことはないのですが、素晴らしい方がおられると思い、うれしいです。仏法に関するものは全て頂き物。ありがたいご教示です。南無阿弥陀仏

miko415miko415 2018/07/05 14:39 r さん、コメントありがとうございます。
ブログ開設おめでとうございます。コラム目次1〜6を拝読させていただきました。子供の頃から死ぬのが恐ろしいと思われていたのですね。私もrさんが仰っていることに重なる思いが多々あります。詰まるところ、死の問題を解決したい一心でした。幸いにも、既に本願に対する疑蓋が晴れられ、ほんとうに良かったですね。これからも僧侶として、浄土真宗の教えを広めて下さることを念願しております。今後ともよろしくお願いいたします。

rr 2018/07/06 12:12 こちらこそよろしくお願いいたします、そして読んでくださってリンクまでしてくださり、驚いております。本当にありがとうございました!
みーこさまの分かりやすい文章を読み、阿弥陀様のことを思わせていただいて有難いです。お会いしたことはないのですが、とても懐かしい、一味の法友だと感じております。
未信の方にとっても、このように阿弥陀様の本願を優しく伝えてくださるブログがあることで、より聞法していきやすいのではないかと思います。

miko415miko415 2018/07/06 18:05 r さんの身に余るお言葉を頂き、恐縮しております。お言葉にありますように、未信の方が読んで下さり、少しでも仏縁を結ぶ手掛かりにでもなるのであれば、こんなに嬉しいことはありません。でも私としましては、正直ブログは自分のために書いているような気持ちで続けてきたように思うのです。書くことにより、自分の気持ちが整理されますし、何より阿弥陀さまのご恩をより深く感じることができることに気付かせて頂いたことが一番の喜びです。でも、このような拙文を読んで下さる方には感謝、感謝です。           
 前回言いそびれましたが、r さんは若い頃から(今もお若いですが)熱心に仏法を求めてこられたことを知り、本当に仏縁の強い方だなぁと思いました。進んで僧侶になられたこともすごいと思います。その情熱を力にして、仏教界で活躍して下さることを期待しています。

2018-06-29

In This Very Life(今生でこそ) In This Very Life(今生でこそ)を含むブックマーク In This Very Life(今生でこそ)のブックマークコメント

 御文章一帖目第十通に、このような件(くだり)があります。            

 「信心をとり弥陀をたのまんと思ひたまはば、まず人間はただ夢・幻(まぼろし)の間のことなり、後生こそまことに永生(ようしょう)の楽果なりと思ひとりて、人間は五十年・百年のうちの楽しみなり、後生こそ一大事なり、と思ひて …………… 一心一向に弥陀をたのみたてまつりて …………… ただひとすじに弥陀に帰して、このたびの往生は治定(じじょう)なるべしと思はば …………… 」                      

永生の楽果;往生して無量寿の仏果(仏のさとり)を得てながくたのしむこと。    

思ひとりて;十分に理解して。心に思い定めて。                  

一心一向;他の仏や余行に心をかけず、もっぱら阿弥陀仏一仏を信じること。     

たのみたてまつりて;あて力にして。                       


 蓮如上人は言われます。短い人生であり、後生こそ一大事であると。しかも、今生でしか仏法を聞く機会はないのです。( Saint Rennyo says that life is short and the

afterlife is the “matter of the greatest importance.” Furthermore, we have the

opportunity to hear the Buddhist teaching only in the present life.)


 また上人は、ただひとすじに弥陀に帰してこそ、つまり、阿弥陀仏にお任せする信心一つで、永生の楽果が得られることを力説されています。                 

2018-06-25

A Good Opportunity(好機) A Good Opportunity(好機)を含むブックマーク A Good Opportunity(好機)のブックマークコメント

 お釈迦さまは、このように仰っています。                     

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。(人間に生まれることはとても難しいのに、私は今人間に生まれている。仏法を聞くことは非常に難しいのに、私は今、仏法を聞く機会を得ている。人間として生を受け、仏法に出遭っている今、救われなかったら、いつ救われることがあるだろうか)」                           


 生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法に出遭いながら、この好機を逃がしてしまうのは、                                    

「宝の山に入りながら手をむなしくして帰る( Although sitting on a pile of treasures,

one comes back empty handed; to have a golden opportunity only let it slip from his

grasp. ) 」に等しいと言わねばなりません。                     

2018-06-21

The Probability to Be Born Humans(人間に生まれる確率) The Probability to Be Born Humans(人間に生まれる確率)を含むブックマーク The Probability to Be Born Humans(人間に生まれる確率)のブックマークコメント

 私が遺伝子の研究をやっていて強く感じたことは、DNAの暗号を書いたのは誰かということです。                                    

 DNAはA、T、C、Gという僅か4つの化学の文字(塩基)でしか書かれていない。しかし、その4つですべての生き物の体の設計図が書かれている。極めてシンプルですよね。真理というのはシンプルなんです。                          

 この設計図、一番目にA、T、C、Gのどれかが並ぶ可能性があり、次も4とおりのうちのどれか、その次も……。 人間の場合、これを32億回掛けていくんです。だから4の32億乗。                                      

 天文学的と言うより、超天文学的な確率の中から一人の人間が生まれてくるんです。だから偶然とはとても考えられないわけですね。人間業ではない。そのことだけは確かです。 

 その働きを人によって何と表現するかは違うけれども、私はサムシング・グレートと言っています。サムシングですから、まだよく分からないんです。             

 しかし、私自身、研究をとおして人知を超えた世界を垣間見ることができたのは、非常にありがたいことで、そうなると謙虚にならざるを得ません。              

 少々世界に先駆けて何かを発見したと威張ってみても、それは所詮人間として生まれたからできることなんです。生命の根源に畏敬し感謝こそすれ、傲慢になってはいけないと思いますね。(村上和雄・筑波大学名誉教授)                      

      【(月刊誌)『致知』 2015年12月号 致知出版社 】           

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 超天文学的確率で一人の人間が生まれるということが、研究によって分かってきたことは素晴らしいことです。現代人には、このような研究結果から得られる事実は、前回書きましたお釈迦さまの、人間に生まれ難いことの譬えとして説かれた盲亀浮木の話が誠であると、インパクトを持って受け止められるのではないかと思います。           


 個人的には、もう二千数百年も前に言われたお釈迦さまの「人身受け難し」の言葉に、「仏語に虚妄なし」との思いを一層強くしています。( Personally, I further

strengthen my thought that there is no lie in the Buddha’s words for the phrase ‘It is

difficult to be born humans’ which was told by him as long as more than 2000 years

ago.)