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お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2017-12-14

A Gate Pine Tree(門松) A Gate Pine Tree(門松)を含むブックマーク A Gate Pine Tree(門松)のブックマークコメント

 年の瀬も迫り、店頭に門松等の正月飾りが並ぶ時期になりました。この「門松」を用いて、室町時代の臨済宗の僧、一休さんが、「門松は冥土の旅の一里塚 ( The New Year’s gate decorations are but milestones on our road to Hades.) 」と歌ったことはよく知られています。                                 


 この意味を『故事ことわざ辞典』には次のように書かれています。「門松は正月を祝うめでたいものだが、門松を飾るたびに年を取って死へ近づいていくのだから、言わば門松は死への一里塚のようなものだということ」。                       

 また大意を「年を重ねるにつれて近づくのが墓 ( The more years you have, the

nearer your grave. ) 」と書かれています。                      


 なお、この歌のあとに「めでたくもありめでたくもなし」と続けて言われることもあるとも書かれています。・・・・・さて、個々人はどのように感じるのでしょう。

         

2017-12-09

To Get Out(抜け出す) To Get Out(抜け出す)を含むブックマーク To Get Out(抜け出す)のブックマークコメント

You can check out any time you like, but you can never leave

                        イーグルス          

「チェックアウトはいつでもできるが、ここを去ることはついにできない」。      

米国のロックバンドの代表曲「ホテル・カリフォルニア」から。1960年代末のカウンターカルチャーの高揚を虚(むな)しく懐かしむだけのこの場所からは誰も抜け出せない。一度入ったら出られなくなる現象は至るところにある。最近では、金融緩和政策の出口が見えない状況をさして「ホテル・カリフォルニア化」と言うらしい。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一 より)                              


 一度入ったら(なかなか)抜け出せない現象に、上記にあるように、経済面では金融緩和政策があります。あるいは、その時々におけるデフレ、インフレなどの経済状況も然りです。 また個人的なものとしては、薬物、アルコール、たばこ、ゲーム、ギャンブル、買い物、仕事、生活習慣、ルール、対人関係、生活の場等々、いろいろ挙げられるでしょう。    

 このように、抜け出せないものは「至るところ」にありますが、究極的には「この世」ではないかと考えます。私たちは、生まれた時にこの世に入ったのです。気がついたらこの世にいたのであって、好むと好まざるとにかかわらずこの世を出て行くときは、死ぬ時以外にありません。しかし仏教では、六道輪廻と教えられていますから、あの世でもまた六道を流転し続けなければなりません。結果、果てしない迷いの世界から抜け出すことができないのです。                                      

 ところがただ一つ、迷界から抜け出す方法が仏教で教えられています。この世に生きている間に仏教を聞き、阿弥陀仏の本願に今、救われることです。             

 唯一、六道輪廻の迷界を抜け出す方法が仏教に教えられているとは、心底、ほっとするではありませんか。                                 

2017-12-04

Abnormal Phenomena Accompanying Saint Honen(法然上人に伴う異象) Abnormal Phenomena Accompanying Saint Honen(法然上人に伴う異象)を含むブックマーク Abnormal Phenomena Accompanying Saint Honen(法然上人に伴う異象)のブックマークコメント

 「法然上人行状画図」によれば、                         

 ある夜更(よふ)けに、法然上人が声高に念仏しているので、正信房が老体を痛わしく思って、何か用事でもと思って、そっとやり戸を開けて見ると、法然の身体から赫奕(かくえき)として光が現れて、座っている畳二畳に一ぱいさしている。その明らかなことは、夕暮れの山を望んで夕陽を見るごとくであって、身の毛もよだつばかりであった。      

 元久二年四月五日法然が月ノ輪殿(つきのわどの)に参って法談をして帰る時、見送った兼実(かねざね)が庭の上に崩れ、ひれ伏して法然の後姿(うしろすがた)を拝した。そして涙にむせびつつ、「上人がただ今虚空(こくう)に蓮華(れんげ)を踏んで歩かれた。そしてうしろに頭光(ずこう)があらわれていた。お前たちは見なかったか」と言った。右京入道と尋玄阿闍梨(じんげんあじゃり)が側にいたけれども見なかった。        

  (略)                                    

 こういう類(たぐい)の異象(いしょう)、奇瑞(きずい)は枚挙にいとまないほであるが、注意すべきことは、法然自身がそれを否定せず、門弟たちが奇瑞を見た話をすると、「そういう事もあろうか」とか、「皆そういう身にしてやりたいものだ」とか答えた事である。 

 これで見ると、法然は往生極楽のために仏の色身相(しきしんそう)を見るということは斥(しりぞ)けたけれども、念仏を称え称えて三昧(さんまい)となった暁(あかつき)に、自(おの)ずと色身相を見ることは忌(いと)わなかったばかりでなく、「そうありそうなこと」あるいは「そうありたいこと」ぐらいに考えていたらしい。観無量寿経に、紅、紫、白、色とりどりの曼荼羅(まんだら)のごとく、絢爛(けんらん)と展開されている水想観、樹想観、地想観その他を、念仏の功のつもりつもった結果として見得るに到ることは奇特なこととしていたようである。しかしこれらを見ることが出来なくては往生できぬとか、見得るために往生出来るとかいう考えは、全然排斥するのである。そういう点法然は実に公平無私であり、理想的であって、劣機(れっき)をあげて、勝機(しょうき)を落とすのとは相違する。                                     

  【 『法然と親鸞の信仰(上)』 倉田百三 講談社学術文庫  】         

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 上記から明らかなように、極楽に往生する条件として仏の色身相を見る、つまり見仏するのではないということなので、注意しなければなりません。ただ、「念仏を称え称えて三昧となった」自然な結果として、仏の色身を見たり、異象、奇瑞が現れたりすることは、法然上人は奇特なこととして受け止めておられたのです。(著者の)倉田氏は、法然上人が自分で書かれた「三昧発得記(さんまいほっとくき)」には、このような不思議がたくさん記録されている旨、書かれています。                          


 法然上人は、勢至菩薩の化身と言われたほどの優れた方でした。念仏三昧の結果、多くの異象、奇瑞を見られたことに、計り知れない仏さまの力、働きといったものを垣間見るような気持ちになります。( Saint Honen was an outstanding bonze who was

called the incarnation of Seishi. He often devoted himself to the nembutsu samadhi;

as a result, he saw a lot of abnormal and mysterious phenomena, about which I feel

as if I could get a glimpse of the Buddha’s immeasurable powers and works.)

2017-11-28

What Is Life?(人生って何ですか?) What Is Life?(人生って何ですか?)を含むブックマーク What Is Life?(人生って何ですか?)のブックマークコメント

 今日は気分がいいから教えてあげよう。人生はな、冥土までの暇つぶしや。だから、上等の暇つぶしをせにゃあかんのだ。<今東光(こんとうこう)>         

 「週刊プレイボーイ」の元編集長、島地勝彦は、若い頃、中尊寺貫主(ちゅうそんじかんす)でもある作家に、「大僧正。人生って一言でいったら何ですか?」と訊(き)いた。戴(いただ)いたこの答えに、以後すっかり「生きることが楽になった」と言う。(略)『プレイボーイの人生相談1966−2006』の島地によるまえがきから。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一 より)                             


 ある人は、人生とは、「仏法の真実を味わう道場である」と言ったそうです。意を得た言葉に感心しています。私はこれを人生とは、「仏法を聞く道場(場所)である」と味わっています。「上等な暇つぶし」をするには、つまり、上等な生き方をするには、どうすればいいのでしょう。法然上人は『和語登録』の中で教示されています。「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、聖(ひじり)で申されずば、妻(め)をまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、聖にて申すべし」。                 

 さらに、念仏に言及したものとして、あるカレンダーには次の言葉もあります。 


 「生活の中で念仏するのではなく、念仏の上に生活が営まれる」(和田稠)       

( We do not say the Nembutsu as a mere routine in our lives, but rather, we live

our lives centered on the Nembutsu.)


 人生(「仏法を聞く道場」)においては、仏法を聞けるように環境を整え、念仏を中心とした生活をすることが真宗信者には、最高の生き方だといえるでしょう。         

    ※http://d.hatena.ne.jp/miko415/20150617 (仏法の道場)        

2017-11-23

The Time Is Ripe(機が熟す) The Time Is Ripe(機が熟す)を含むブックマーク The Time Is Ripe(機が熟す)のブックマークコメント

 法然はこれまで往生要集や、善導の疏(しょ)をいくたびか読んでもさほどまで心に触れずに読み過ごした文字がいったん心機が熟するや、全く新しい、神来的な光明をもって、新天地、新世界を啓(ひら)いて見せたのである。その文字は散善義の、         

 「一心に専(もっぱ)ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざる者、これを正定の業(ごう)と名づく、かの仏(ほとけ)の願(がん)に順(したが)ふが故(ゆえ)に」                 

 というのである。                                

 何故この文字がそれほど法然を歓喜させ、声を上げ、躍りあがり、流涕(りゅうてい)して、即座に安心決定せしめたのであろうか。                     

           (略)                           

  かの仏の願に順(したが)ふが故に                       

 これまで自分の力で救われようと自分の力から出発していたものが、全然これとあべこべに、仏の願力で救われるということにふと、咄嗟(とっさ)に思い当たったのである。ハッとした。ははあ、これだなと思う。これだからこそどうもうまく行かなかったのだ。いくら学問しても、思惟工夫(しいくふう)しても、観念を凝らしても、瑜伽三密(ゆがさんみつ)の観法を行じても救われなかったのは皆自分の力で救われようとしたためだ。そうだ。他に唯一つ道が残っている。それは仏の願によって救われる道だ。他力の救済だ。    

 【 『法然と親鸞の信仰(上)』 倉田百三 講談社学術文庫 】           

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 法然上人は、比叡山で智慧第一と言われたほどの頭脳明晰な人でした。しかし、一切経を五度も読み返しても、また、ここに書かれていますように、中国の高僧、善導大師著の『観無量寿経疏』を何度か読み返しても、仏願に対する疑義は晴れなかったのです。     

 ところが、その一文(上記)の中の「かの仏の願に順(したが)うが故に」の文字が「いったん心機が熟するや」心の奥に響いたのでした。即ち、自力では救われない、「仏の願力によって救われる道だ。他力の救済だ」と気づかれたのです。             

 まさに仏願による救いの機が熟したのです。言いかえれば、前回書きましたように、救いの時節到来と言ってもいいでしょう。                        

 倉田氏の上記著書全般からは、                          

 機が熟するまでの法然上人の並々ならぬ努力が偲ばれます。             

(I do think of the outstanding efforts Saint Honen had made until the time

was ripe for Amida Buddha’s salvation. )


[広辞苑] より

※流涕(りゅうてい):涙を流すこと。                       

※瑜伽:[仏] 密教で、行者の身・口・意の働きが仏のそれと合致すること。       

※三密:[仏] 密教で、仏の身・口・意の働きをいう。人間の思惟の及ばないところを密という。また、人間の身・口・意の三業も、そのまま絶対なる仏の働きに通ずるところから三密という。                                     

2017-11-18

The Opportunity Comes(時節到来) The Opportunity Comes(時節到来)を含むブックマーク The Opportunity Comes(時節到来)のブックマークコメント

 「時節到来」の意味について、蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』(一〇五)の中で次のように仰っています。                              

 「時節到来という言葉がある。あらかじめ用心をしていて、その上で事がおこった場合に、時節到来というのである。何一つ用心もしないで事がおこった場合は、時節到来とはいわないのである。信心を得るということも同じであり、あらかじめ仏法を聴聞することを心がけた上で、信心を得るための縁がある身だとか、ない身だとかいうのである。とにもかくにも、信心は聞くということに尽きるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。      


 時節到来ということは、世間のことだけに限らず、信心を得るということにおいても同じであると言われ、「あらかじめ仏法を聴聞することを心がけた上で、(信心決定という)事がおこった場合に、時節到来というのである」と、教示されています。          

 逆に言いますと、何一つ用心もしないで(仏法を聴聞しないで)時節到来ということ(信心決定すること)は、あり得ないということです。                  


 時節到来までの仏法聴聞の大切さが伝わってきます。                

( The importance of hearing the Buddhist teachings which last until the

opportunity comes, communicates itself to me. )

2017-11-11

Pickled Ume(梅干し) Pickled Ume(梅干し)を含むブックマーク Pickled Ume(梅干し)のブックマークコメント

 つい最近のことですが、二男から小袋に入った梅干しをもらいました。それを見たとたん、口の中が酸っぱくなりました。                           

 梅干しといえば思い出されるのが、二男がまだ口もうまく利けなかった幼児の頃のことです。「梅干し」と、私が言っただけで、いかにも酸っぱそうに顔をゆがめるのでした。もちろん二男は梅干しを食べたことがあり、その味を知っていたからですが、こちらが冗談で「梅干し」と言うたびに、しかめっ面をしたその表情がおかしいやら、可愛いやらで、あの頃のことがふっとよみがえってきたのです。                     

 奇しくも、梅干しをもらってから数日して、『御一代記聞書』を開いて読んでいたとき、蓮如上人のご子息の蓮悟さんが見たという、次のような夢の話の中に梅干しが出てきたのです。今まで何度か読んでいるはずなのに、初めて読むような感じがしました。      

 (二六八)これは蓮悟さまの夢の記録です。                    

 「享禄(きょうろく)二年十二月十八日の夜の夢である。蓮如上人がわたしに御文章を書いてくださった。その御文章のお言葉に梅干しのたとえがあり、『梅干しのことをいえば、聞いている人はみな口の中が酸っぱくなる。ひとによって異なることのない一味の安心はこれと同じである』と記されていた。これは、『往生論註』の『だれもが同じく念仏して往生するのであり、別の道はない』という文(もん)のこころをお示しになったように思われる」。                                       


 阿弥陀さまより頂いた信心は一味です。その「一味の信心」の味わいが、梅干しを通して、1〜2歳の幼児でさえも等しく共有できるのです。                   


 梅干しが分かりやすい「一味」の例えになることに感心しました。          

( I admired a pickled ume for it to become a lucid example expressing the same

shinjin. )