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お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2018-06-21

The Probability to Be Born Humans(人間に生まれる確率) The Probability to Be Born Humans(人間に生まれる確率)を含むブックマーク The Probability to Be Born Humans(人間に生まれる確率)のブックマークコメント

 私が遺伝子の研究をやっていて強く感じたことは、DNAの暗号を書いたのは誰かということです。                                    

 DNAはA、T、C、Gという僅か4つの化学の文字(塩基)でしか書かれていない。しかし、その4つですべての生き物の体の設計図が書かれている。極めてシンプルですよね。真理というのはシンプルなんです。                          

 この設計図、一番目にA、T、C、Gのどれかが並ぶ可能性があり、次も4とおりのうちのどれか、その次も……。 人間の場合、これを32億回掛けていくんです。だから4の32億乗。                                      

 天文学的と言うより、超天文学的な確率の中から一人の人間が生まれてくるんです。だから偶然とはとても考えられないわけですね。人間業ではない。そのことだけは確かです。 

 その働きを人によって何と表現するかは違うけれども、私はサムシング・グレートと言っています。サムシングですから、まだよく分からないんです。             

 しかし、私自身、研究をとおして人知を超えた世界を垣間見ることができたのは、非常にありがたいことで、そうなると謙虚にならざるを得ません。              

 少々世界に先駆けて何かを発見したと威張ってみても、それは所詮人間として生まれたからできることなんです。生命の根源に畏敬し感謝こそすれ、傲慢になってはいけないと思いますね。(村上和雄・筑波大学名誉教授)                      

      【(月刊誌)『致知』 2015年12月号 致知出版社 】           

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 超天文学的確率で一人の人間が生まれるということが、研究によって分かってきたことは素晴らしいことです。現代人には、このような研究結果から得られる事実は、前回書きましたお釈迦さまの、人間に生まれ難いことの譬えとして説かれた盲亀浮木の話が誠であると、インパクトを持って受け止められるのではないかと思います。           


 個人的には、もう二千数百年も前に言われたお釈迦さまの「人身受け難し」の言葉に、「仏語に虚妄なし」との思いを一層強くしています。( Personally, I further

strengthen my thought that there is no lie in the Buddha’s words for the phrase ‘It is

difficult to be born humans’ which was told by him as long as more than 2000 years

ago.)

2018-06-17

It’s Difficult to Be Born Humans(人身受け難し) It’s Difficult to Be Born Humans(人身受け難し)を含むブックマーク It’s Difficult to Be Born Humans(人身受け難し)のブックマークコメント

 ほんの一週間ほど前、東海道新幹線の列車内で22歳の男による殺人事件がありました。このような事件はここ数ヶ月の間だけをふり返ってみましても、立て続けに起きています。例えば、父親(20)による我が子(生後2か月の乳児)の殺害、近所に住む男(23)による7歳の女児(小学二年生)の殺害、両親による5歳の女児虐待死等々です。       

 人命の尊さは地球より重いと言われるのに、せっかくこの世に生を受けながら、夭折しなければならなかった命の無念さが偲ばれます。命が軽んじられているからだと思わずにいられません。                                   


 仏法では「人身受け難し」と教えられていますが、この意味を『雑阿含経』の「盲亀浮木の譬喩」の中で説かれています。                          

「ある時、お釈迦さまが、『例えば大海中に棲み、百年に一度だけ水面に浮かび上がる目の見えない亀がいる。海には一つの浮木が漂っている。浮木には一つの穴が開いているのだが、目の見えない亀がこの浮木の穴に頭を突っ込むことがあるだろうか』と尋ねられました。すると阿難という一人の弟子が『そのようなことは到底不可能だと思います』と答えると、お釈迦さまは『誰もがそのように思うであろう。しかし、幾億兆年というような長期の間には、絶対にないとは断言できないのだ。人間に生まれることは、これ以上に難しいことなのだ』と言われたのです」                                


 この譬えからわかりますように、人間に生まれるということは至難の業なのです。命の尊さを今一度熟慮したいものですね。(Just as this parable tells , it is the most

difficult matter to be born humans. I think we should reconsider about the preciousness of life.)

2018-06-12

To Live Together(共生) To Live Together(共生)を含むブックマーク To Live Together(共生)のブックマークコメント

 我歳(われとし)きはまりて安養浄土へ還帰(げんき)すといへども和歌の浦の片雄浪(かたおなみ)のよせかけよせかけ帰らんに同じ。                    

一人居て喜はば二人と思ふべし、二人寄りて喜はば三人と思ふべし、その一人は親鸞なり。


 これは、親鸞聖人の教えを慕う門弟の間で、親鸞聖人はこう仰ったと歌い継がれてきたものです。門弟、あるいは親鸞聖人を慕う人々の間から、自然に“親鸞聖人が寄り添っていてくださるのだ”ということを恐らく言っていたのだろうと想像します。         

 しかし親鸞聖人は門弟に向かってそういうことは仰らないはずです。恐らく親鸞聖人が仰るとすれば、「阿弥陀さまがあなたと共におられます。あなたと一緒におられます。そして私にも阿弥陀さまが一緒にいてくださいます。仏さまは、私が嬉しい時に一緒に喜んでくださる方です。自分が悲しい時にはそっと寄り添って一緒に悲しんでくださる方です。それが仏さまです」とお考えだろうと思います。                     

 だからいま「共生」という明るい方向で言うとすれば、人と人とが共に生きるというだけではなく、真宗学の立場から見れば、そこに阿弥陀仏という仏さまが私と共に生きてくださっているということを考えたいと思います。                     

 阿弥陀さまがおられて、阿弥陀さまと私が一緒にいるのです。そしてあなたが阿弥陀さまと一緒にいる。だから私とあなたが一緒にいるのだという意味で、共に生きるということであれば、それはそれでいいのだろうと思います。そこに「阿弥陀さまとともに」「仏さまとともに」というところをきちんと押さえていきたいというのが、親鸞聖人のお立場で考える「共生」になるのではないかと思います。(講話:玉木興慈 短期大学部准教授)     

    【『真実に生きん』 りゅうこくブックス123 龍谷大学宗教部 】       

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 冒頭の言葉、「我歳きはまりて……….. その一人は親鸞なり」は、「御臨末御書」と呼ばれているものですが、この書は「学界の定説としては親鸞聖人ご自身が書かれたものではないとされている」と、玉木氏は仰っています。上記は、このことを念頭に置いて話されたものです。                                     

 ここでの話からも明らかなように、阿弥陀さまは、いつも私たち一人一人と一緒にいてくださいます。ですから、私たちが2人でいる時も、または3人で、あるいは大勢でいる時も、そこにはいつも阿弥陀さまが一緒におられるのです。従ってこういう意味で、玉木氏の言われる通り、私たちは共生していると言えるでしょう。               


 一人一人が、お互いに「共生」という自覚を持ち、阿弥陀さまを中心にした意義ある人生を送りたいものですね。(Each of us should be conscious of living together and we would like to live meaningful lives with one another centered on Amida Buddha.)

2018-06-07

The Solution of Death(死の解決) The Solution of Death(死の解決)を含むブックマーク The Solution of Death(死の解決)のブックマークコメント

 私の知人に天台宗の坊さんがおりました。がんに罹って入院されました。個室で、枕元には不動明王をお祀りして、時間があれば不動明王の真言を唱えておられました。がんを本人に宣告することは死刑を宣告するのと同じだと言われていた時代のことです。お医者さんは家族の方に「一ヶ月の命」と言われたそうです。しかし、家族の方たちはそれを告げませんでしたので、本人は治るものだと信じ切っておりました。ですから治りたい一心で懸命に不動明王の真言を唱えておられたのです。ところがふとしたことから自分ががんであることが分かったのです。                               

 すると状況が一変しました。それまで懸命に唱えていた不動明王の真言がパタリと止まったのです。そうしますと見る見るうちに衰弱していきました。そしてお医者さんの診立てよりも早く、一週間経った後に亡くなってしまわれました。              

 私はその姿を見せてもらって、死に対する解決は自力聖道門であっても簡単にできることではないということを教えていただいた気がします。                

 それからしますと、他力の真宗の教えはまさしく死を直視する教えだと思います、この意味で、自己の死を解決する道としての仏教として考えた場合は、究極的に真宗の教えに到ると思っております。しかし真宗は死の解決だけを問題としたのではありません。死を解決できたからこそ、今を精一杯生きることができる教えだと受け止めています。(淺田正博 文学部教授)       

  【 『真実に生きん』 りゅうこくブックス123  龍谷大学宗教部 】       

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 「(自己の死を解決する道としての仏教、として考えた場合は)真宗は死を直視する教えだと思う。そして死を解決できたからこそ、今を精一杯生きることができる教えであると受け止めている」と浅田師は言われますが、異議をさしはさむ余地は全くありません。   


 「生死不二」という言葉がありますが、生の裏には常に死の影が付随しており、生と死を切り離すことはできません。私たちが忌み嫌うこの死の解決をしてこそ、心から生を楽しむことができるのは当然と言えるでしょう。                      

(We have a phrase “Life and death are not inseparable.” Just like this phrase means,

on the back of life, the shadow of death always accompanies with life. That is to say,

each of them is not independent of each other. Naturally, it is because we have solved

the problem of death we detest that we can truly enjoy our lives.)

2018-06-02

Too Close to See(近すぎて見えない) Too Close to See(近すぎて見えない)を含むブックマーク Too Close to See(近すぎて見えない)のブックマークコメント

 山の中にいると山が見えない 汚れの中にいると汚れが見えない           

                          (東井義雄)         

 (ほのぼのカレンダー ういず仏教文化研究会編集)<6月の言葉>より       


 この言葉の意味に近いものに『故事ことわざ辞典』には「秘事は睫(まつげ)」という句が出ています。意味は、「秘伝・秘法などと言われるものは案外手近にあるのに、意外と気づかないものだということ。睫があまりにも目の近くにあるために、かえって見えないところから」とあります。また、類句に「近くて見えぬは睫」があります。         

 この近すぎて見えないもの、私に言わせてもらえば、「近くて見えぬは私自身」だと思うのです。「私」という本当の姿は仏眼を通してしか毛頭わからないからです。       


When we are in a mountain we cannot see the mountain and when in dirt we can

not see the dirt.(山の中にいると山が見えない 汚れの中にいると汚れが見えない)   

2018-05-29

Right Now(差し当たり) Right Now(差し当たり)を含むブックマーク Right Now(差し当たり)のブックマークコメント

 人生は一日一日の積み重ねである。ところが、私たちは「これからが本番だ」などと考える。しかしながら今この「差し当たり」が本番である。                

 良寛さんは「さしあたる そのことばかり 思えただ 帰らぬ昔 知らぬ行く末」と詠んでいる。過ぎ去った昔のことを悔やんでも戻らないし、未来は今日一日の真摯な努力の必然の結果である。                                  

  【『五濁の時代に 念仏の導き(上)』 木村宣彰 北日本新聞社新書 】       

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 人生は「これからが本番」と考えるのと「差し当たり」が本番と考えるのとでは、時の長短の感覚に雲泥の差が生じます。                          

 良寛さんの「さしあたる そのことばかり 思えただ 帰らぬ昔 知らぬ行く末

(Do think about only “right now”. The past never comes back and there is no knowing

the future.) 」の歌が心に響きます。                        


※差し当たり[ 明鏡国語辞典 ]                           

 将来は未定だがひとまず現時点での処置として。今のところ。当面。         

2018-05-24

Elders’ Way of Life(年長者の生き方) Elders’ Way of Life(年長者の生き方)を含むブックマーク Elders’ Way of Life(年長者の生き方)のブックマークコメント

 親鸞は晩年の境地を「自然法爾(じねんほうに)」(自然のまま、法のまま)と語った。私たちは老いを厭い、いつまでも若々しくありたいと思っているが、これは不自然なことである。まして自分の思い通りにならないとしかめ面をしてブツブツと不平不満をつぶやいていては、自分で自分の人生を不幸にしているのと同じであろう。            

 幼い子供が日々「成長」するように年長者は「成熟」しなくてはならない。人間として「成熟」するとは、どういうことか。人間に生まれさせていただいたのだから何があっても仕合わせで有り難いと思えるようになる。この世は一人では生きられないのだから、他人の立場に立って考えることができるようになることである。他者と対立する「自我」(エゴ)から他者と心の交流のできる自己(セルフ)に成熟する。                 

 この世には「分からないこと」(不可思議)が多い。その「分からないこと」を自分の「分かっている」わずかな知識に引きもどして語るのでなく、むしろ素直な感受性とつつしみを大切にしたいものである。自分の知り得ない不可思議な世界に対する「帰依」(南無)の態度によって利己的な「自我」から利他的な「自己」へとおのずから成熟せしめられるのである。                                       

  【『五濁の時代に 念仏の導き(上)』 木村宣彰 北日本新聞新書】       

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 年長者の生き方として、木村氏は「自然法爾」(自然のまま、法のまま)という言葉を挙げておられますが、その意味を『広辞苑』にはこのように書かれています。「[仏] 人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっていること。また、人為を捨てて仏に任せること。親鸞の晩年の境地」。                              

 年長者は「幼い子供が日々『成長』するように『成熟』しなくてはならない」と、「利己的な『自我』(エゴ)から利他的な『自己』(セルフ)」への成長を求められます。     

 しかし、このように「成熟」することはなかなか容易なことではありません。ところが「自分の知り得ない不可思議な世界に対する『帰依』(南無)の態度によって」とありますように、我が身を仏さまにお任せすることにより、仏さまの力によっておのずと成熟させられていくのですから、ありがたいことと言わねばなりません。                


自然法爾                                     

A term for the ultimate reality of Buddhism, expressing suchness, or things-as-

they-are, free from the bondage of birth-and-death. Jinen ( Honi ) thus signifies

that which is beyond form and time and beyond the domain of human intellect and

will. It is dharma-body as suchness, which “fills the minds of the ocean of all beings.”