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お慈悲のままに このページをアンテナに追加

2017-11-18

The Opportunity Comes(時節到来) The Opportunity Comes(時節到来)を含むブックマーク The Opportunity Comes(時節到来)のブックマークコメント

 「時節到来」の意味について、蓮如上人は『蓮如上人御一代記聞書』(一〇五)の中で次のように仰っています。                              

 「時節到来という言葉がある。あらかじめ用心をしていて、その上で事がおこった場合に、時節到来というのである。何一つ用心もしないで事がおこった場合は、時節到来とはいわないのである。信心を得るということも同じであり、あらかじめ仏法を聴聞することを心がけた上で、信心を得るための縁がある身だとか、ない身だとかいうのである。とにもかくにも、信心は聞くということに尽きるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。      


 時節到来ということは、世間のことだけに限らず、信心を得るということにおいても同じであると言われ、「あらかじめ仏法を聴聞することを心がけた上で、(信心決定という)事がおこった場合に、時節到来というのである」と、教示されています。          

 逆に言いますと、何一つ用心もしないで(仏法を聴聞しないで)時節到来ということ(信心決定すること)は、あり得ないということです。                  


 時節到来までの仏法聴聞の大切さが伝わってきます。                

( The importance of hearing the Buddhist teachings which last until the

opportunity comes, communicates itself to me. )

2017-11-11

Pickled Ume(梅干し) Pickled Ume(梅干し)を含むブックマーク Pickled Ume(梅干し)のブックマークコメント

 つい最近のことですが、二男から小袋に入った梅干しをもらいました。それを見たとたん、口の中が酸っぱくなりました。                           

 梅干しといえば思い出されるのが、二男がまだ口もうまく利けなかった幼児の頃のことです。「梅干し」と、私が言っただけで、いかにも酸っぱそうに顔をゆがめるのでした。もちろん二男は梅干しを食べたことがあり、その味を知っていたからですが、こちらが冗談で「梅干し」と言うたびに、しかめっ面をしたその表情がおかしいやら、可愛いやらで、あの頃のことがふっとよみがえってきたのです。                     

 奇しくも、梅干しをもらってから数日して、『御一代記聞書』を開いて読んでいたとき、蓮如上人のご子息の蓮悟さんが見たという、次のような夢の話の中に梅干しが出てきたのです。今まで何度か読んでいるはずなのに、初めて読むような感じがしました。      

 (二六八)これは蓮悟さまの夢の記録です。                    

 「享禄(きょうろく)二年十二月十八日の夜の夢である。蓮如上人がわたしに御文章を書いてくださった。その御文章のお言葉に梅干しのたとえがあり、『梅干しのことをいえば、聞いている人はみな口の中が酸っぱくなる。ひとによって異なることのない一味の安心はこれと同じである』と記されていた。これは、『往生論註』の『だれもが同じく念仏して往生するのであり、別の道はない』という文(もん)のこころをお示しになったように思われる」。                                       


 阿弥陀さまより頂いた信心は一味です。その「一味の信心」の味わいが、梅干しを通して、1〜2歳の幼児でさえも等しく共有できるのです。                   


 梅干しが分かりやすい「一味」の例えになることに感心しました。          

( I admired a pickled ume for it to become a lucid example expressing the same

shinjin. )

2017-11-05

Anybody Can Relate to Each Other(誰もがつながっていける) Anybody Can Relate to Each Other(誰もがつながっていける)を含むブックマーク Anybody Can Relate to Each Other(誰もがつながっていける)のブックマークコメント

(略)                                     

 曇鸞大師(6世紀に活躍した中国の僧)は、慈悲について述べる中で、阿弥陀さまの慈悲を「無縁、これ大悲なり」(『往生論註』上巻、『注釈版聖典七祖篇』62頁)と示しておられます。「無縁」とは、仏教では「つながりがない」という意味ではなく、「「特定の対象(縁)を選ぶのではない」ことを意味します。つまり、阿弥陀さまから結ばれた私との「ご縁」は、どのような者に対しても向けられる大悲(私たちを慈しむ心)のはたらきそのものなのです。このことが、『仏説無量寿経』には「十方衆生を救う」と誓われています。「十方衆生」とは、あらゆる世界のいのちのあるものという意味です。                  

 阿弥陀さまの普遍の救いに出あうとき、自分中心の世界に生きてきた私が、仏さまにつながっている世界、仏さまの慈しみに包まれている世界の中にあると、気付かされていくのです。縁のよしあしを気にして思い悩む私たちに対して、阿弥陀さまの方からすでに、全ての者に対する「ご縁」が結ばれています。この仏縁を通して、私たちが、互いに阿弥陀さまの大悲に等しく包まれているもの同士であったことが知らされていくのです。       

 【『ごえん』 浄土真宗本願寺派総合研究所、重点プロジェクト推進室 】       

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 私にとって、阿弥陀さまとのご縁、私たちお互いのご縁等、深〜い繋がりがあったとは、仏教によらなければ到底分かるものではありませんでした。              


 阿弥陀さまの十方衆生を救うという誓いの根底にあるものは、私たち一人一人にかけられた深いお慈悲の心です。このことに、一人一人が思いを致すとき、お互いに誰もがつながっていけることを自覚できると思います。                      

( What exists at the bottom of the Amida Buddha’s Vow is the Buddha’s great

mercy and compassion to each of us. When each of us thinks deeply about this, I

think anybody is able to be conscious that he or she can relate to each other. )

2017-10-29

The Spread of Relations(ご縁の広がり) The Spread of Relations(ご縁の広がり)を含むブックマーク The Spread of Relations(ご縁の広がり)のブックマークコメント

 質問です。名前しかわからない、全く見も知らぬ遠くの人へ手紙を届けなくてはなりません。何人を仲介すれば、目的の人に、その手紙は届くでしょうか?           

 これは、アメリカで1960年代に実際に行われた実験です。1600キロ離れた土地に住むビジネスマンに、自分より関係の深そうな方に手紙を渡すという方法で、人づてに手紙を送ろうとします。すると、平均して、たったの6人を介するだけで目的の人物に届くのです。これはアメリカ国内での実験でしたが、2002年には、世界規模で同様の実験を行いました。すると、やはり同じく6人で届いたそうです。                    

 私たちは、広い世界の中で、ばらばらに生きているように思いがちです。遠くにいる人であれば、全く無関係に生きているように感じてしまいます。しかし、誰もが、たった6人を通してつながり合っていける世界、「スモールワールド」に生きているということを、これらの実験は証明したのです。(略)                          

 しかし、私たち人間は、私と外の世界を切り分けて認識する習慣を持つため、つながりを断って、世界を認識してしまいがちです。それによって、自己中心的な視点に縛られ、自己へのとらわれから離れられなくなり、つながっていても、また、つながる可能性があっても、そのことを自覚することができないでいます。(略)                  

 遠い、近いという感情は、私たちの心がつくり出すものです。自他を隔(へだ)てることのない仏さまの智慧を鏡とするとき、自己のとらわれから離れられない私たちに、分別するあり方を省みて、互いにつながりあっていける可能性が開けてくることでしょう。    

 【 『ごえん』 浄土真宗本願寺派総合研究所、重点プロジェクト推進室  】    

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 実に興味深い実験結果だと思います。ここに書かれていますように、私たちは、遠くにいる人であれば全く無関係に生きているように感じてしまいます。でも、地球には現在約76億もの多くの人々が住んでいるというのに、たったの6人を通してつながっている世界であるとは……. 本当にスモールワールドです。                     

 如何に私たちは、お互いに縁が深いか、ということに驚かされます。

( I am surprised how we are deeply related with each other. )


 自己と他人とを区別してしか生きられない私たちですが、このような結果を知るだけでも、お互いに仲良くつながり合っていかなければならないという気持ちになりますし、仏さまの智慧を鏡とするとき、この気持ちはもっと強くなるように思います。         

2017-10-23

Wonders (不思議) Wonders (不思議)を含むブックマーク Wonders (不思議)のブックマークコメント

 私たちには、さまざまな縁(原因)がはたらいています。そして、そのことを、知り尽くすことができません。今、ここで起きている事柄は、数え切れない無限の原因が積み重なった結果です。私たち人間の浅はかな考え方では、到底、理解し尽くすことができません。 

 一方で、因果関係でものを見ることは、私たち人間に特徴的な思考方法でもあります。しかし、私たちには、本当の因果関係を正しく見極めることができず、自分の都合で因果関係を見てしまいます。これは誤まった認識であり、それによって誤まった行為が生み出され、悲しみや苦しみの要因ともなります。                        

 (略)                                     

 仏さまが示された「縁起」とは、物事の正しい因果のことです。この教えをよりどころとして、思い込みや自己中心的な因果関係を見てしまわないよう、常に注意しなければなりません。                                      

 あなたと私も、そして仏さまと私も、人間のはからいでは知り尽くせない多くの縁でつながって、不思議なめぐりあわせがあって、ここに出あっているのです。         

 【 『ごえん』 浄土真宗本願寺派総合研究所、重点プロジェクト推進室 】     

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 「今、ここで起きている事柄は、数え切れない無限の原因が積み重なった結果です」。私がこの世に生きていること自体、なぜこの世に生まれたのか、どんなに考えてもわかるものではありません。人間の目を通してはわかるものではないことは明らかです。結果、仏さまの目を通してしか、物事の正しい因果を知ることはできない、と知らされます。     


 私が今、ここに、「無限の原因が積み重なった結果」として存在していること自体が不思議です。                         

 でも、それ以上に不思議なことは、不思議というより言いようのないめぐりあわせによって、今、ここに阿弥陀さまと出あっていることです。( However, a more

wonder than that is I meet the Buddha here now, by a strange stroke of fate, which is

nothing less than a wonder. )

2017-10-16

First(ファースト) First(ファースト)を含むブックマーク First(ファースト)のブックマークコメント

 昨年の9月、東京都に「都民ファーストの会」という地域政党が設立されました。ここに使われている「ファースト」という言葉は、「〜が最初にある」「〜をまず第一に考える」「〜を最優先する」という意味合いで使われ、現在人気のある言葉になっています。そして「国民ファースト」「アスリートファースト」「アメリカファースト」「お客様ファースト」などの造語も生まれています。                             


 ところで、この造語を仏教的観点から見たらどうでしょうか。何事も自分中心にしか考えられない人間に当てはめるなら、さぞかし「自分ファースト」でしょうね。他の生き物に当てはめても然り。もし犬だったら「犬ファースト」、猫だったら「猫ファースト」など、いずれの生き物も、当然それぞれが「自分ファースト」だと思っているでしょう。     


 でもここで、阿弥陀仏が登場されたらどうでしょう。事態は一変し、「阿弥陀仏ファースト」に転じるでしょう。阿弥陀仏は私たちがこの地球上に登場する、そのずっと前から、衆生を必ず助けるという本願を建てられ、その本願が既に成就されているからです。即ち私たち衆生の一歩前には必ず阿弥陀仏がおられることが明らかだからです。         


 私がこのことを強く意識する箇所が、蓮如上人の「御文章(五帖)」の中にあります。「何のようもなく、一筋にこの阿弥陀ほとけの御袖(おんそで)に、ひしとすがりまいらする思いをなして『後生を助けたまへ』とたのみもうせば……. 」の件です。         


 教えを聞き始めてより長年にわたって、ただただ一心にこちらから、「どうぞ助けてください」と、私の「助けて下さい」が最初にあるもの、と思っていました。        


 ところが実際は、悠久の過去から阿弥陀仏の「必ず助ける」という言葉が、私の「助けたまへ」の言葉の前にあったのです。つまり、「必ず助ける」と約束されているのですから、「それでは助けてください」と、お任せすることだったのです。            


 「阿弥陀仏ファースト」、世に広く流布してほしい言葉です。            

( The phrase “Amida Buddha First” is what I want to be widely spread all over

the world. )

2017-10-10

Life(いのち) Life(いのち)を含むブックマーク Life(いのち)のブックマークコメント

 今、いのちがあなたを生きている                         

           真宗大谷派東本願寺                     

 2011年に催された親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマ。私が自らのいのちを生きるのではなく、いのちが私を生きていると考えるよう呼びかけた。これにふれて思い出したのが、臨床心理学を専攻する友人の、「身体こそ魂なのであって、魂という容(い)れ物の中を<私>が出入りする」という謎めいた言葉。共通するのは、身体を「私の所有物」とする考えを斥(しりぞ)けていること。(朝日新聞コラム「折々のことば」鷲田清一 より)    


 「いのちが私を生きている」の「いのち」とは、「阿弥陀仏のいのち」だと考えられます。                                             

 でも、仏願を受け入れるまでは、なかなかそのように考えることはできませんでした。ところが、仏願を疑いなく受け入れて(聞いて)、ふと気がつけば、胸の中は南無阿弥陀仏でいっぱいになっているのです。よくよく考えてみればとても不思議なことです。私の胸の中に宿っているといった感じです。今は、私の身体は「私の所有物」ではないと考えることができます。阿弥陀仏から頂いた命、生かされている命だと知らされたからです。                              

 間違いなく、今、いのちがわたしを生きているのです。                

( Without doubt, the life is now living my life. )