お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

Sakyamuni Buddha(お釈迦様)

 この念仏の歴史の一番最初は、歴史を超越した弥陀の本願です。しかし、この超歴史的な阿弥陀様は歴史の中に入ってこられたのです。お釈迦様のお説法を通して入ってこられた。だから、お釈迦様は仏様の仲間であると同時にわれわれの人間のなかまでもあられるわけです。つまり、時間の中にあると同時に、時を越えて永遠の世界におられるのです。もしお釈迦様がお出ましになって弥陀の本願を説いて下さらなかったら、仏法は人間の歴史の中に入らなかったでしょう。阿弥陀様が何やら本願が何やら、何ひとつ私共にはわからなかったでしょう。だから、私共が南無阿弥陀仏に出遇えたのはまったくお釈迦様のお陰です。お釈迦様がお説教をして下さらなかったら、阿弥陀様とかお浄土とか、そんなこと今でもわれわれにはわからないままであったでしょう。 
   【 『よきひとの仰せ「歎異抄」第二条』 大峯顯 百華苑 】    
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 ここに書かれていますように、お釈迦様がおられなかったら、私たちは仏法に出遇うことはできませんでした。                     
 今、改めて私自身が仏法を聞くようになったきっかけを2〜3挙げてみますと、まず、幼いころから両親も祖父母も仏教に熱心で、仏教を身近に感ずる環境にあったことが挙げられます。それに、社会人となり、世間の波にもまれるようになって見えてきたもの、それは、「歓楽極まりて哀情多し」と言われますように、喜びや楽しみはその頂点に達してしまうと、後は空しさや悲しみが沸々とわいてきて、その感情が次第に深まってゆくものだということでした。心の底には絶えずうつろなものが漂い、何か「これ一つ」、と確かに残るものを捜していたように思います。すべては過ぎ去れば、うたかたのように消えてしまいます。このように、常にむなしさが心の底にあったことが次に挙げられます。そして必ずやって来る死と一人で対峙しなければならない事実。恐怖以外の何ものでもない死の解決をして安心したいという思いがあったことです。                        
 この死の問題は、学問や芸術等をどれだけ追求したところで解決はできません。宗教にのみその解決法が残されています。ここに、お釈迦様が仏教を説かれた意義があります。  
 言うまでもなく、お釈迦様は覚りの52位といわれる最高位の52段目の‘仏の覚り’を開かれ、阿弥陀様の存在を発見され、仏法を説かれた方です。     
 「お釈迦様がお説法をして下さらなかったら、阿弥陀仏とかお浄土とか、そんなこと今でもわれわれにはわからないままであったでしょう」                  


 ますますお釈迦様の存在の意義(重要性)を感じます。        
( I more than ever feel the significance of Sakyamuni Buddha’s existence.)