お慈悲のままに

日々、思ったことを綴っていきます~(ちょっと英語もまじえて)。私の趣味は‘英語を楽しむこと’です。その一環として少し英語を取り入れることにしました。

To Hear a matter of Importance(大切なことを聞く)

 仏法を聞き続けると、たいへんなことがことがわかってきます。たとえば、「罪悪深重」という言葉は、あの人よりも罪悪が重いとか深いとかいう比較をしているのではないということです。また「煩悩熾盛」は、静まっている煩悩が何かの縁で突然に燃え盛るという過程や程度を示す言葉ではないということです。罪悪なしには生きることができないし、無始以来の煩悩を引きずり続けているということでしかありません。            
 ありのままの自分をごまかさずにみつめるということをしなくても、仏法によって目をそらすことのできない自分自身が明らかになってくるということなのです。(略)     
 仏法では、善を行うことができない罪悪深重、煩悩熾盛の自分の姿が示されているだけではありません。怖ろしいものを抱えているありのままの私だから、放ってはおけない、摂取不捨せずにはおかないと、念仏を成就し与えて下さっているのです。その阿弥陀さまのこころもいっしょに聞かせていただかなければ、仏法を聞いたことにはなりません。長年にわたって真剣に聴聞していると思っても、大切なことを聞き逃してはいませんか?      
   【 『私のものさし 仏のこころ』 西光義秀 探究社  】     
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 親鸞聖人は私たち凡夫の姿を次のように言われました。          
「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(Foolish beings are full of ignorance and blind passion. Our desires are
countless, and anger, wrath, jealousy, and envy are overwhelming, arising without
pause; to the very last moment of life they do not cease, or disappear, or exhaust
themselves.)

 このようなわが身の姿は特別に自分を見つめるということをしなくても、仏法を聞けばわかることだと西光師は言われます。しかしここで、極めて大切なことは、自分の姿を知らされるということだけにとどまらず、このような罪悪深重の凡夫を哀れみ、放っておけないと立ち上がられた、阿弥陀さまの(慈悲の)こころを聞かせていただかなければならないのだと言われるのです。もっともなことだと思います。