磯長御廟

親しいお寺さんの方に誘われ、グループで1日、2日と
大阪方面の聖徳太子史跡めぐりをしてきました。
個人ではめったに行けないので、これも御縁ですね。


磯長御廟(しながごびょう)





聖徳太子は四十九歳で亡くなり、母間人の埋葬された磯長の御廟に太子より一日早く亡くなられた妃の一人膳大郎女ととも埋葬されました。
後にこの磯長の御廟を中心に太子信仰が広まっていきました。
比叡山では聖徳太子天台宗二祖の慧思禅師の再誕とし、
また平安時代中期に編纂された「聖徳太子伝暦」の中では「母間人の夢に金色の僧が現れ、救世観音と名のり后の腹に宿った」という伝承が記され、
太子は久世観音の化身とする信仰が広まっていきました。
比叡山の僧として九歳より二十九歳までの二十年間修学された親鸞聖人にとって聖徳太子に特別な思いがあったことが推察されます。


また平安中期には磯長の御廟より「太子廟窟偈」という偈文が発見されました。
そこには太子自らを久世観音、后を大勢至、母を弥陀尊とし、末世の衆生を救わんがために身をこの廟窟に残す。
この三骨一廟は三尊であり、一度参詣すれば極楽に往生することが定まると書かれており、太子信仰と浄土信仰がここに結びつき、
磯長の御廟はさらに多くの人の信仰を集めるようになりました。
親鸞聖人御自筆の「太子廟窟偈」の抄出が現在金沢市の専光寺に収蔵されています。



太子の夢告
親鸞聖人は二十九歳の時聖徳太子創建と伝えられる京都の六角堂に参籠されました。
そして九十五日目の暁に聖徳太子の示現を得たことが、
法然上人の禅室に行く契機となりました。
この時に聖徳太子が示した文はこの廟窟偈の抄出とする説もありますが、
諸説あり確定はできていません。
また親鸞聖人は聖徳太子を讃仰した和讃を多数制作しています。
そのなかで親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」と呼び、
聖徳太子のすすめによって阿弥陀如来誓願に遇うことができ、
正定聚に住する身(浄土へ往生することが定まった身)となることができたとその恩徳を詠っています。
また磯長御廟に建てられた叡福寺境内には見真堂があり、
親鸞聖人が八十八歳の時参籠されその時に自ら刻まれたと伝承されている木造が安置されています。
                                  



四天王寺

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、
「日本仏教の最初の寺」として、
既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、
1946年に和宗総本山として独立しています。