『御二河白道之柵』

 五嶋みどりさん の
〈素直に、ただ素直に〉
「・・・だから私は素直に演奏していきたい。
素直であるために、欲というものをなるべく見つめ直して、
できる限り離していきたいと思います」
を読んで、
先に載せた棟方志功の制作態度 にあった、エピソードが浮かんできました。

・・・・・
棟方が頼まれた絵を仕上げて依頼主に収める時、
自分の頭より上に捧げて持っていったという話。
その理由をたずねられると、
「この絵は自分が描いたものではなく、自分以上のものが描いた。
だから自分より偉いのだ」
と答えたそうです。
・・・・・

太田浩史さんの講演最後には『御二河白道之柵』を描いた由来を話されました。

『御二河白道之柵』  棟方志功
福光時代、最後の作品(昭和26年11月) 善興寺:富山県高岡市
※画像は「NHKカルチャーラジオ 文学の世界『歎異抄』と現代 表紙」より

太田浩史師の講演棟方志功の還相廻向 に追記します。

城端別院の信仰・芸術サロンの集まりには本願寺派の僧侶飛鳥寛栗の姿もあった。
飛鳥は親交のある亀井勝一郎がいつか
「御堂は、美の殿堂でなければならない」
と語ったのを想いだし、昭和二十五年九月、
棟方に「二河白道」の絵を頼んだ。
棟方は「二河白道のことは全く知らないので、何か手がかりがほしい」
と言った。
「それでは」と飛鳥は金子大栄の著書『二河譬』を渡したが、そのまま音沙汰がないのですっかり忘れてしまった。
昭和二六年十一月六日になってハガキが届いた。
「七日おじゃましてよろしいでしょうか」(抜粋]

善興寺に着いた棟方は経文や歌を誦しながら猛烈な速さで筆を躍らせた。
飛鳥が中座して隣寺の報恩講に出勤して帰ってくると、絵は大半が出来上がっていた。
翌朝、
「志功製 昭和26・11月8日」と署名した棟方は飄々と帰って行った。
そして念仏者棟方志功の最高傑作というべきこの『二河白道図』を最後の仕事として
約7年間にわたる福光の疎開生活は終わったのでした。

*古田 和弘 師 善導大師【第3講】 「二河白道」の譬

善導大師の『観経疏』「散善義」の中にあります。
たとえ話とはいえ真宗の教えを説く上でたいへん重要なものですから、
親鸞聖人はこれを『教行信証』「信巻」に引用(聖典219〜221頁)されています。

一人の旅人が西に向って長い旅を続けていると前を遮ぎる河に出くわした。
南の方は火の河、北は水の河である。
幅は百歩ぐらいあって深さは底が知れない。
それが南北に果てしなく続いている。
火と水の間に一本の白い道がある。幅は4.5寸と狭く、
長さは百歩ぐらいで向う岸に達している。
右からは波浪が覆いかぶさり、左からは火焔が襲い道を焼いて止むことがない。

河を前にしてたった独り行き悩んでいる旅人を見て、
東の曠野から盗賊や悪獣が群れ集って命を狙い襲いかかろうとしている。
西に向うしかないこの旅人は思わずつぶやいた。
「河は南北に果てがないからどちらにも逃げ切れない。
中間に道はあってもきわめて狭い。
百歩ぐらいの距離といえどもどうして渡ることができるだろうか。
戻れば盗賊悪獣が待ちかまえている。
南北へ行けば悪獣毒虫である。
目の前の道を行けば水や火に呑まれるにちがいない。」と。

この状況に追いつめられた旅人は、
言葉にならない恐怖におののきながらこう思った。
「戻っても死ぬ。止まっても死ぬ。
行っても死ぬ。
どうしても死を免がれないのならこの道を進むしかない。
なぜか知らないがすでにここに道があるからだ。
きっと渡れるにちがいない。」と。

 そう思ったとき突然背後から声が聞えた。
「あなたはしっかりと心を決めてこの道を進みなさい。
きっと死の難を免がれます。
ぐずぐずとためらってここに止まっていては命はありません。」と。

 同時に向う岸から喚び声があった。
「疑いを捨てて迷うことなく、いま、すぐ、ここへ来なさい。
私が必ず護ります。
波浪も火焔も怖がることはありません。」と。

 行けと勧め、来いと呼ばれた旅人が疑い、怯え、尻込みする気持ちを振り捨てて二、三歩進みかけたとき東岸の盗賊たちが
「行けば必ず死ぬ。悪いことは云わないから戻って来い。」
と喚ばわる。
そんなことに一切耳をかさずひたすら道だけをたよりに歩んだ旅人は、
ついに河を渡り切って、すべての災難を免れることができた。
そして出迎えてくれた西岸の人たちと手を取って喜び合った。