きいちゃん

結婚式で「妹は私のほこりです」といわれたお姉さん。

「きいちゃん」(山元加津子著)は小学校6年生の教科書に載り、
その後中学校の道徳の副読本にも載りました。
きいちゃんは今も、和裁を続けています。            

      きいちゃん


かっこちゃんのメルマガ 第1081号
「宮ぷーこころの架橋ぷろじぇくと」(2012年7月22日)で配信されたものです。

今日のような寒い日、心が温まりますよ。

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きいちゃんの話
きいちゃんは私が教員になったばかりのときに出会いました。
きいちゃんはそのとき、高校二年生でした。
きいちゃんは、小さいときに高い熱が出て、
それがもとで手や足が思うように動かなくなって、
訓練のために、親元を3歳のときから離れて、学校の近くの施設で生活をしていました。
きいちゃんは、教室の中でいつもさびしそうでした。
たいていのとき、うつむいてひとりぼっちで座っていました。
そして「どうせわたしなんて」というのが口癖で、
私はそのことがとても気がかりでした。

だから、ある日、きいちゃんが職員室の私のところへ「せんせいーー」って大きな声で飛びこんできてくれたときは本当にびっくりしたのです。
こんなにうれしそうなきいちゃんを私は初めてみたのです。
「どうしたの?」そうたずねると、
きいちゃんは
「おねえさんが結婚するの。私、結婚式に出るのよ」
ってにこにこしながら教えてくれました。
ああ、よかったって私もすごくうれしかったのです。

それなのに、それから何日かたったころ、教室で机に顔を押しつけるようにして、ひとりで泣いているきいちゃんをみつけました。 
涙でぬれた顔をあげてきいちゃんが言いました。
「おかあさんがわたしに、結婚式に出ないでほしいって言ったの。
おかあさんは私のことが恥ずかしいのよ。
おねえさんのことばかり考えているのよ。
私なんてうまなければよかったのに」
きいちゃんはやっとのことでそういうと、またはげ
しく泣いていたのです。
 
でも、きいちゃんのお母さんはいつもいつもきいちゃんのことばかり考えているような人でした。
お母さんは面会日のたびに、きいちゃんに会うために、
まだ暗いうちに家を出て、電車やバスをいくつも乗りついで4時間もかけて、
きいちゃんに会いに来られていたのです。
毎日のお仕事がどんなに大変でも、
きいちゃんに会いに来られるのを一度もお休みしたことはないくらいでした。
そしてね、私にも、きいちゃんの喜ぶことは何でもしたいのだと話しておられたのです。
 
だからおかあさんは決っしてきいちゃんが言うように、おねえさんのことばかり考えていたわけではないと思うのです。
ただ、もしかしたら、結婚式にきいちゃんが出ることで、
おねえさんが肩身の狭い思いをするのではないか、
あるいは、きいちゃん自身がつらい思いをするのじゃないかとお母さんが心配されたからではないかと私は思いました。

私がそう考えたのには理由があります。
きいちゃんと出会ったのは今から30年以上前で今とはずいぶん状況が違っていました。
そのころは、養護学校の子どもたちがどんなに素敵な絵を描いても文章を綴っても、本名をつけて発表されることはありませんでした。
いつも、東京都A子とか、イニシャルでしか発表されない、そんな時代だっ
たのです。
子どもたちは生まれてそこで生きていると言うことすら隠されている時代
でした。
私は自分が自分であることを隠さなければならないのはおかしいと思いまし
たが、先輩は、
それは家族の方が悪いのではなくて、社会がそうなんだよと言いました。

きいちゃんはとても悲しそうだったし、
「うまなければよかったのに・・」
ときいちゃんに言われたお母さんもどんなに悲しい思いをしておられるだろうと私は心配でした。
けれど、きいちゃんの悲しい気持ちにもお母さんの悲しい気持ちにも、
私は何をすることもできませんでした。
ただ、きいちゃんに
「おねえさんに結婚のお祝いのプレゼントをつくろうよ」
と言いました。
 
石川県の金沢の山の方に和紙をつくっている二俣というところがあります。
そこで、布を染める方法をならってきました。
さらしという真っ白な布を買ってきて、
きいちゃんといっしょにそれを夕日の色に染めました。 
そしてその布で、ゆかたを縫ってプレゼントすることにしたのです。 
でも、本当を言うと、私はきいちゃんにゆかたを縫うことはとてもむずかしいことだろうと思っていたのです。
きいちゃんは、手や足が思ったところへなかなかもっていけないので、
ごはんを食べたり、字を書いたりするときも誰か他の人といっしょにすることが多かったのです。
ミシンもあるし、いっしょに針をもって縫ってもいいのだからと私は考えていました。

でも、きいちゃんは「ぜったいにひとりでぬう」と言いはりました。
まちがって指を針でさして、練習用の布が血で真っ赤になっても、
「おねえちゃんの結婚のプレゼントなのだもの」
ってひとりで縫うことをやめようとはしませんでした。

私、びっくりしたのだけど、きいちゃんは縫うのがどんどん、どんどんじょうずになっていきました。 
学校の休み時間も、施設へ帰ってからもきいちゃんはずっとゆかたを縫っていました。
体をこわしてしまうのではないかと思うくらい一所懸命、
きいちゃんはゆかたを縫い続けました。 
そしてとうとう結婚式の10日前にゆかたはできあがったのです。 

宅急便でおねえさんのところへゆかたを送ってから二日ほど経っていたころだったと思います。
きいちゃんのおねえさんから私のところに電話がかかってきたのです。

おどろいたことに、きいちゃんのおねえさんは、
きいちゃんだけではなくて私にまで結婚式に出てほしいと言うのです。
けれどきいちゃんのお母さんの気持ちを考えると、
どうしたらいいのかわかりませんでした。
お母さんに電話をしたら、お母さんは
「あのこの姉が、どうしてもそうしたいと言うのです。出てあげてください」
と言って下さったので結婚式に出ることにしました。

結婚式のおねえさんはとてもきれいでした。
そして幸せそうでした。
それを見て、とてもうれしかったけれど、でも気になることがありました。
結婚式に出ておられた人たちがきいちゃんをじろじろ見ていたり、
なにかひそひそ話しているのが私たちの耳にも聞こえてきました。
「どうしてあんな子つれてきたんかね」
「だれがこれから面倒をみていくことになるんだろう」
「赤ちゃんが生まれたら障がいがある子どもがうまれるじゃないだろうか?」
きいちゃんはすっかり元気をなくしてしまい、
おいしそうな御馳走も食べたくないと言いました。
(きいちゃんはどう思っているかしら、やっぱり出ないほうがよかったのではないかしら)
とそんなことをちょうど考えていたときでした。

お色直しをして扉から出てきたおねえさんは、きいちゃんが縫ったあの浴衣を着ていたのです。
浴衣はおねえさんにとてもよく似合っていました。
きいちゃんも私もうれしくて、おねえさんばかりをみつめていました。
おねえさんはお相手の方とマイクの前に立たれて、私たちを前に呼んでくださいました。
そしてこんなふうに話し出されました。

「みなさんこのゆかたを見てください。
このゆかたは私の妹が縫ってくれたのです。
妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由になりました。
そのために家から離れて生活しなくてはなりませんでした。
家で父や母と暮らしている私のことを恨んでいるのではないかと思ったこともありました。
それなのに、こんなりっぱなゆかたを縫ってくれたのです。
私はこの浴衣が届いたときに涙が止まりませんでした。
妹はどんな思いをして、どんなに一生懸命この浴衣を縫ってくれただろうと思いました。
私は妹を新しい家族に知ってもらいたいと思いました。
妹は私のほこりです」

そのとき、式場のどこからともなく拍手が起こり、式場中が、大きな拍手でいっぱいになりました。
そのときのはずかしそうだけれど、誇らしげでうれしそうなきいちゃんの顔を私はいまもはっきりと覚えています。
私はそのとき、とても感激しました。
おねえさんはなんてすばらしい人なのでしょう。
そして、おねえさんの気持ちを動かした、
きいちゃんのがんばりはなんて素敵なのでしょう。

きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきました。
そしてこれからもきいちゃんとして生きていくのです。
もし、名前を隠したり、かくれたりして生きていったら、
それからのきいちゃんの生活はどんなにさびしいものになったでしょうか?

お母さんは、結婚式のあと、私にありがとうと言ってくださいました。
でも私はなんにもしていませんと言うと、お母さんは、
「あの子が、お母さん、生んでくれてありがとう。私幸せです」
と話してくれたと泣きながらおっしゃいました。

お母さんは、きいちゃんが、障がいを持ったときから、きいちゃんの障がいは自分のせいだと思ってずっとご自分を責め続けてこられたのだそうです。
もし、もう一時間でも早く大きな病院に連れて行っていたら、
あの子に障がいが残ることはなかったのじゃないか、
あの子の障がいは自分のせいだと思ってずっと自分を責めていたと話しておられました。

きいちゃんは結婚式の後、とても明るい女の子になりました。
これが本当のきいちゃんの姿だったのだろうと思います。
あの後、きいちゃんは、和裁を習いたいといいました。
そしてそれを一生のお仕事に選んだのです。
きいちゃんだけでなく、こどもたちはいつも、
みんな素敵で大切な存在なんだと言うことを教えてくれるなあと思います。
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