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2017-01-21 観念の弓。 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

弓とかのことを考えているとスキゾ寸前の細かいところとかが気になり始めてまぁようは感覚が鋭くなってるっていうことなんだけどでもあくまでそれは考えているということなんだよね。実際にやってるわけじゃない(笑)それどころかバートルビーばりの"I would prefer not to"な感じで「弓、お引きになりますか?」と尋ねられても「いや、今日はやめておこう」っていうのが永遠にループする感じだよねっつーのは分からないうちに道具を触っても全く意味がないから一連のことを何も見ずにやれるぐらい知識の体系が揃っていないとダメっていう縛りをかけているからんでもせっかく買ったんだから少しはやれば?とかって言われてもやらないんだよね(笑)


つまりは観念的に弓をやってるってことだわな。まぁ実際にやると意外に弓を引く右手よりも支える左のほうが疲れてプルプルしてくるとかね、FPSでSwayって致命的じゃないですか?ちょっとのズレで弾道がズレて当たらなくなるからSwayを最小限に抑えるってことでまず立ち止まってんでSteady Aimで撃つってのが鉄則ですよね。そのSteady Aimの難しさと言ったら!いや、人間プルプルするものですよね。息止めたところで手はプルプルするよね。果たしてこれは筋力とか体力の問題なのか?っていう気がしてくるけどだったら筋トレだ!っつーと脳筋の武道になってダメになるよね。そうじゃなくていかにそれにおける知識が完璧で完全に技として習得しているからこそ最低限の力だけで弓が引けるようになるわけだ。力で引くなんてのは問題外なんだよね。むしろ筋力なんて鍛えないほうがいいぐらいだよね。それで弓をやるときにだけ使うからその時だけその筋力が鍛えられるぐらいのものでいいわけ。


筋トレ原理主義がバカバカしいのはなんでも力で克服しようとするからだよね。そうじゃないんだよな。普段読書かゲームしかやってないようなやつの筋力と体力でもその道の卓越した知識と技術によって弓が綺麗に引けるようになる!っていうのが技ってことですよね。だから練習もクソもないわけだ。まずは完全に完璧な「これだ!」というようなものを得てからそれを身体にフィードバックするために実際にやるっていう言わば観念からリアルへの移行という感じだよね。でもそれは何回もやってればだんだん慣れてきて引けるようになるみたいなもんじゃなくて完成形とか完璧なものってのがありきじゃないとありえないよね。だからまぁ大抵はどっかの道場に行って教えてもらうしかなくなるわけだ。


んでも前に書いたようなインナーコーチを育成するっていう意味ではね、ようは自分が身体を使う学習者っていう初学者の立場と指導するっていう教官の立場の二つを同時に取ることになるわけだよね。もちろん「どうやればいいのか?」というのが分かったところでやったことないもんはまず手のレベルで矢を落としちゃったりしてうまくいかないんだけどそれはまぁアサシンクリードじゃないけどシンクロ率だよね。「The Past is Your Playground」ってことなんだけどさ、ようは過去に実践されていたリアルな弓術ってのをリアルに体験することで自分のものとするっていうことなんだけどそのThe Pastの弓術の再現性の精度だよね。


それがようは緻密なリサーチと体系的な理解と物理学的な必然性っていうのが統合されることでそれが統覚されるわけだよね。それがようは弓術という身体のアウトプットとして出力される結果、それが身体と知識とのシンクロ率が高まれば良い射ができるということになるわけだよね。だからそれはやりながら覚えるということがありえないから最初から教官にでもなるんですか?というぐらいの精度での弓術全般に関する知識のディティールを必要とするんだよね。それはもう本当に数学的な厳密さと言ってもいいぐらいのある意味での公理主義的な感じだよね。凄くそういう意味で弓術というのを物理とか生理学とか当てようとして体にフォーカスが行かないみたいなダメな精神の在り方を統一するみたいなことでの精神面での修練とかっていうのをブロック的に考えるってことなんだけどブルバキで言うところの代数的構造Magmaってやつですよね。


別にそれが厳密な代数系の構造を持っている必要は無いけどアナロジカルな意味では代数構造のように考えることができるんだよね。そうなるともはや必要与件を満たすということになるわけだよね。でもそれに必要なのは射に至る以前でも射に至るまでのプロセスですらも最善のマグマの構造を身体的アウトプットとして出力できているか?というのが問題になるわけでそれは体が追い付かないという面もあるにせよでも大体は知識不足だよね。「これはどうだったっけ?」ということになってんで最善のマグマを満たすもの以外の自己流の「やれればよい」というやり方を一切しないということだよね。それが結果的にバートルビー的な「I would prefer not to」ってことになるんだよね。やってみようか!ってのはあるけどやってみるってほどプロセスを理解してないし理解するべきことが山ほどあるだろうってことになる。


だからこのバートルビー状態ってのは相当長く続くだろうね。最善のマグマ的代数構造を持つ弓術の最適な射術における均衡点を観念的に撃てないのであればそれはもう全く意味がないものになるよね。まぁそんなわけで図書館で借りてこようと思ってた現代弓道講座なんだけど買っちゃいましたね。もう借りるっていうコミットのレベルじゃないですよね。人生をかけるぐらいの意気込みで弓と心中するというような心持だよね。それは刀然りだけどもそのぐらいの精神性と精度の高さとハイレゾな感じを目指さないと何にもならないよね。ただのアマチュアの弓遊びとか刀遊びっていうただの遊戯とかレクリエーションっていうレベルになっちゃうよね。


武士ってのはそれをやらなきゃ死ぬわけだったわけだ。それが命を左右してたわけだよね。その重さといったらないよね。だから自分は可能な限りその重さを体感しながらやりたいって思ってるんだよね。んでそれが逆説的に「I would prefer not to」になってるっていうそこがまた面白いでしょ?(笑)今の学習中の段階ではやるなんてのはとんでもないわけでそれでもちょっと触ったりやりたくなるでしょうっつってもそれは「I would prefer not to」なんだよね。


それを「観念の弓」と名付けよう!とかって言ってみたりして(笑)でもまぁ独学でやるのならむしろ観念の弓コース以外ありえないよね。リサーチさえすれば細部における必要与件というのを満たすことができたり「ここは最善ではどうなのだろうか?」というところをなんとなくやってみてなんとなくなっとくするのではなくて常に最善の形とかやり方ってのを完全に理解したうえで実践しないと意味がないということだよね。もちろんそれで学習の段階でんじゃあ観念の段階はだいぶ進んできてではそれを身体にフィードバックさせるっていう段階になっても次は体が言うことを効かないでしょう。体が上手く動かないよね。でも観念レベルでやれていれば何ができていないのか?というのが分かるよね。で、ちょっといじったりちょっとやったりして思ったのはこりゃ筋力の問題じゃなくて知識の問題だって完全に思ったよね。安易な考えなら筋力が足りないっつって引く力を鍛えようとしたりするんだろうけどそんなことじゃないんだよね。正しいプロセスを経れば嫌でも良い弓が引けてしまうんだよね。それが武芸なんだよね。もちろんそれは精神的な統一とかも含めてね。


まぁそんな感じですね。意味がない間違った動きとか知識でやっている無駄稽古で体を消耗することなく常に最善のトライ&エラーができるっていうことですよね。んでそのエラーからの身体フィードバックってのを得てんじゃあなぜそれがエラーになるのか?ということを考えられる思念ってのがあるわけだよね。それがまさに観念の弓っていうことなんだよね。まぁもちろんそれには膨大な弓術の知識を必要とするからまずはそれだよねってことなんだよね。道場に行けばやりながら教わることができるけど教わることができない状況では自分でやるしかなくて自分でやるにはその観念コースっつーハードコアコースのみが残されているっていう感じだよね。


まぁそのハードコアの味わいってのがまぁオツですよね。凄く。やりがいがあって取り組んでいて楽しいものだよね。簡単にできるものじゃなくて凄まじいチャレンジを必要とするという意味でも新しいことを覚えたい!とかやりたい!っていう欲求が満たされるしね。まぁ最高の自給自足のシステムですよね。


まぁそんな感じっすね。んじゃまた

塑 2017/01/21 09:45 コメント失礼します。

「観念的にわかっていない」状態で弓を引くことによって体感できるものについてはどうお考えでしょうか? ぼくはこういうものの価値ってやっぱりあると思うんですよね。あやふやな感覚だったり、なにかがおかしいという感覚だったり、あるいはよくわからないけどうまくいってしまって怖い、という感覚だったり。観念的に押さえたあとで弓を引くという路線を徹底するとそれらの体感が可能性レベルで消えてしまってちょっともったいない気がしませんか? もちろん想像はできるでしょうけど、それは往々にして切迫感を伴いません。経験なしで読む哲学書のような。

なんというかあれですよ。小説家とか音楽家にとって経験はやっぱりそれが全てではないにせよ重要なものじゃないですか? 作品をつくるうえで武器になることは間違いない。けどもう売れに売れまくった小説家が、たとえばあるとき神待ち掲示板かなにかを使ってJKと援交する経験って具体的にどんなものなのかを知りたいと思ったり、あるいはどっかの風俗店とかに行ってそこで体験できる独特の虚しさのようなものを身にしみて感じたいと思ったとしても、それはもう無理なわけです。だってその人はもう売れに売れてしまっていて、顔も世間に知れ渡っていて、だから援交とか風俗店なんかに手を出した日にはスキャンダル、失墜だから。もちろん話のわかる人間は作品の価値が作者の素行によって貶められるとはかぎらないと知っていますが、世の中そんな話のわかる人間ばかりではありません。失墜した人間の小説、というフィルターを介してしか世間に受容されなくなってしまう。書いたはずのことが適切に読み取られなくなってしまう。むしろ書いていないことばかり読み取られてしまう。だから顔が売れる前に援交しときゃよかった、となるわけです。そう思いながら口には出さず、書斎で静かに次作の長編を執筆する。そしてなんとなく制限された感じがする、と。

こういう不可逆性がある。

趣味の絡むところではあるかもしれませんが、ぼくは「顔が売れる前に援交しとく」ほうが好みです。
mimisemiさんはどちらが好みでしょう?