『嘘の戦争』第2話

結果的に主人公が生き残ったのはそれとして家族もろとも皆殺しにしたわけで、そういう仕事専門の人間を雇ったというのならばターゲットしか在宅してないはずのところへ家族が戻ってくるという“アクシデント”の対処としてまとめて殺すってのはまぁありえるだろうなと思うもののそうじゃないじゃん?人体に刃物刺すことには慣れてるかもだけど殺しは素人じゃん?。そんな人間使ってこれだけのことをやったというのに、その理由が“偉い人のバカ息子が犯した殺人を隠蔽するため”ってのはなんていうか・・・・・・ショボすぎねーか?。
殺人をもみ消す(事故として処理する)ために口止めを受け入れない者を殺すって時点でどうかと思うのに、案の定妻子まで殺す羽目になって余計な人間(新聞配達少年)も巻き込んでるし、素人のやることなんてこんなもんかもしれないけどアホですかと。
よくある話だけど例えば巨万の富を生む新薬に問題があることを知ってしまって告発しようとしたら口封じで殺されたとかさ、そういうことなら得られるはずの利益と人ひとりの命を秤にかけて「よし殺そう」ってなるのもまぁ納得できるんですよ。納得ってか理解はできる。二科コーポレーションという会社がどれぐらいの企業なのかわかりませんが、それなりの規模の会社だとしてそこまで大きくなった背景には30年前の殺人をもみ消したことがあるわけだよね。つまり“偉い人”の力ってのはそれを可能にするだけのものである(だから一家惨殺してまで息子の殺人をなかったことにしようとした)ということなのでしょうが、つまんない理由だったんだな・・・とは思った。
でもそんな巨万の富なんて話だとしたら復讐相手は企業規模になってしまうわけで、「個人」を相手にしたほうがわかりやすくていいのかな。
ところで、30年前に大学生ということは、現在50歳前後ということになるけど、ヤスケン演じる長男って何歳設定なんだろう?。もしヤスケンがそれぐらいの年齢設定なのだとしたら、ヤスケンも30年前に女子大生だかOLだかを殺してしまったバカ息子グループの一員だった、なんてことはないだろうか。バカ息子が勢い余って女を殺しちゃったってな話がなんで二科のところに持ち込まれたかって話はなかったよね?。バカ息子の父親が警察官僚とか医師会の役職者とか厚労省の役人とか、そんな立場の人間であれば警察と検死を担当する医師がもみ消しに加担しても不思議じゃないけど、そこで二科がいっちょかみどころかもみ消し計画の責任者になってることが謎なのよね。ってところで、長男・晃がその場にいたからってのは理由としてありえるかもなーと。
晃はバカ息子の金魚のフンのような立場で、女に乱暴しようとしたときも部屋の外で見張りかなんかさせられてたんだけど、お前も同罪だよなーとか言われて父親に泣きついて、そんで二科が後始末を担うことになったとか。一ノ瀬は晃のことを二科家に繋がるための入り口としか思ってないけど、実は家族を殺された原因である事件に晃が関わっていたのだー!ってなことになればちょっと面白いかなーと。
なんなら五十嵐と一緒に千葉家に押し入った“実行犯”のもう一人が晃とか。ボンクラ長男だと思ったら案外イイ奴で、父親の罪のためにそんなイイ奴を騙してることに苦しみながらも心を鬼にして復讐街道驀進してたってのに実は晃が家族を殺した張本人だったってなことになったらさすがの一ノ瀬もショックだろうし、ヤスケン的にも面白い(するとわたしも嬉しい)かも。

『東京タラレバ娘』

吉高ちゃんは好きだけどその隣にいるでっかい女とちっちゃい女が嫌いだし話自体も興味なさそうなんで(原作未読です)スルーでいいかなと思いつつもドラマ好きとしてとりあえず初回だけは見たわけですが、やっぱりアカンやつだった。わたしはもはや三人の言ってることややってることや言われてることにドキっとしたりグサっときたりする時期は通り過ぎてしまっているし、そもそもバッターボックスに立つどころかベンチに座ってること自体めんどくせえ・・・と思いつづけて今まで生きてきたので完全にターゲット外ですよね。わかってましたけど。
でもこの三人組のうち誰か一人が結婚出来たとして、残りの二人にそのとき結婚までいけそうな男がいればいいけどそうでなかったら女の友情なんて木端微塵に砕けるどころか全力で呪われるんだろうなー(笑)という目線で見るとちょっと楽しいかもw。
あとああいう感じの居酒屋が実家の友達がいるっていいなーと。あんなふうに気兼ねなく好き勝手にギャーギャー騒ぎたいんじゃなくって、ひとりで行っても(その場に居ても)友達んちがやってる店なら余計な詮索されずに済むじゃん?(とか思っちゃう時点でわたしにまだ他者の目を気にしてるところがあるということか・・・)。

貫井 徳郎『壁の男』

壁の男

壁の男

家々の壁に原色を使った稚拙な絵が描かれている街が話題となり、フリーライターの男が取材すべく現地に向かう。絵を描いた人物の特定は容易でアポなしで接触するもその男は極端に無愛想で取り付く島もない。仕方なく周辺調査をする中で、フリーライターはやがてその男自身への興味を抑えられなくなっていく・・・という物語。
なぜ他人の家の壁に稚拙な絵を描くのか、なぜ稚拙な絵を自宅の壁に描かせるのか(それを認めるのか)、その二点について調査するフリーライターの視点で「絵を描く男」を掘り下げていく構成かと思いきや、その男自身の視点が出てくるんですよね。例えば日記という形だとか、誰かに語っているだとか、そういうことではなく唐突に男の物語が過去回想のような感じで描かれるのです。貫井さんだけにそれがラストの衝撃に繋がるのだろうと期待を抱きながら読み進めたんだけど、特にそういうことはなく、じゃあこの「男自身の視点」はなんだったのかと。別におかしいとかそういうんじゃないんだけど、貫井さんの作品だという先入観がそこに何かあるんじゃないかと思わせるので、なにもないとガッカリしてしまう貫井読者の性というかエゴというか。
絵を描く男の物語、その過去であり人生は辛いもので、そんな男の描く絵が笑顔を呼び救いを齎す。簡単に言ってしまえばそういうことなんだけど、そこには男だけでなく人々の苦しみや孤独があって、描かれる絵が子供にも笑われるほど稚拙なものであるってのは、その苦しみや孤独の深さと比例しているというか、その象徴だったりするのかな。