*ミントの人物伝その3[第161歩・晴]

人物伝ではミントの関心のある人物を取り上げてます。
多くは書けませんので簡単にまとめています。


ミントの人物伝(その3)

二宮忠八(にのみやちゅうはち、1866-1936)


伊予国愛媛県八幡浜出身の飛行機研究家。
ライト兄弟に先駆け有人飛行機を設計した。


1887年(明治20年)、彼が丸亀の歩兵第12連隊に入隊したところから始めよう。
1891年(明治24年)、カラスが滑空して飛ぶ様子を見て「固定翼による飛行原理」を発見する。
そしてカラス型模型飛行器を考案・作成し、飛行に成功する。
これはゴム動力とはいえ、世界初のプロペラ式模型飛行機だった。
1893年明治26年)人の乗れる玉虫型飛行器を考案する。
折から日清戦争が起こり出兵した忠八は、戦場の様子を見て、自分の考えている飛行機を
軍事に利用すれば便利だろうと考え、研究開発を軍に数度提案するも却下されてしまう。


もはや軍には頼れないと考えた忠八は
1898年(明治31年)、軍を辞めて大日本製薬に入社。研究資金を貯めて
1900年(明治33年)、京都府八幡町に作業所を構えていよいよ飛行機の製作を開始する。
京阪電車で大阪の会社へ通いながら、休日には発動機を付けた有人飛行機の設計と実験に熱中した。


ところが
1903年明治36年)、ライト兄弟がその飛行機により約一時間の有人飛行に成功する。

忠八にはそのニュースは相当のショックだっただろう。
もはやどんなに頑張っても世界最初にはなれない!!
翌日、ハンマーで大事にしていた模型飛行機を打ち壊したという。
自分の夢との悲しい決別だったのかも知れない。
夢を断念した彼は仕事が天命と考え、製薬会社経営にまい進してゆく。


1919年(大正8年)、同郷の陸軍中将、白川義則によりかつての研究が評価され
飛行機発明の先駆者として世に知られるようになった。
ついに彼の飛行理論が正しいものとして認知されたのである。


もし日清戦争当時の忠八に軍の資金援助があれば、
彼は世界で初めて空を飛んだ人間になっていたかも知れない。


飛行機の普及発達はめざましいものがあったが、事故も相次いだ。
忠八は製薬会社の仕事をやめた後、八幡の自宅の庭に「飛行神社」を建立し
航空殉死者の霊を弔ったという。


そして彼は晩年に、ついに空を飛ぶことができた。
滋賀県八日市の陸軍飛行場でのことである。
きっと感慨無量だったと思う。


(参照文献)
Wikipedia
「日本史有名人の晩年と死」他(新人物往来社


**最近読んだ本**


びっくり館の殺人」(綾辻行人
「館」シリーズの第8弾である。
どうしても前作の「暗黒館の殺人」と較べてしまう。
途中である程度トリックが解ってしまった。


「幽霊人命救助隊」(高野和明
自殺したため浮かばれない4人の幽霊。
老ヤクザ、気弱い中年男、アンニュイな若い女、そして主人公の浪人生。
神様から天国行きの条件として、自殺志願者100名の命を救うよう命じられる。
地上に戻った4人は必死で救助活動を始める。
理屈抜きで面白かった。


宝満山山頂より