*ミントの人物伝その8[第170歩・晴]

江戸時代に福岡の志賀島(しかのしま)で金印が発見されました。
今回は、倭奴(な)国の使者にこの金印を授けたといわれる人物です。


ミントの人物伝(その8)
光武帝(こうぶてい、B.C.6-57)


後漢の初代皇帝、世祖。名は劉秀(りゅうしゅう)。
国史上最高の名君とも言われる。


8年(居摂3年)、王莽(おうもう)漢王朝を簒奪して新(しん)王朝を建てる。
しかし周の政治を理想とし現実を無視した政治を行なったため
人心は離れ各地で反乱が勃発する。


反乱軍はしだいに統合し、劉玄(更始帝の軍が強大となる。
この中に、傍流ではあるが漢王室の血を引く劉秀がいた。
そして劉秀は更始帝軍の中で頭角を現してゆく。


戦えば必ず勝つ、と言って良いほど強い。
またほとんどの戦いで、劉秀自ら敵中に分け入って戦ったという。
23年(地皇4年)、昆陽(こんよう)の戦いでは
劉秀は決死隊3千人で、約42万人の王莽軍を撃破、壊滅させている。


彼の成功の原因は民衆の支持を得られたことと
彼の器量人徳を慕って多くの優秀な部下が集まったことが挙げられる。


実力を蓄えた劉秀は
25年(建武元年)皇帝となる。31歳。
そして更始帝を殺害した赤眉(せきび)軍を降伏させ
36年(建武12年)中国を統一する。43歳。
光武帝は中国史上で唯一、一度滅亡した王朝の再興を旗印にして
これに成功した人物である。


光武帝となった劉秀は庶民の立場に立った政治を行なった。
人身売買を禁じ、奴隷を解放して自由民を増やした。
屯田兵制度を用いて飢饉対策をはかった。
財政削減を行ない、減税をした。
また特筆すべきことだが
彼は中国王朝につきものの家臣の粛清を一切行なわなかった。
彼の時代に生産力は増え、国力は大いに伸張したと言われる。


中背だがなかなか美男子だったようである。
戦場における彼の姿は、部下達から「天人のようだ」と言われたらしい。


名文家でもあった。
「隴を得て蜀を望む」「柔よく剛を制す」などは彼が残した言葉である。
またジョークを好んだともいわれる。
ユーモアを解したということだろう。


妻は評判の美人陰麗華(いんれいか)であり
その息子の劉荘は、後の明帝でやはり名君として知られる。


ようするに
勇敢で戦闘に強く、部下にも恵まれ、庶民には善政を敷き、男前で、文才もあった。
おまけに妻は美人で、優秀な子供にも恵まれた。

書いていてバカバカしくなるほど出来すぎた人物である。
この人物が、なぜ日本ではさほど有名でないのか不思議に感じるが
それは、「三国志演義」のようなすぐれた宣伝文書が無いせいだと田中芳樹は書いている。


完璧な名君といって良い光武帝であるが、おかしなところもあった。
皇帝になったばかりの頃の話。
遠くまで外出し狩りなどで遊んで、夜中に帰ったため家臣に諌められた。
ところがあまりに繰り返すので、怒った家臣に門を閉じられ
締め出しをくったことが2度以上あるそうである。


こんな愉快な皇帝なら会ってみたいと思う。


(参考文書)
 Wikipedia
 中国帝王図(田中芳樹) 他
画像はWebから借用いたしました。


鷹取山