*ミントの人物伝その24−3[第212歩・晴]

今回は長かったけど楽しく書けました。


ミントの人物伝(その24−3)


ハンニバル・バルカの最終です。


B.C.202年、カルタゴザマ西方で、ハンニバル率いるカルタゴ軍と
大スキピオ率いるローマ軍が激突した。
戦力的には、歩兵の数でカルタゴがローマを上回っていたが
ローマには地中海最強と言われたヌミディア騎兵がいた。
当初ハンニバルは、このヌミディア騎兵をローマ軍から引き離そうとして画策し
これに成功する。
次いで歩兵同士の戦いになったのだが、傭兵から成るカルタゴ歩兵の戦意は低く
ローマ歩兵に圧倒されているうちに、ヌミディア騎兵が戦場に復帰し
カルタゴ軍は包囲されてしまう。
これはカンナエ(カンネー)の戦いの再現だった。
が、異なるのは
包囲されたのがハンニバルカルタゴ軍だったことだ。

カルタゴ歩兵の半数が殺戮され、残り半数が降伏した。
ついにハンニバルの不敗神話が崩れ去ったのである。


第2次ポエニ戦争カルタゴの敗北に終わった。
カルタゴはローマの同盟国になることを強要され、膨大な賠償金を課せられる。
そして以降、地中海における優位性は完全に失われてしまう。


大スキピオハンニバルを殺さなかったばかりか、今後のカルタゴの復興には
必要な人物であるとして、カルタゴ政界に復帰することを許した。
大スキピオハンニバルの才能を非常に高く評価していたのである。


大スキピオはローマに凱旋し英雄と称えられるが
ハンニバルカルタゴに寛容だったことを政敵に攻撃され、やがて後年の失脚につながってゆく。


ハンニバルは、カルタゴ財政再建に成功、賠償金を早めに返済していることからも
軍人としてだけでなく、政治家としても一流だったことが分かる。

しかしながらも彼の強引な財政改革は反感を呼んで、カルタゴ国内では危険になったため
シリア、クレタ黒海沿岸のビテュニアへと亡命する。


やがてハンニバルはこの地で追い詰められて自殺する。64歳だった。
打倒ローマを目標に、生涯のほとんどを戦場で過ごした軍人の末路は
寂しいものだったといえよう。
B.C.183年のこの年は、期せずしてかつての好敵手、大スキピオの没年でもあった。


現在でもハンニバルの包囲戦術は非常に評価が高く
陸軍士官学校の教材として必ず使用されるほど完成度の高いものらしい。


エピソードがある。
ザマの戦いから数年後、エフィソスに亡命していたハンニバル
使節として訪れた大スキピオと再会、こんな話をしたという。
大スキピオ
「史上もっとも偉大な指揮官は誰か?」
ハンニバル
「第一にアレクサンドロス、第二にピュッロス、第三に自分だ」
大スキピオ
「ではザマの戦いであなたが勝っていたら?」
ハンニバル
アレクサンドロスではなく、わたしが史上第一の指揮官だったろう」


B.C.149年、第3次ポエニ戦争勃発。
カルタゴスキピオ・アエミリアヌス小スキピオ大スキピオの義理の甥)率いる
ローマ軍により完全に滅ぼされる。
B.C.146年のことであった。


(参考文献)
 Wikipedia
写真や画像はWikipediaから借用いたしました。





***最近読んだ本***



「凍える牙)」(乃南アサ

女性刑事が主人公。
いわゆる謎解きミステリーとは一味違う詩情あふれた作品。
深夜の高速道路を
女性刑事のバイクとウルフドッグが疾走する様子は
絵画を見ているようだ。
直木賞受賞作品。


古処山