*ミントの人物伝その35−2[第258歩・晴]

引き続き足利義輝です。


ミントの人物伝(その35−2)


1558年(永禄元年)11月、六角義賢の仲介で三好長慶との間に和議が成立。
義輝は5年ぶりに京に戻ってくる。
しかしながら義輝の「将軍職」は相変わらず名ばかりであり
三好長慶の権勢はますますさかんだった。


三好長慶


義輝は将軍の権威を取り戻そうとする。
上杉輝虎(謙信)、武田晴信(信玄)、毛利元就尼子晴久など
諸大名の争いの調停を頻繁に行った。
また、貴人が臣下に自分の名前の一字を与えることを偏諱(へんき)というが
義輝元服当時は義藤だった)は盛んにこれを行なった。
「藤」「義」「輝」偏諱を受けた人物の数は30数人に及ぶ。
その努力の結果、次第に諸大名から将軍として認められるようになる。
また実力者だった伊勢貞孝を三好長慶に排除させるなど、政治手腕はなかなかのものだった。


1564年(永禄7年)三好長慶が病没。
ついに将軍親政の好機到来、とはりきった義輝だったが
長慶の家臣だった松永久秀三好三人衆が黙っていなかった。
松永久秀はこのとき三好三人衆とともに、幕政を牛耳ろうとしていたので
義輝の行動は目障りだったのだ。


松永久秀という男は元々無頼の出身であり、将軍や寺社の権威など一切認めなかった。
1567年(永禄10年)年には東大寺大仏殿を焼失させている。
やがては自分の仕える三好家を乗っ取ってしまい
のちに織田信長に「天下の大悪人」と評される人物である。


1565年(永禄8年)ついに松永久秀三好三人衆
足利義栄(あしかがよしひで、14代将軍)を奉じて謀反を起こす。
義輝のいる二条御所を軍勢を率いて襲撃した。
この時、義輝が頼りにしている近江六角氏は、地元の騒動で近江を離れることが出来なかった。


「来たか。しかしただではこの首は渡さぬ」
義輝は秘蔵していた名刀を十数本取り出し畳に突き刺した。
多数の敵を斬ると、刃こぼれを起こすし、血脂(ちあぶら)で斬れ味が悪くなる。
そのため惜しむことなく名刀を使い戦うつもりなのだ。


やがて敵勢がやって来た。
義輝は奮戦する。
新陰流免許皆伝の腕だ。1対1で負けることはない。

数人倒しては、刀を取り換え再び戦う。
またたくまに数十人を斬り倒してしまう。


あまりの凄まじさに恐れをなした敵勢は
畳で四方から囲みながらその包囲をせばめ、最後は槍で突き殺したという。
または義輝は自害したともいわれる。出来ればこちらを信じたい。
享年29歳。


覇気にあふれ武士らしい将軍だった。
彼の悲劇は悪い時代に生まれたことだ。
時代が変われば名将軍だった可能性は高いと思う。


辞世の句が伝えられている。
「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」


「剣豪将軍義輝」(宮本昌孝)を読んでこの人物に興味がわきました。
フィクションが多いですが面白い小説です。


(参考文献)
Wikipedia
画像はWikipediaから借用いたしました。