*ミントの人物伝その41−2[第284歩・晴]

林則徐は立派だったと思います。
「戦争を引き起こした人物」と呼ばれるのは可哀相です。


ミントの人物伝(その41−2)


1839年、広州に着いた林則徐は、さっそく中国人阿片商人や
結託していた役人を逮捕した。
そしてイギリス商人に阿片の引渡しをせまった。


その時のイギリス貿易監察官はチャールズ・エリオットだったが
当初、一部の阿片を差し出して
「これで全部である」と言い、ごまかそうとした。


しかし、林はごまかされなかった。
彼は、イギリス商人居住区を封鎖して、兵糧攻めにした。
エリオットたちは結局根を上げ
2万箱・1400トンの阿片を差し出したという。


阿片は熱処理して無害化した。
水をたたえたプールに阿片を溶かし込み
そこに塩と消石灰を加えることにより加熱したのである。
さらに林は、阿片貿易を止めるよう、イギリス商人にせまったが
彼らが拒否したので、ついに広州から追放してしまった。


一方イギリス本国では、阿片取締りのニュースが入ってくると
断固、報復のために戦争をすべきだ、との声が上がってくる。
そしてついに
1840年2月、議会で開戦が決定されるのである。
麻薬を取締るのがけしからん、と戦争をするのだから滅茶苦茶である。


林も、イギリスが報復のために、戦闘を仕掛けてくるかもしれない、とは考えていた。
そのため軍事訓練を行なったり、砲台を築いたりして準備を怠らなかった。


ところがイギリスは、本格的に戦争を始めたのだった。
アヘン戦争(1840-1842年)である。
1840年6月、軍艦16隻、輸送船27隻、陸軍約4千名のイギリス軍が中国に到着する。


イギリス軍は、広州周辺の防備が手堅いと見るや、杭州の船山列島を占拠して天津に向かった。


北京の宮廷は天津に近いので大騒ぎ。
肝心の道光帝はゆれてしまった。
このような事態になったのは林則徐のせいと考え、大臣を解任してしまった。


−イギリスとの戦争を引き起こすことになったが、わたしのやったことは正しい。
麻薬を取り締まることが間違っているとは思わない−


1841年、林則徐は中央アジアの新疆(しんきょう)に左遷された。


道光帝はこのあと、弛禁論者を欽差大臣に任命して、イギリスと和平をはかろうとした。
しかし結局和平はならず、戦争が拡大することになる。



大きな地図で見る


イギリス軍は広州、杭州、アモイ、寧波を制圧する。
1842年5月には長江に入り、鎮江を占領して大運河を封鎖した。
これが決定的となり、ついに清朝は降伏して、南京条約を結ぶことになる。
中国が結んだ始めての不平等条約だった。


さて、林則徐である。
新疆に左遷された彼は、ここでも善政を敷き、住民から慕われたという。
ただ、清朝が戦争に敗れた知らせを聞いたときは
どのような気持ちだっただろうか。


1849年に隠棲したが、太平天国の乱が勃発すると、再び欽差大臣に任命される。
やはり彼の実力を知る人は残っていたのだ。


しかし次の活躍の場はなかった。
1850年、任地に赴く途中で死去。
享年65歳。


林則徐は結果的に、アヘン戦争を引き起こしたともいえるが
早晩、両国は紛争が起こるはずだったのだ。
現に1856年、第2次アヘン戦争ともいえるアロー号事件が起こっているのだから。


林則徐は、清廉潔白な、正義を貫いた政治家として、今も有名である。



(参考文献)
Wikipedia
写真はWipipediaから借用しました。