栄光の日々ばかりではありませんでした。
失意の日々もありました。しかし決してくじけませんでした。
ミントの人物伝(その59−5)
1866年、リヴィングストンはまたアフリカの地を踏んだ。3回目の探検である。
今回は王立地理協会からの、ナイル川の水源を探求する依頼もあったので
リヴィングストンは、ザンジバル島から上陸し
ルブマ川からモエロ湖周辺の探索をすすめていった。
ある日のことである。
探検をいやがる一部の人足たちが、薬品類を盗んで脱走するという事件が起こった。
おまけにこの脱走した人足たちが、自分たちの行為を正当化しようと
あろうことか「リヴィングストンは死んだ」と語ったのである。
そのためイギリス政府は
調査隊を数度アフリカに送ったが、一向にその消息がつかめず
やがて、リヴィングストンの死が噂になってしまった。
一方のリヴィングストンは、そんな噂になっているとはつゆ知らず
相変わらず探検を続けていた。
1868年、バングウェル湖を発見。
1870年、ルアラバ川を探検。
この行程中リヴィングストンは、奴隷商人が多くの原住民を虐殺するのを目撃する。
だが体力の衰えていた彼一人の力では食い止めることは出来なかった。
1871年にはリヴィングストンは熱病にかかり
タンガニーカ湖畔のウジジに戻っていた。
1871年11月10日、ウジジに若い白人が訪ねてきた。
米国の新聞社『ニューヨーク・ヘラルド』の特命で
リヴィングストンを捜索していたスタンリー記者である。
「リヴィングストン博士ではありませんか?」(Dr. Livingstone, I presume?)
そう尋ねたスタンリーに、リヴィングストンはにこやかにうなずいた。
なおこの言葉は、のちにイギリスで思いがけず人と対面した時の慣用句として
使われるようになったという。
ヘンリー・モートン・スタンリー
スタンリーはリヴィングストンに帰国をすすめるが拒絶される。
リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため
さらに探検を続けることを望んだのだ。
やがて病気の癒えたリヴィングストンとスタンリーは年の離れた親友となり
タンガニーカ湖を探検して4か月を過ごした。
この間スタンリーは、リヴィングストンの原住民たちを思いやる態度に
非常に感銘を受けたという。
なお後日のことだが、リヴィングストンの『ナイル川水源探求』の遺志は
スタンリーに引き継がれている。
スタンリーは、ルウェンゾリ山地にある水源を発見するが
これがナイル川の源流だと認定されるのである。
1872年3月、スタンリーはイギリスへ向けて旅立つが
その5ヵ月後に、リヴィングストンのもとに57人の従者と十分な物資を送った。
これに力を得たリヴィングストン一行は、バングウェル湖へ向け出発する。
体力が回復したかに見えたリヴィングストンだったが
1873年になると、再びマラリアを発症する。
1873年4月29日にはバングウェル湖南側の村、チタンポへたどり着く。
−私の仕事はまだ終わっていない。奴隷売買の非道さを世界中に伝えなければ−
そう思うリヴィングストンだったが
5月1日、マラリアの複合症により息を引き取った。
享年60歳。
* * * * * * * * *
リヴィングストンの死が伝えられるとイギリス国中は騒然となった。
彼の最後の日記に書かれていた、奴隷商人の原住民たちに対する虐待の実態や
奴隷狩りにたいする激しい抗議は、それを読んだ知識人たちを非常に驚かせた。
このことがやがてイギリス政府を動かし
中央アフリカにおける奴隷取引所の廃止へとつながってゆくのである。
リヴィングストンは探検家として素晴らしい業績を残した。
またアフリカの研究者として大きく学問に寄与をした。
そして彼は何よりも、
奴隷売買にあくまで反対して、原住民の幸福を願った人間だった。
現在でもアフリカの人々は
リヴィングストンのことを『アフリカの父』と呼んで敬愛している。
了)
(参考文献)
「リビングストン」(学研、世界の伝記)
Wikipedia 、他
写真は Wikipedia、Web から借用しました。
***最近読んだ本***
「リビングストン」(ジャネット・イートン)
今回の人物伝のタネ本である。
小学・中学生向けであるが面白く読んだ。
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http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230
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