ミントの人物伝その67〔第567歩〕


フクロウの神様は歌います。
『銀のしずく降る降るまわりに 金のしずく降る降るまわりに』

ミントの人物伝(その67)


知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903〜1922)。
北海道登別市出身のアイヌ人女性。


明治時代以前、アイヌ民族は農業・狩猟・漁業で自然と共存した
平和で穏やかな生活をおくっていた。
しかし明治政府はロシアへの対応だけでなく
鉱物資源なども求めて、本格的に軍人や開拓民を北海道に進出させ
領土拡張を積極的に行うようになる。
このことが、アイヌ人の生活を一変させた。
政府に土地を没収され、その土地が外からやって来た「開拓民」に
安価で払い下げられる様子は、精神的にアイヌの人々を絶望させた。
また明治政府に、土地や漁業権・狩猟権などの生活基盤を
政策的に収奪されたことで、アイヌ人は経済的にとどめを刺され
極貧へと追い込まれた。
明治中頃になると、「座して死を待つばかり」とまで形容された
アイヌ民族アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していた。
Wikipediaよりー


1903年明治36年)6月8日
幸恵は、北海道幌別郡にてアイヌ人の家に生まれる。


この頃にはアイヌ人は日本人名を名乗ることを強制されていた。
学校教育もすべて日本語である。
アイヌ人に対する差別は日常的であり
幸恵は成長するにしたがい、自分がアイヌ人であることを恥と思うようになった。


幸恵は優秀な成績で、旭川区立女子職業学校に進学。
しかしここで心無い言葉が幸江の心を傷つける。

「ここはあんたなんかの来るところじゃないわよ!」


幸恵の傷ついた心を癒してくれたのは家族だった。
とくに同居していた祖母、モナシノウクユーカラを聞くのが
幸恵は大好きだった。

ユーカラは、アイヌ語によって口承された神話や英雄伝説である。
前者を「カムイユーカラ(神謡)」、後者を「人のユーカラ」という。

アイヌ人は動植物などの自然の造物には神様が棲んでいると考えていたが
カムイユーカラの中には、神・自然と人間の関係についての教えが含まれている。
人は自然神を敬い自然とともに共生してゆけば、幸福に暮らして行けるものだ
という教えである。

モナシノウクはそのカムイユーカラの優れた謡い手だったのだ。
なので幸恵は、カムイユーカラを幼い頃から身近で聞くことができたのである。


幸恵が15歳の時である。
旭川にある幸恵の家を、言語学者金田一京助(きんだいちきょうすけ)が訪れた。
彼はアイヌの言語や伝統文化を研究していた。

金田一京助


幸恵は金田一が、祖母のモナシノウクの謡うカムイユーカラを熱心に聞き取り
記録を取る姿を見て不思議に感じた。


次の朝、幸恵は金田一に尋ねる。

「先生はなぜユーカラを研究されているのですか?
アイヌは劣った民族でしょう。
その伝承なんか何の価値もないのではありませんか?」

金田一の答えは意外だった。

「幸恵さん、ユーカラアイヌ人が誇るべき文化です。
ユーカラの中には失われかけているアイヌの伝統、風習、精神があるのです。
アイヌ人は決して劣った民族なんかではありませんよ」


「誇るべき文化、アイヌの・・」

幸恵の目にみるみる涙があふれた。

「わたしは今までアイヌは劣った民族だと思い、自分がアイヌであることも
恥と思っていました。
先生のお話を聞いて、それが間違っていることが分かりました。
わたしはアイヌ語が分かります。
もしよければわたしにも先生のお手伝いをさせてください」

金田一はこれを承知し、学校を卒業したら手伝ってもらいたい、と告げて帰京した。


1920年大正9年)3月。
17歳の幸恵は女学校を卒業するが
この頃、幸恵は心臓を患い外出もままならなくなった。
このままでは、上京して金田一の研究を手伝うという約束を果たせない。


そんなある日のこと。
金田一からまっさらのノートが郵送されてくる。
幸恵に期待する金田一は、東京に来られないまでも幸恵の力を借りたいと考えたのだ。

幸恵は金田一の期待に応えようと、カムイユーカラを翻訳する作業を始めた。

祖母からユーカラを聞き取り

1.ノートの左側にアイヌ語をローマ字で記入。
2.同じく右側に日本語の翻訳文を記入する。
3.ノートの余白には注釈として、アイヌの風習について詳細に記入してゆく。

大変な作業だったが楽しかった。


1921年(大正10年)4月、出来上がったノートを金田一に送った。


ノートを見た金田一はうなった。
アイヌ語は見事に美しい文章に翻訳されていて、また注釈も的確だった。

金田一はこのノートをもとに
アイヌの伝承をまとめた本を出版する事を思い立つ。
相談したのは、民族学者の 柳田國男(やなぎだくにお)

アイヌが語り継いできた貴重な伝承は、失われる前に残す必要があるのです!」

柳田も賛同し協力を約束した。


一方で出版には幸恵の力がぜひとも必要だ、と思った金田一
上京して出版を手伝ってくれないか、と幸恵に手紙を出した。


ー今こそ先生のお手伝いをしなくてはー


娘の身体を心配する家族を説得して、ついに幸恵は上京する。
1922年(大正11年)5月のことである。


東京の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を始めた幸恵。
彼女にとって初めての東京の生活だったが、わき目もふらずに
カムイユーカラの翻訳・編集・推敲作業を続けた。
だが心臓病は次第に悪化してゆく。


1922年(大正11年)9月18日
幸恵は最後の推敲作業を行い、ついにこれを終了させる。

アイヌ神謡集の完成だ。


その日の夜になり、幸恵は心臓発作をおこす。
そして彼女は、まるで自分の役目が終わったかのように
その生涯を終えるのである。

19歳の短かすぎる人生だった。


幸恵が完成させた「アイヌ神謡集」は
翌1923年(大正12年)8月10日に、柳田国男の編集による「炉辺叢書」の一冊として
郷土研究社から出版される。


アイヌ神謡集」の出版は評判になった。
この本により多くの人が、知里幸恵や、アイヌの伝統・文化・言語・風習を
知ることとなった。
さらには、差別されているアイヌ人に自信と誇りを与えたことで
絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族復権と、アイヌ伝統文化の復活へ
重大な転機をもたらした、ともいわれている。


『銀のしずく降る降るまわりに 金のしずく降る降るまわりに』

アイヌ神謡集に書かれた美しい文章だ。

祖先のアイヌ人たちが神を敬い、自然と共生する姿を
幸恵は最後に思い浮かべていたかもしれない。



(参考文献)
Wikipedia
NHKその時歴史が動いた
銀のしずく記念館HP 他
画像はWikipediaから借用いたしました。




[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


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