疲労の蓄積

面白そうな記事を発見。


■むき出しの自由競争では人々は疲弊し貧困が拡大。自由競争を否定すると欲望が抑圧される。この矛盾を解決してみなが素直な気持ちで豊かに生きられる社会。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070209/1170975147


記事を読む前にコメントを書いてみます。


昨今、日本社会には疲労が蔓延してる気がします。この疲労は年々蓄積され続けていますが、いつか耐え切れない線を越えるときが来るのではないかと思ってます。日本人は我慢強いからなのか逆らうことを知らないからなのか分かりませんが、この忍耐の線はまだしばらく越えることはない気がします。でも、もし線を越えたら崩れるのはあっという間な気もします。


こうした状況を見据えて、現状に即したあるべき社会の姿についての意見を目にすることがあります。政治や経済の話を加えて説明されると説得力のある意見に見え、「なるほど、こうなればいいんだ」と納得するのですが、最後はそうした意見は解決策としてはあまり有効ではなさそうに思えてきます。なぜなら、自分の生活とはかけ離れた印象があり、けっきょく自分とは違う世界の話に見てしまうからです。そのためか、社会問題に対する解決方法として「こうなればいい」という意見は、最後は自分にはあまり価値のない話で終わります。


さて、これからリンク先の記事を読んでみます。このブログに書いてあるのはタイトルどおり極端な話で面白いです。僕は、この記事のタイトルを見たときに、社会に疲労が蔓延することについての話を書いているのだろうと思いましたが、予想外の話が書かれていることを期待して読んでみます。



読みました。現状の社会について、とても的を得たお話だと思いました。

●価値分配競争を抑制し、価値創造競争を促す。
●競争に敗れた場合でも、普通に豊かには暮らしていけるようにする。
●生産力過剰になったら、モノやカネより自由時間を享受することを奨励する文化風土にする

現状の社会は、前に進まず同じ場所をグルグルと回り続けているだけのような気がします。それは、これまでの価値観に縛られたまま、その価値を追い続けているためではないかと思っています。それに対して「モノやカネより自由時間」という発想に話を持っていくところに発展性を感じ、好感を得ました。


そういえば昔、自分も似たような日記を書いたことを思い出しました。


▼週休3日制
できるだけ仕事をしたくないので、普段の生活は週休3日制。

本当は世の中、今みんなが働いているほどたくさんの仕事は必要なはずがない。どうにも、わざわざ仕事を作りだして、わざわざ疲れているように思える。世の中に仕事は必要だけど、「わざわざ」の分はいらない。

「仕事は社会を支えるためのもの」と考えている。見回せば、生活に必要なものは十分に生産されているから、もう仕事は十分な気がしないでもない。

産業革命で産業の機械化が進んだとき、生産性が大幅に上がり、多くの人の生活に必要なものを低コストで生産できるようになった。今は情報化で効率化が進み、生活に必要なものをさらに低コストで生産できるようになった。だから労働量を減らしても生活に必要なものが十分に揃うはずだけど、ますます働こうとする。企業に属する限りは、営利を求めて働かないといけないから仕方がないのかな。過剰な生産活動の行き着く先はどこだろう…

まあそれはともかく、とりあえず僕が働く必要性はそれほどないはずだ。と思い、会社を辞めた。もちろん、霞を食べて生きてるわけじゃないから、まるっきり稼がないわけにもいかない。企業に属したら不必要に感じる仕事もしないといけないから、それはイヤ。株とかの不労所得で生活するつもりもない。

そんなこんなで、気がつけば週休3日の生活になった。企業に属していないから、不必要に感じる生産活動に付き合うこともない。当初の目的を達して自分の仕事量を抑えている。ただ、みんなが働いている中に紛れていると、自分も社会に貢献しているかのような充実感があるから不思議だ。堂々としてられる。

こういう勘違いは大切にしたいと思う。