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続々・ノボリゾウ日録 by 岬たく

 

2017-04-30 鎌倉散歩の日

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2017-04-29 湘南平や茅ヶ崎館

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 午前、湘南平の展望台から春霞のぼんやりとした風景の中を、なぜか車体の白だけはくっきり見える、直線状の新幹線を眺めた。写真は上りと下りがすれ違うところ。それから亡父の墓参をし、母の入所している施設に寄る。

 午後は茅ヶ崎の海の近くにある古い旅館、茅ヶ崎館で小津安二郎監督作品「晩春」の上映会と茅ヶ崎館の館内見学のイベントに行ってみた。帰宅後、ダゾンの見逃し配信でJ2の湘南対岡山戦を観戦する。

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2017-04-28 大田区夕刻

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 二年前、宇都宮駅ビルに入っている書店にある「新聞の書評欄などで取り上げられた本」のコーナーに置いてあった本を、表紙に使われている写真が気になって手にした。表紙だけでなく本の中にも、表紙のカラーとは違いそっちはモノクロ写真だが、十五枚ほどの写真が使われているが、どの写真も都市の殺風景のなかから拾い出した、やっぱり殺風景だったり一方でそんな中にも咲いている花だったり、いずれもっともリアルタイムで等身大の今のターミナル駅や繁華街ではない都会の「片隅」を写していた。その本は岸政彦著「断片的なものの社会学」で、買って読んだが、それから二年経って、本の内容はあまり覚えていない。その写真を撮ったのは西本明生さんで、私は須田塾を通じて彼の西本さんとは何回かお会いしたことがあったので本のクレジットを見て驚いたものだった。写真も素敵だ。

 その岸政彦氏が小説を書いて、芥川賞の候補にもなった。最近、候補になった「ビニール傘」が単行本になった。ビニール傘の表紙の写真も大阪の街の、まぁ「よくある、どこかの窓から見える、そこらへんの三角屋根」で、これはその場所だけの風景だが、一方でどこにでもある風景と思わせる風景の標本のようだった。表紙を見ている限り、続けて西本さんの写真が使われたのかなと思ったが、この本の写真は数年前に写真新世紀で鳶の人を撮った作品でグランプリを獲得した鈴木育郎氏だった。この「ビニール傘」にも十五枚程度の写真が使われている。二冊の本の写真を見比べると、西本さんの写真の方が優しさが漂っている。鈴木氏の写真はもっとごりごりしている。街を通り過ぎながら、冷めているというより街に眼を飛ばしているような気分が少し漂う。すげえいいなぁと思った。それで、にわかに私も真似をしてみたくなった。

 岸さんのブログだったかフェイスブックだったか忘れちゃったけど、それを読むと、この小説本のために新たに大阪の街の写真を撮ってもらったようだ。鈴木氏がどこかのブログのインタビューに答えている記事も見つけて読んだ。アラーキーの街の写真を見て、こんなんで有名になれるなら自分にも撮れそうだから写真をやろうと思って始めたが、始めたころはアラーキーの写真は、ありふれたようでいてぜんぜん撮れないことを知りとても驚いた。といったようなことが書いてあった。

 と言うわけで、真似したくなった私は、金曜日の会社帰りに東京都大田区の殺風景な街を一時間ほどぶらぶらし、西本さんや鈴木氏の写真の印象を頭の片隅に置きながら写真を撮ってみた。そんな俄かな真似っこをしても、ルーズな写真ばかりになってしまうものだ。

 写真評論家の清水氏が、いちばんすごい写真は、誰でも撮れるところにあり、誰も撮らない写真だ、といったようなことをなにかに書いていた。誰でも撮れるところにあり、誰も撮らない写真で、なおかつそれほどありきたりのところが写っているのに見るものを刺激し攻めてくる、そういう写真が撮れるといいのだがなあ。私の写真は甘さがただよう気がする。偽のやさしさのようなべたべたした甘さ。それが自分では気に食わないところ。

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断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

ビニール傘

ビニール傘

2017-04-26 夜の車

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 高速道路で空港からの帰り道のリムジンバスの隣を走っていく黒い車を流し撮りする。写った写真はぶれてぐちゃぐちゃだが、輝点がぶれに任せて描いた緩やかなカーヴは、目に見えない光が車に、意思を持ってまとわりついているように見えた。輝点はすさまじく美しく、だけど、悪意を持って、策略のように車を締め上げている。そんな感じに見える。自分の撮った写真だが、写真に写ったものは作意とは違う結果になり、その違いが面白い。そういう場合は自分が撮ったにもかかわらず、その写真は誰か別の人、あるいはなにか別の力が撮ったようで、自分は唯一鑑賞者の立場で写真を見ていて、鑑賞者として感心したりする。こういうことが頻繁に起きるのも写真の神様が降りている状態かもしれない。

 

2017-04-25 遥か遠くに消えかかった

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 九州から東京に戻る飛行機から遠い雲の上にぼんやりと浮かぶ富士山を見つけた。主翼の横の席で写真を撮るのが難しかったが四倍のズームを望遠側にして雲の上に顔を出して浮かぶ富士山をこうして写真に撮りました。いや、正確にはその写真をさらにトリミングして拡大しているのだった。

 この茫洋とした感じの富士山。青空を背景にくっきりすっきり見えている富士山ではなく、一面の雲のなかにまさに童謡にうたわれたように「頭を雲の上に出し」ている富士山。ほかの山々が雲に隠れて見えないのに唯一見えた富士山。

 なんか道標のようだ。いや、この飛行機のこの航路の道標たると言うような意味ではなく、青臭い言い方ではあるが人生が時間の流れのなかを幸せを求めたり、誰かにいろんな種類の愛情を注いだり、誰彼からいろんな種類の愛情を注いでもらったりしながら、右往左往しても未来をたぐり現在を呼吸し過去へと受け渡す連続である、そういうことの道標のようだ。

 こういう風に富士山を見て感じることが日本人なのだろうな。昨年、伊豆フォトミュージアムで見たフィオナ・タンの富士山の動作作品にはそういう日本人の「富士山観」のようなことがよく語られていた。