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続々・ノボリゾウ日録 by 岬たく

 

2016-06-26 仮)

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2016-06-20 仮)

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2016-06-19 仮)

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2016-06-18 新宿

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 新宿PHOTOGRAPHER'S GALLERY 笹岡啓子展 → 銀座AKIKO NAGASAWA 森山大道展 → 品川キヤノンギャラリーS 宮本龍司展と青春18切符ポスター展と見て回る。

 蒸し暑い日本の夏がいよいよ始まったと感じられるような梅雨の中休みの土曜日だった。Tシャツの背中に汗が流れていく。それでも新宿の街には、海の方から吹いてくるのだろうか、ビルの隙間を通り抜けて行く風が気持ちがよい。真夏になればもっと気温が上がり、もっと湿度も上がるのだろう。今日は32℃で40%弱。たしかに湿度はまだ低い。

 一眼レフカメラファインダーから街を見ている。例えばこの写真を撮ったときには、街の景色が素敵だと思っていた。ファインダの中を人や車が動いているのを、ファインダーが四角く切り取られているからか、映画を見ているような気分で見ている。写真にも写っている赤いスカートの人が右から左へ動いている、その赤が一つの注視点になっていて写真を撮ろうと言う動機になっているが、その向こうにある白い建物(伊勢丹の駐車場)や街路樹は最初から必要な背景となっている。二枚ほど撮って、それでもまだファインダーから目を放さずにいると、タクシーがやって来て赤信号で停まった。画面を左隅にそのタクシーを置く方がいいように思う。こんなことを瞬間に考えると言うのか判断と言うのか、そうしながら写真を写す。スマホ自転車の人はいなくてもよかったが入ってきたのだからしゃあない。ありきたりでなにもない、そう言う写真にするには、スマホ自転車の人はちょっと強い被写体要素だろう。

 新宿と言えば森山さんのようなモノクロでアレブレのスナップのメッカのようだろうが、その表現を1960年や70年代に必然としたのだろう、当時の欲望(あるいは熱意)うずまく人々と、その欲望(あるいは熱意)を内包してエネルギーを秘めた街が、今日のこの時間には少なくとも私には見えないし別に見たくもない。もう街は漂白された。そういう感じがするのだった。いや、こちらが漂白されて同時代に属す資格を失ったのかもしれない。

2016-06-12 烏骨鶏とグミの木

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 4月に自家用車を買い替えたあと、それまでよりなんだか車の運転をしている。日曜日、いつも通り早朝の5時台に目が覚めるから、どこかへ行ってこようかなと横になったままスマホで検索する。圏央道のインターが家の近くに出来て、東名でも中央でも関越でも東北でも高速に乗ったまま行けるようになっている。まあね、高速でびゅーんなんていうのは風情のないことで・・・でもそんなことを言いだすと、なにが風情があると言うべきなのかわからないけれど。

新車買ったからもっと運転してみたいのが理由だから、高速をびゅーんでいいわけだ。風情が云々って、それが車に乗りたい理由にないのだから。それなのに、自分のことなのに、こうして言い訳めいた風情なんてことに言及している。自分が車の運転に楽しみを感じたことが、過去にほぼないから、ビックリしてあたふたしている。バイクなら二十代のころ、運転に夢中になっていたこともあるのだが。

でもやっぱり運転そのものを楽しむって感じでもないですな。走行車線を制限時速で、相当遅い車に付いてしまったときだけ、嫌々ながら追い越しをする。繰り返すが、嫌々ながら。峠のカーヴを攻めるなんてつもりもない。

あっ、結局は風情、いや、風情って単語が適当か?・・・実のところ、ちょいといつもと違う場所で自分が望む時間を過ごしたいんだな。望む時間の使い方とは?読書時間を充実させたい、そう言うシチュエーションの妄想がいつもある。そのくせどこかへ出掛けるとキョロキョロ見回しては写真を撮る方に比重が高まる。本などほとんど進まないのが大抵だ。

前提となる「いつもと違う場所」への行き方として、車を運転して行くと言う「手法」が、新車の購入とともに選択の上位に上がった、と言うことだ。やっとこうして自分の行動を自分なりに分析できた。

ではなぜ上位に上がったのか?と、また、考える。それって結局は運転をするときの軽快感のようなことが楽しみを産んでいる、ってことなのか。軽快感の原因は、エンジンや車体の仕様項目に並べられた数値で表現できることもあれば、そうではない感覚的な相性もあるに違いない。

緑豊かな草原や、いろいろな鳥の声があちこちから聴こえる爽やかな森を見渡せるような場所に、スイーツとかランチとかは不要だから、とにかく美味しい珈琲だけを供してくれるカフェなのか喫茶店なのか、その単語の使い分けがわからないが、そんな場所はないものか?

このまえ、仕事で出会った他社さんの若者が北杜市の出身だと言う。それに応じた私の同僚が、北杜市を賞賛した。北杜市って聞いたことがあるようなないような。wikiで調べると

『平成の大合併により、山梨県北巨摩郡に所属する9町村のうち、小淵沢町と双葉町(現・甲斐市)を除き、長坂町・高根町・大泉村・白州町・武川村・須玉町・明野村の7町村が合併して生まれた市である。残った小淵沢町も後に同市へ編入されたことにより、北巨摩郡は消滅した。』

とあった。なるほどね。数十年前にすごいブームになった清里らへんてことですね。じゃあその辺りまでいってみよう、と、こんな程度で行く方向を定めた。

私の子供たちが小学生の頃には清里中央や丘の公園のオートキャンプ場で何度かキャンプをした。萌木の村とか清泉寮にも行った。

萌木の村や清泉寮に一人で行くのはつまらない、気がする。萌木の村で可愛らしいカントリー風かネイチャー派か知らんけど、それっぽい小物や服を買ったり、オルゴールの音色に耳をすませたり、そんなことには興味が沸かなくなった。三十代四十代には、子供が楽しんでいるのを見るのが楽しいことや、そうした小物類が今ほどまん延してなく(今は「カワイイ文化」と括られるほど一般化した。)新しい感じがして興味が持てた。その頃は私にだってこんな理由から萌木のも楽しめた。ましてや、森の中のメリーゴーラウンドに一人で乗ったりしない。清泉寮で、ソフトクリームを食べることも考えられない。

いや、こちらの主張を書いたわけだが、こう言うのを総じて爺化(じじぃ化)と言うのか。一般化した爺化の個人に起きた典型的ではある症状の一つ。新しい感じがする物にも他のどこかで出会えるはずなのに鈍感になり気が付けなくなったか、いやいや、それより、新しいなにかを「いいね」と受け入れる価値観の更新が出来ないんだろうな。一方で「またこれか、もういいよ」と飽きている。そのくせ、じゃぁ新しいなにかを受け入れられるか、そっちに興味を移せるか、と自問すると出来ないと思う。せめて、出来ない、ではなく、出来にくいとしておこうか。だからと言って、自分が若かりしころに親しんだ当時の文化(?)音楽や文学やもろもろ、そればかりを肯定したり懐かしんで、この2010年代なりの同時代の様々に、なんでもかんでも否定的に臨んだり攻撃したり嘆いたり、したくない。しないにしても結局はそんな風にしか思ってないなら「意味ないじゃん」なのかもしれないが。

爺さんが一人で、それなのにニコニコと笑みを浮かべながら、メリーゴーランドに乗ったり、ソフトクリームを食べる。なんてのも、映画の場面として想定出来なくもないか。訳有りの。

萌木の村や清泉寮ではないにせよ、前述の通りの妄想しているシチュエーションと近い読書環境はどこかにあるだろう。希望的観測ね。

昨年の五月、安曇野に行ったときに寄った、某カフェは窓際に一人用の背もたれが大きく座り心地の良い椅子が並び、窓の向こうは畑が広がっていた。あそこは良かったな。妄想に肉薄している。ならば、きっと、北杜市にもそんなところがある筈だ。

でも、ベッドに寝転がったまま検索しても読書環境妄想を実現してくれそうな珈琲の店は見つからない。出発が遅れると中央高速が混みそうだ。

小さな植物園らしいが「シミック八ヶ岳薬草植物園」と言うのを検索で見付けたのでそこを一応のターゲットにして、6時45分頃に出発した。

植物園の開館時間より早く着いたので、近くのミソギ神社ってとこに寄ってみた。調べると、新興宗教団体と芸能界が関係している80年代に造られた神社だ。日本人が神社に求める神聖さのようなことを80年代に事業として企画立案し、それに基づいて用意周到に造られた、のだろう。新しいこと、芸能界や新興宗教が絡んでいること、と言った「なんだかなー、嘘臭いなー」と言った感想を持ってしまう。が、そう言う事情や背景を知らないでいたら、神聖な良い神社だったなぁ、と思ったに違いない。空間設計や建築デザインは、狙い通りに機能している。

下の写真はその神社で飼われていたうこっけい。

時間調整後に植物園に行ってみた。駐車場には何台かの車が停まっていたが、他には、地方テレビで紹介された薬草解説ツアーに参加したい、と職員の方に話している中年男が一人。彼は申込書に名前を書くと、園を散策はせずに車に戻り、その時刻、10時40分まで居眠りをすることにしたらしい。他の車は職員の車なんだろう。入り口にある建物の一階にちょっとした展示コーナーがあり、とあるガラスケースには模型の茸がところせましと並べられている。それぞれの茸模型に名前と、食べられるかどうかや、簡単な解説が添えられている。へえ、と思う。いくつかの茸の解説を読むが、読んだ端から忘れてる。模型は実物大なのだろうか?ずいぶん大きいのが多い。

外に出る。なだらかな斜面に、薬用の果実が取れる樹木のエリア、漢方などに使われる植物のエリア、ハーブ類のエリア、などが作られている。芝生広場ってのもあったかな。広くはない。誰かの家の庭にありそうな小さな温室もあった。回りの森から鳥の声が盛んに聞こえてくる。カッコウが聞こえる。ホトトギスも。

私の他には誰もいない。鳥の声に囲まれてただ一人なのだった。ときどき写真を撮りながら緩やかな斜面を降りていく。果樹のエリアにグミの木が何本かかたまって植えられていた。ちょうど赤や黄色やオレンジ色のの、熟れてないのは緑の、小さな実を付けている。熟す順に緑、黄色、オレンジ色、赤、赤紫、と変わっていくのかな。そう考えるのが当たり前のようにも思えるが、実を目の前にしているとそう言う色と時間経過の相関がわからない。私は最後まで緑の実、隣のあなたは最後まで黄色の実、のように見えるのだ。

調べてみたらやはり実の色は熟す課程で変わっていき赤くなる。上の私の感想は事実とは違うようだ。

グミの木や実を見たことなどなかった。あったのかもしれないが覚えてない。実を見たとたんに、お菓子のグミはここから名前が付いたんだと早合点をした。同じ木なのに上に書いたような色も形もばらつき範囲が大きくて様々だ。

ぐっと接近してみたり、ちょっと離れてみたり。絞りを開けてみたり閉じてみたり。同じ画面の、手前から奥へと列なる葉や実のどこにピントを合わせるかを変えてみたり。今日、持ってきた50mm1.8のレンズでそんなことをしながら、ボチボチいいか、と思うまでたくさん写真を撮る。

しかし、今日のこのグミに関しては、帰宅して写真を見返すと思ったよりまいすうが少なかったし、気に入る写真もなかった。上の写真がグミの木。

Wikiによると

『グミ(茱萸、胡頽子)はグミ科グミ属(学名:Elaeagnus)の植物の総称で、果実は食用になる。 なお、グミは大和言葉であり、菓子のグミ(ドイツ語でゴムを意味する"Gummi"から)とは無関係である。』

とあった。こんなに似ているのにお菓子とは無関係なのだった。

このあとは、結局、寄ってみたくなる珈琲の店は見つけられず、食べログの得点がものすごく高い店で山菜料理を食べてから一時頃に帰路につき、それでも中央高速の相模湖あたりの渋滞はすでに発生していたが、もちろんひどくはなく、帰ってきました。

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