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続々・ノボリゾウ日録 by 岬たく

 

2016-12-10 散歩日和

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2016-12-04 日曜日の朝

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2016-12-03 紅葉見物

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2016-11-26 今井浜 伊豆稲取 伊東

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昨年の秋のはじめ、熊本に家族旅行に行き、その「自由時間」・・・ま、強引にそんな時間を作って、宣言して、奥さんと娘から自由になって、大急ぎ調べておいた場所を回るわけだが、その「自由時間」に喫茶店の珈琲アロー

https://s.tabelog.com/kumamoto/A4301/A430101/43000051/

と、橙書店

http://www.zakkacafe-orange.com/daidai/

に行ってきた。橙書店はこの秋に移転したようだ。私が大急ぎで訪ねた昨年の秋には、時間に取り残されたような古く細い路地にあった。

その橙書店で岩波文庫のルルフォ著「ペドロ・パラモ」を新刊で、二階の古本の中からなにか一冊、購入した。買った古本は「昼の家、夜の家/オルガ・トカルチョク著」だったかもしれない。でも、この本は京都の市役所近くに有る「100000tアローントコ」

http://100000t.com/sp/

でだった気もする。

買った本をすぐに読むとは限らない。一年経ってやっと、この秋に「ペドロ・パラモ」を読んだ。しかも二回も。最初に読み終わってから、解説を読んだら、話の冒頭に出てくる××が、最後のどこどこにも登場して重要な役割を果たしてる、とか、〇〇は話が進むうちに既に死んでいることが判明する、とか、書いてあったが、そもそも似たようなラテンの名前のいちいちを区別して覚えて読み進んでなかった私は、ブツブツと切られた感じで物語を読んでいただけで、解説に書かれたようなエピソードとエピソードの繋がりを、ただの一つとしてわからないまま読んでいたのだ。そんな繋がりをわからないままの読書でも、投げ出さずに最後まで読んだのだから、物語の中から取り出した断片一つ一つがなにかしらの雰囲気を纏って魅力を持っていたってコトなのかな。それとも読者である私が、ずっと微睡むように、表面をなぞるだけの、ただ目が字面をなめている読書を、一冊ずっと続けてしまうほどにぼけていたのか。

二度目の読書でも、やっぱりラテンの名前を区別して把握するのが難しい。ここにこの文章を書くに当たってもタイトルのペドロ・パラモが曖昧になるから、すなわちパラド・ペルモだっけ?ペレモ・パルドだっけ?のように、未読と読了の区別すらいい加減な本のタワーから、この本を探しだして(さすがにすぐに見つかった)タイトルを確認したのだった。

橙書店と書かれた栞が挟まっていたから、買った書店を思い出せたのか、栞がなくても覚えていたのかはわからない。そもそも本を手にしたとき、いちいちどこの書店で買ったんだっけ?と思い出そうとはしない。栞を目にしてしまったから橙書店のことを思い出したってことだ。

この秋の読書と言えば、ほかに数冊に終わった。読書が豊潤じゃない。読書から得た実りも少ない。

借りてきたDVDで邦画「先生と迷い猫」って言うのを観た。これは「後悔先に立たず」の映画だったな。あるいは喪失と孤独の。映画評やネット上で読むことのできる誰かの感想を読むと、偏屈先生が猫探しを通じて、街の人たちとの交流を深め、心を開いていく、何て言うことになっている。それはそれで正しいが、なんちゅうかな、一つ底流には後悔や喪失が圧倒的に流れていて、表層に少しだけ穏やかさが有るってことだ。しかし、表層の少しだけであっても、それが今のことである以上は、最強なのかもしれない。

映画のロケ地は伊豆半島の先っぽの方の下田蓮台寺。明るい光が魅力的に見えたのは、寒い冬の夜に炬燵に入りながらDVDを見たから余計そう感じたのか。

そんなことが背景にあって鈍行電車を乗り継いで伊豆半島東海岸を南下してみる。ロケ地の蓮台寺や下田までは行かなかったけれど、今井浜海岸と伊豆稲取と伊東をぶらついてみる。今月号のカメラ雑誌、アサカメか本カメのどっちかに尾仲さんの写真が載っていた。いつもの尾仲調なのだが、いつになく引っ掛かる。一つの駅に降りて改札を出たそのとき、一つの峠を上り詰め向こうが拓けたそのとき、一つのカーヴを曲がって視界が変わったそのとき。そう言うときに作画したりためつすがめつなんかせずに、その新たに見えた瞬間の驚きと言うのか、いちいち驚いたりしないしな、うーんと、新鮮さの瞬間の視界を媚びずに拾うようなこと、それを真似てみたい。まぁ、実際には尾仲調を生み出す無意識かもしれない取捨選択やテクニックがあるわけで、だから、撮れそうで撮れない。撮れなかった結果が例えばこんな写真でした。漁師町には路地や坂道や、海岸線に沿ったくねくね道があり、猫がいて、小さな神社がたくさんあって、人通りは少ない。

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2016-11-24 初雪 関東平野

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雪が降る、と言う予報にもかかわらず、降らないだろうとたかを括るのは、予報が外れたことが何度もあったからで、予報が当たったことの方が多くても、外れたことの方がずっと覚えているから、そうなる。予想外の方が、驚くのは当たり前か。予想外が、喜怒哀楽のどの感情を揺さぶるのかはそれぞれの出来事次第だが、驚いたことの方が覚えている。そんなわけで雪なんか降らないとたかをくくるのか。

天気予報が、雪にはならないでしょう、と言っていたら、もしかしたら雪になるんじゃないか、なんて思ったのかな。映画「の・ようなもの」、80年代に制作された故・森田監督のメジャーデビュー作のなかで、団地のイベント企画を若手の落語家たちと自治会が考える。団地内のケーブルテレビで宣伝をし、当たった人はスーパーの割引がもらえる明日の天気予想クイズを企画し、青空寄席に集客すると言う仕掛けと決まり、これがうまく行くと言う話の展開がある。このあと団地に住む落研女子高生と若手落語家の恋話に発展していく。

その天気予想は、可能性の低い天気になって、それを当てた場合はスーパーの割引率が高い。右往左往する人達の場面が挿入されているなかに、白衣を着た若い男、ちょっと病的で人付き合いが少なそうな男が、屋上に望遠鏡を据えて空を見たあとに、明日は雪だ、と呟く場面があった。書き忘れたがこの団地イベントは春だったか秋だったか、少なくとも雪など降らない季節のことなのだ。

雪の予想が外れてしょんぼりする男に、なぜか彼には似合わない感じの 美人の恋人が、内心は怒っているのを装う風にヨーヨーかなんかを弄りながら、外れたのはしょうがない、大事なのはプロセスよね、と呟く。

あの映画はこんな、ちょっと面白い人たちのやらかすエピソードを小気味良く繋ぎながら成り立っている。その小さな場面のいちいちに軽みがあって、しらけない。いろんな分野の、後に大御所になった人たちの、デビュー作品だけが持っている瑞々しさがそこに息づいていた。

昨年か一昨年か、このデビュー作の30年後と言う設定で、森田芳光監督へのオマージュとして「の・ようなもの のようなもの」(・の有無とかは違ってるかも)がデビュー作の出演者に加え、後年の森田作品に出演していた松山ケンイチや北川景子を迎えて作られた。そのDVDを借りてきて見た。これはリスペクトの結果の映画だったな。「の・ようなもの」を当時見た私にとっては心暖まる佳作。小さなエピソードはその軽さや瑞々しさではどれひとつとして「の・ようなもの」を越えていない。まるで越えてはならない不文律があるように。でも、若者を主人公にした「の・ようなもの」と、彼等の30年後を描いた新作を比べてもしょうがない。まさにこの二作のように、人は瑞々しさや軽さを失うかわりに、別のなにかを、良い言葉なら思いやりとか?悪い方なら投げやりとか?まとうのだから。

長々と書いたけれど、雪など降らないとたかをくくっていたら雪が降って、こんな昔の映画の場面を思い出したってだけです。

写真は東北新幹線車窓から。東北新幹線に二階建てMaxが使われなくなって数年、二階の窓側に座れたときにはしょっちゅう写真を撮ったものだった。防音壁で視界が切られるので一階からだと写真を撮らなくなった。これも下半分は防音壁が写っていたから、たくさんトリミングしてます。