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続々・ノボリゾウ日録 by 岬たく

 

2018-02-04 初台へ

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 初台にあるオペラシティアートギャラリーへ谷川俊太郎展を見に行く。著名な方々とやりとりした葉書が展示してあった。文学館などで作家を取り上げた企画展でも葉書や手紙の展示をよく見るから特別目新しくはないが、谷川俊太郎のデビュー当時と思われる葉書の相手が、高村光太郎とか三島由紀夫、室生犀星もあったっけ?そういう名前を見ると、いま生きている谷川俊太郎に対してあまりにも現代国語の教科書のなかの人物って感じで、そこにむかし交流があったということが、考えてみればぜんぜん不思議ではないのだが、名前を見た瞬間にはびっくりしてしまった。

 自分で撮った写真や、幼少のころからの家族写真や、上記の葉書類や、収集した?物や、作品のレコードや本や、別荘を一年間定点観測したビデオや、最近の散歩の様子を新進気鋭の写真家川島小鳥が撮ったものや、そういうのが展示されているわけだが、やっぱり掲出してある詩か詩の一部を読むのが楽しい。

 誰かが一緒にいたら、その文章を読んで感想を述べあったりできそうな展示だと思ったが、そんな風にこっそりおしゃべりをしている人はほとんど見あたらず、グループや家族や恋人と来ていても、みな黙々と読んでは感想をうちに秘めて持ち帰っていく感じがしたな。

 最初の部屋はたくさんのモニターを連動させながら、谷川俊太郎だけでなく複数の人の声や音楽を交えて詩を音(朗読とも言えるし、音楽とも言えるし、そのどちらかでもないとも言える)で示している。

 その中の一編が心に引っかかった。

 ここ

 

 どっかに行こうと私が言う

 どこ行こうかとあなたが言う

 ここもいいなと私が言う

 ここでもいいねとあなたが言う

 言っているうちに日が暮れて

 ここがどこかになっていく

写真を撮っていると、同じ場所でも、光や影や色温度や植物の状態や雲や風によるなにかのそよぎや、そういう一つ一つの違いを考えると同じ瞬間は二度とないと感じる。だからまず今この瞬間ここにいるからそこを撮る、なんてカッコ付けて思ったりする。時間のことが書かれた詩を読むと、そんな風に思うことを連想してぐぐっと来たのかな。

 例えば上の写真は、湘南新宿ラインの車窓から撮った藤沢あたりの景色だが、撮れるようでいて、同じ光景は二度と撮れない。

 どこかになっていく「ここ」に一緒にいるあなたは、この詩を書いていたときの谷川俊太郎にとって誰だったのかな、とかふと思う。

 下の写真のPCは谷川俊太郎が詩を推敲していく様子が再現展示されたもの。

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2018-02-03 夕方の海岸散歩

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 茅ヶ崎漁港の水揚げ場の屋根の裏から燕が数羽飛び出して来ては船溜りの海の上を鳴きながら勝手気ままに飛んでいる。勝手気ままというのは人間の感想で早くもそこに餌となる虫が飛んでいるのだろうか。たしかにここ数日の寒さと比べると少し暖かい日だった土曜日、2月3日。

 それにしてもこんなに早い季節に燕は渡ってくるものだろうか?と思って、帰宅してからネットで検索してみたが、やはり渡ってくるのは三月〜四月とあって、こんなに早く日本に到着する燕はいないはずだ。と言うことは、おなじく燕で検索して出てきた記事にもさかんに書いてあった、日本で越冬する越冬燕ということに違いない。(水揚げ場の屋根の裏には例の泥を固めてできた巣があって、そこを接写したのを拡大してみたらやっぱり燕だったから、鳥の種類の見間違いではなかった)

 越冬燕で検索すると、演歌の曲のことばかりが出てくるが、四国や九州など比較的暖かい地方で見られるらしい。茅ヶ崎で越冬燕と言うのは珍しいのかしら?

 港まで歩いていくあいだの車がぎりぎり行き交えることが出来るくらいの道幅の道路で、私が進む右側の工事現場(以前は駐車場だったがマンションでも建ちそうだ)に初老の小柄だががっしりした体形の、当然頭はスポーツ刈りというか三分刈りの作業靴姿の大工さんがいて、道の左側に停まった同業者だろうか軽トラ運転席の男と話している。二人が楽し気に話している会話が聞こえてくる。

 右の男が、この工事現場から自宅への帰り道に「とり介」があるから必ず引っかかってしまう。と、笑いながら言っている。

すると左の男が、いいじゃねえか新鮮な魚が食えるんだから、山じゃあ食べられないよ。と、答えている。

それから二人はひとしきり笑いあって、じゃあな、と左の男が言ってから軽トラが動き出した。

 とり介っていう店は、焼き鳥屋なのか?でも新鮮な魚も出る居酒屋なんだな。私はそう推理(ってほどでもないか)する。

 しかし、帰宅してから、とり介・茅ヶ崎駅北口店、もしくは南口店を「ぐるなび」で調べると、海鮮系の料理があるようには思えないな。左の男の思い込みだったのか?

 もう日が落ちたころだが、砕ける波のあたりの青が美しい。当然だけれど冬至のころより暗くなるのが遅くなっている。燕を見たせいもあり、あるいは男たちのは会話がのんびりしていることもあるのか、少し春を感じた気になる。珍しくコンデジの焦点距離を目いっぱいテレに引っ張って、この写真を撮りました。

2018-02-01

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 由布岳あたりの高速道路を走るタクシーから撮った雪景色です。

 車中から見ているととてもきれいで写真を撮りたくなるが、いざ撮ってみると、ぶれていたり写真に写ってほしくない標識やガードレールが写っていたりで、目で見てきれいと思う要素は、そこにある光景の全部からではなく、すでに取捨選択した見方をしているってことかもしれない。

 それでも一枚からトリミングして、なるべく峻厳ではなく丸っこい感じのところを切り出して、それが上に載せる写真です。

2018-01-31 九州へ

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 羽田から大分へ。窓側の席だったので、ずっと写真を撮っていく。何枚も写真が撮ってあって、この写真の前後にも同じような場面の写真が続いているのだけれど、撮っているときには、さっきのよりこっち、こっちより次の、といった一枚一枚のなかの取捨選択が可能な優劣までは当然見極められないで、帰宅後に、これと同様の場面の写真が例えば五枚あったら、それを矯めつ眇めつしながらモニターにこれとこれじゃあどっちかな?あれとこれじゃあどっちかな?と比較検討して最後にここにアップするのを選んでいる。ってことは撮っているときにはその詳細な選択ができないってことだから、だから一枚こっきりではなくて何枚も「数を撮れ」ってことになるわけだけれど、でもこの事後の選択をしないってことを決めると、撮影のその場面場面でもっと詳細な取捨選択が撮影行為と同時に可能になるのか?あるいはフイルム時代にはそういう能力がいまよりちゃんと確保されていて五枚も六枚も撮らなくてもこの一枚だけを撮っていたのか。いや、この一枚よりももっとよい一瞬をちゃんと撮っていたのか?

 不思議なのは、撮っているときにはその五枚六枚のなかの優劣なんか、あるいは優劣というより撮影者の私が鑑賞者に回ったときの嗜好ってことなのだけれど、撮っているときにはどれがその嗜好に合っていたかなんかわからないのだが、鑑賞に回ったとたんいその嗜好への合致度合いには五枚六枚のなかで大いなるばらつきがあって、どうみてもこれが一番だろというのが簡単に選択できた・・・というのがこの離陸待ち飛行機と着陸してくる小さな飛行機 〜たぶん小さく右の方に写っている主被写体とは程通り着陸してくる飛行機なのだが、これがあることが私の気を引く〜 のときの選択の結果なのだった。しかしもちろんいつだってそうではなくて、一方では五枚程度どころか十枚もそれ以上も撮ってあって、だけれどもどの一枚を選んでも同じことでそんなに枚数を撮る意味などどこにもない、という場合もあるのだ。

 この上の写真に戻ってではほかの四〜五枚とこの一枚のどこに差があるのかを解説せよと言われてもわからない。感覚的なことなのだ。これを読んでいるひとはほかの四〜五枚の提示すらされてないのだからますますわからない。

 だけど画面左の滑走路に描かれたラインのカーヴの位置とか、飛行機の黄緑色が全体の半逆光の明るさに合っているとか、そういう結局は構図の教科書のようなことが、たまたま合致している、教科書的法則にたまたま合致している、ってことに過ぎないのだとすると、撮影のときの自由気ままさに反して鑑賞者(=選択者)になった私の尺度やいかにも既存であってつまらない選択をしているのかもしれない。

 その選択のつまらなさを正してくれていたのが須田一政ワークショップに通っていたころの最大のメリットだったのかもしれない。とすると段々とその効能も薄れてきて既存に埋没しているのではないか?という危惧を覚えたりすることがあります。

 下の写真は富士山の裾野あたりを飛行機から見下ろしたところ。

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2018-01-27 恵比寿

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 恵比寿の写真集専門店「Nadiff a/p/a/r/t」の地下ギャラリー森山大道写真展景(K)を見てきた。

www.nadiff.com/?p=8436

その前後に恵比寿駅の周りをぐるぐると歩いては写真を撮った。寒い冬の休日。

 子供のころに見たアメリカ産のテレビアニメとかで誰か(猫とネズミの物語(それってトムとジェリーだっけ?)であれば猫の方)が何かをやってしまうか我慢するかで心のなかにいい自分と悪い自分が葛藤していて戦うような場面があった・・・のかな?記憶もあいまいだから「トムとジェリー」というのは大いに怪しいが。それでたいていは悪い自分が勝ってしまって、実際に悪戯をやってしまうのだが、その後にこっぴどく叱られて深く反省するような物語の仕立て、かしら。もうきわめていい加減なことを言っているだけかもしれません。

 いい自分と悪い自分というのは明確な定義があるものだろうか?幼児向けアニメのようにわかりやすい物語ばかりで世の中が出来ているわけではない。

 写真展「景」の会場に掲げられていた森山大道の文章は、なにかのエッセイからの引用だったと思いますが、三匹の・・・はてさて、なんだっけ?・・・読んだばかりなのに忘れてしまったが、ネズミと犬と猫・・・違うだろうな・・・なにかの三匹が心のなかであそこを撮れここを撮れあっちを撮れと命じてきて、その指示のままに写真を撮っているような「気分」の解説が書いてあった。撮っているときはあれこれ考えない、目はレーダーのように先を先を見ていて、そして現れるものを撮っていく、そんなことを森山大道は数年か十年か前のNHKの番組のなかで言っていた。すなわち意識的ではないというかあまり考えて撮っていないということなのかな。それで自分の意識ではない無意識のようなところで行われている撮る撮らないの選択を、自分ではない三匹に置き換えて考えるとその「気分」「感覚」が判りやすいからあの文章になったのだろうか。

上記の本写真展の案内ページにちょっとだけこの三匹のエッセイからの抜粋がありました。

「犬は盛り場へ行けというし、猫は路地裏へ入れというし、虫は風俗街はどうよという。俗世俗界を俗のままにコピーしつづけること、東京中をうろつく日々こそ、ぼくが生き写真を撮る意味の全てなのだと感じる他ない」(写真集『K』より、森山大道「今日の三匹」抜粋)だそうです。

 

「Nadiff a/p/a/r/t」の一階にはまだ私が参加しているニセアカシア発行所の書籍販売コーナーが設置されておりまして、そこには私、岬たく の最新写真集「ツェルニー」も置かれています。ほかにもニセアカシア各号もあります。恵比寿のナディフに行った折には是非ニセアカシアコーナーもご覧くださいね。